四 平安時代前期の漢文学

僧空海(774-835)は、797年『三教指帰(さんごうしいき)』の初稿を書き上げ、蛭牙(しつが)公子、兎角(とかく)公、亀毛(きもう)先生、虚亡(きょぶ)隠士、仮名(かめい)乞児の五名による対話討論形式で叙述され、戯曲のような構成となっている。

亀毛先生は儒教を支持しているが、虚亡隠士の支持する道教によって批判され、最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、大乗仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されている。

 

『請来目録』によれば、空海は長安で名刹を巡り歩き、偉大な僧、青竜寺の恵果(745-805)に出遭い、すぐに灌頂を受ける準備に入るよう勧められた。

空海の進歩に満足した恵果は、「真言秘蔵は経疏に隠密にして、図画を仮らざれば相伝すること能わず」と教え、日本に持ち帰れるよう、様々な絵師にいくつもの曼荼羅を描かせ、鍛冶屋に青銅の法具を造らせた。

 

空海が文学史上に地位を得ているのは、主として『性霊集』に収められた漢詩と漢文により、詩はほとんどが仏教詩である。

日本文化への空海の寄与は多方面にわたっており、何よりも日本の重要な仏教宗派の一つ、真言宗の開祖であり、この宗派が生み出した芸術と学問に大きく貢献した。

熟達した漢詩人、中国文化の熱心な讃美者ー『嵯峨天皇』

三冊もの漢詩文集が編纂されたことが、嵯峨治世における漢文学の隆盛のほどを物語ってはいるが、最初は814年に完成した『凌雲集』である。

五言詩が大部分だった『懐風藻』(751・2年)と異なり、『凌雲集』の半数が七言詩であるのは、詩人が自信をもって長句を扱えるようになったことのほかに、おそらく中唐の文学的傾向を反映してもいるのだろう。

 

『凌雲集』の序文は小野岑守(みねもり:778-830)の手になり、文章が経国の大業であるという魏の文帝の言葉で始まり、ほとんどが嵯峨天皇の仁愛と文才の讃美に費やされている。

この漢詩文集の冒頭には、平常天皇作の二首がおかれ、第一首は桃の花、第二首は桜の花をうたったもので、月並みの作品である。

 

二番目の勅撰詩集『文華秀麗集』(818年)には、嵯峨天皇を取り巻く漢詩人サークル活動を反映したもので、最後の勅撰漢詩集『経国集』(827年)は、先行の勅撰集から抜け落ちたものを補い、8世紀初頭以後の詩のほかに、数名の女流詩人の名も見える。

ところが、これら三つの勅撰漢詩集には、紫式部の日記にもあるように、これから一世紀もすると、漢籍を学ぶのは女性らしくないと言われるようになる。

 

平安朝漢文学の発達で最も重要な出来事を一つ上げるとすれば、白居易(白楽天:772-846)の作品集が紹介され、日本人は白居易の詩をよんで、詩人その人を知った気分になった。

 当代随一の詩人だった小野篁にしても、初期の作品は『文選(もんぜん)』の伝統に従い、後期の作品は白居易の影響にある。(20210125) 

学問の家系に生まれた大詩人ー『菅原道真』

菅原(すがわら)道真(845-903)は。9世紀後半で最も重要な漢詩人であり、古今を通じて最高の漢詩人だという言評価も多い。

道真は、学問的業績でも詩作の才能でも祖父(清公:770-842)と父(是善:812-880)をはるかに凌いでおり、自身の作品集は『菅毛文草』と言い、それ以後の晩年の詩は、ほとんどが流罪先の大宰府で書かれたものであり、『菅家後集』に収められている。

 

父是善(これよし)は弟子の島田忠臣(828-892)を道真の教師につけ、その後道真は、中国人学者から、古典を言語の発音と語順で読むことも習ったという。

872年渤海客使が来訪したときは、その接待役に任命されているが、主要な任務はあくまでも文章の起草であった。

 

886~890年の4年間を道真は讃岐で過ごし、その生活が道真の詩に新局面を開き、讃岐に赴いて初めて貧しさと・老いと、人間の苦しみを知り、新局面を開いたのである。

そして901年大宰府に流され、903年客死するのだが、表現媒体に漢語を使用したため、精妙な中国詩学にまで教養の及ばない後世の読者には、よく理解されなかったのだ。

 

【追伸】

道真の詩の比較表現は、さまざまに白詩の影響を 受けている。(20210201)