関茶屋(東区)・陶荒田神社(中区)

東区は、堺市の中東部に位置し、ほぼ全域が丘陵地であるが、住宅地のほか田畑も多く、かんがい用ため池が点在する。

また、南北朝の頃、高野線北野田駅の南の方、西除川のほとりに野田城があり、荘園時代は野田の荘といわれていた。

高野山を目指すこの参詣道には、女人堂までの一里(約3.9キロ)ごとに里程石が残っており、ここ東区に、高野山女人堂十二里の里程石がある。

最初の「是より高野山女人堂江十三里」は、竹内街道との分岐点にあるが、高野山女人堂への13本の里程石は安政4年(1857年)に建立された。

高野山の女人禁制は、1872年(明治5年)まで続き、女性は一歩たりとも入山を許されませんでした。

そのため、高野山に通じる主要な道には「女人堂」というお堂が建てられ、女性はそのお堂までしか立ち入ることができませんでした。

また、高野真言宗の信徒にも当然、女性の信徒がいましたが、女性の信徒でさえも大師のお側近くへ立ち寄ることすら叶わなかったと云われております。

 

したがって、この女人堂へ籠り、現在の「弘法大師御廟」へ向かい、祈りを捧げることが、唯一、可能だったようです。 

本来の仏教には、ある場所を結界して、女性の立ち入りを禁止する戒律は存在しない。

道元の『正法眼蔵』にも、日本仏教の女人結界を「日本国にひとつのわらひごとあり」と批判している箇所があり、法然や親鸞なども女人結界には批判的であった。

ただし、仏教は、性欲を含む人間の欲望を煩悩とみなし、智慧をもって煩悩を制御する理想を掲げている。

そのため出家者の戒律には、性行為の禁止(不淫戒)、自慰行為の禁止(故出精戒)、異性と接触することの禁止(男性の僧侶にとっては触女人戒)、猥褻な言葉を使うことの禁止(麁語戒)、供養として性交を迫ることの禁止(嘆身索供養戒)、異性と二人きりになることを禁止(屏所不定戒)、異性と二人でいる時に関係を疑われる行動することを禁止(露処不定戒)など、性欲を刺激する可能性のある行為に関しては厳しい制限がある。

また修験者は、半僧半俗の修行者であるが、その場合でも、修行中は少なくとも不淫戒を守る必要がある(八斎戒の一つ)。

ちなみに在家信徒も、淫らな性行為は不邪淫戒として禁じられている(五戒の一つ)。

また在家者も坐禅や念仏などの修行に打ち込む期間だけは不淫戒を守ることが薦められる。

日置荘に、出雲大社大阪分祀があり、別名「初芝さん」と呼ばれている。

本殿・拝殿のほか、神楽殿、祖霊社、金剛不動明王社を有し、本分祠では神仏習合している。

この大阪分祠を開いたのが、初代教主・吉村亀治(1913~1984)である。

大国主命に加えて、火之迦倶槌(ひのかぐつち)神を主祭神としており、縁結び・悪因縁解除などに御利益のある神社として有名である。

これについて亀治は、火之迦倶槌大神の神徳で悪因縁を切り、大國主大神の神徳で良い縁を結ぶことで人を助けるのだと語っている。

昭和10年頃、初めての兵役を終えた亀治が、若者の集まりで箕面にハイキングへ行った時、亀治は一人だけ道に迷い、西方の五月山の方へ出てしまったのだ。

その折愛宕神社に参り、出会ったのが当時の宮司、内海敏勝だった。

内海宮司は一目で亀治の神力を感じ取り、「お前が来るのを待っていた」と言う。

火之迦倶槌大神(ひのかぐつちにおおかみ)が、自分(内海)の後を継ぐのは、亀治しか無いと呼び寄せたのだと語った。

 

亀治は祝詞などについてまったく知らないと断ったが、これをきっかけにして愛宕神社に何度も参拝し、内海宮司から神道や人助けについて教わるようになった。
ちなみにこの五月山の麓には出雲大社の池田教会があり、愛宕神社への参拝を続ける内に出雲大社教の人とも知り合うことになる。

亀治はこの後も昭和十五年、昭和十八年と軍隊に召集されることになるが、昭和十八年の召集の最中に内海が病に倒れた。

この時、内海は「私の御剣を受けて河内の国で火之迦倶槌大神様を広げてくれ」と頼み込んできた。

こうして吉村亀治は、宗教家としての道を歩むことになる。

人助けをはじめると亀治のもとには、すぐに人が集まりだし、道を教え病気を治す「生神さま」がおられると噂が広まった。

昭和二十二年には「愛宕大権現 河内分社」となり、その三年後の昭和二十四年四月、出雲大社池田教会の仲立ちにより出雲大社教に参入し「出雲大社教河内教会」となる。

この後、河内教会は教勢をどんどん伸ばし、約九年後には出雲大社の教会で最高位の「分祠」となり、現在の出雲大社大阪分祠となった。


日置荘には他にも萩原神社があり、社伝によれば、平安時代の天徳3年(960年)、菅原道真が祀られ、近世には萩原山日置天神と称されたと言う。

『日本書紀』に出てくる古道の「茅渟道」は、竹内峠より富田林喜志を通り、平尾・黒山から当地の日置荘、関茶屋を経て、和泉に至る道と推定されている。

当地はまた、北緯34度32分の線上、いわゆる「太陽の道」にあたり、このライン上の特徴の一つ、「日置」の地名や現在も日置姓が多い地域などが含まれるが、当社はその最たるものである。

上の左の画像は、下草尾・関茶屋自治会の夏祭りで、「こも」を巻いた直径1.5mの大太鼓を担ぎ町内を練り歩きます。

午後8時ごろ出雲大社大阪分祠の境内に設置した櫓にその大太鼓をつるし、盛大に盆踊りを繰り広げます。

右の画像は‟泣きすもう”で、萩原神社の主祭神、菅原道真公の祖先は相撲の祖として知られる野見宿禰です。

こうしたつながりや、戦前に萩原神社で行われていた若者たちによる奉納相撲をかたちを変えて復活させようと、平成8年に萩原神社の神事として始まりました。

裃を身につけた宮総代(神人)に抱っこされた赤ちゃんが清め祓いを行った土俵上で東西に向かい合い、大きく泣いた方が勝ちという、観客の笑いの絶えない神事です。

開催日は毎年4月29日で、3月から参加者の受付を始めています。

道の旅人は、日置荘を経て関茶屋迄上り、中区に入る。

中区は、北西の平野部と南東の泉北丘陵との間に位置している。

区の北側半分が市街化区域となっており、泉北高速鉄道開通以降、宅地化が進んでいる。

南側は市街化調整区域になっており、宅地の間に農地(畑)と灌漑用溜池が点在する。

関茶屋を越えると、中区福田に入るが、その由来は、陶器藩の小出有棟(こいでありむね)が大阪の豪商福島屋次郎兵衛の財を借り新田を開発し、その福島屋次郎兵衛の頭文字をとって福田となった。

そもそも陶器藩(とうきはん)は、和泉国大鳥郡北村(現在の大阪府堺市中区陶器北)に慶長9年(1604年)から元禄9年(1696年)まで存在した藩である。

陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は、大阪府堺市中区上之に所在する神社で、和泉国大鳥郡の式内社。

須恵器(日本の陶器の祖)の発祥地に鎮座しており、別名、陶器大宮と呼ばれている。

陶器のえびす様として有名で、1月の初戎祭には、技術・製造業・商売にかかわる業者達でにぎわう神社である。

 

崇神8年(紀元前90年)、崇神天皇により、陶邑の大田の森(現在地)に住む太田田根子が神主(三輪山)として選ばれた。

 

当時大規模な疫病がはやり、国土が荒廃したある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げた。

天皇は、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主神を祀らせた。 (『日本書紀』巻第5崇神)

 

名前の由来は、同じ陶邑の大田の森に住む「荒田直」(あれたのあたひ)にあやかってつけられたが、荒田直は祭神である高魂命(たかみむすび)の直系の子孫だったとされている。

道の旅人はこうして、陶邑と呼ばれたであろう福田の町を通り、狭山市に入ることになる。

もはやここらは丘陵地帯だと思うけれど、この街道沿いに窯跡を見出したいものだ。