二 奈良時代の漢文学

風土記

『古事記』が朝廷に献上された翌年(713年)、各地に風土記編纂の命が下ったその趣旨が、各地の古伝承・地名・地誌、その土地に産する作物・鉱物資源・動植物を報告することである。

完本として唯一残る『出雲国風土記』は、713年から733年にかけ、神宅臣全太理が率いる学者の一団によって作成された。

しかし、出雲の人々がどのように暮らしていたかはほとんどわからず、『常陸国風土記』のほうが筆致は優雅で『古事記』が朝廷に献上された翌年(713年)、各地に風土記編纂の命が下ったその趣旨が、各地の古伝承・地名・地誌、その土地に産する作物・鉱物資源・動植物を報告することである。

 

完本として唯一残る『出雲国風土記』は、713年から733年にかけ、神宅臣全太理が率いる学者の一団によって作成されたが、出雲の人々がどのように暮らしていたかはほとんどわからない。

むしろ、一部欠損している『常陸国風土記』のほうが筆致は優雅で、ほかに、『播磨国風土記』・『肥前国風土記』・『豊後国風土記』が残っている。

 

ところが、日本最初の勅撰国史に風土記が寄与するところはあまり大きくはなかったようである。

畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)、東海道(伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・下総・上総・常陸)、東山道(近江・美濃・飛騨・信濃・陸奥)、北陸道(若狭・越前・越後・佐渡)、山陰道(丹後・丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見)、山陽道(播磨・美作・備前・備中・備後)、南海道(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐)、西海道(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐・対馬)(20200813)

日本書紀

『古事記』より8年遅れて完成したのだが、紫式部の博識を称える渾名が“日本紀の局”だったことから、平安時代は『日本紀』と呼ばれることが多かったようだ。

とはいえ『日本書紀』は全30巻、系図1巻(系図は現存しない)からなり、天地開闢から始まる、神代から持統天皇代までを扱う編年体の歴史書である。

 

文章全体が、欧陽詢(557-641)の芸文類聚(げいもんるいじゅう)からの語句や引用で潤色されているというのだ。

ほかに梁の昭明太子(501-531)が、六朝以前の文学作品から編んだ『文選(もんぜん)』、あるいは仏典などからも。

 

明らかに『日本書紀』は、『古事記』のような文学的華やかさはなく、歴史的意図があらわになっているのだ。

海外の読者を意識していたなら、その意味するところは、金印や邪馬台国、そして倭の女王卑弥呼と台与の事実を、暗示的に挿入する必要があったのだ。

 

【追伸】

芸文類聚(624年)100巻・北堂書鈔(605年-618年)全160・初学記(728年)30巻・白氏六帖全30巻は四大類書と称せられる。(20200817) 

 

全体は漢文で記されているが、万葉仮名を用いて128首の和歌が記載されており、また特定の語意について訓注によって日本語(和語)で読むことが指定されている箇所があり、邪馬台国を(やまとのくに)として大和朝廷と結びつけたのではないだろうか?

『日本書紀』と『古事記』

『日本書紀』が、外国文献を参照している点も、国内資料だけに頼った『古事記』とは異なる。

とくに百済の資料が多いと指摘するのだが、この百済文献自体は残念ながら現存しないという。

 

日本を「日本」と呼び、天皇を「天皇」と呼んでいることから考えると、百済が660年(第37代斉明天皇)に新羅に滅ぼされたのち、日本に亡命した渡来人によって編まれた資料なのかもしれい。

出来事に克明な日付を与えているのも、『日本書紀』が海外の読者を意識していたことをうかがわせる。

 

ほとんど日付を示さない『古事記』とは対照的に、『日本書紀』は紀元前660年の神武天皇即位に始まり、あらゆる出来事に、年と月、時には日までも与えている。

神代においても、アマテラスの誕生にも、ヤマトタケルの火責めの出来事にも違いがあるが、教養ある日本人がまず紐解いたのは『日本書紀』だったものも、徳川時代に国学が盛んになり、『古事記』が大きな影響を与えるようになった。(20200824)

【追伸】

『古事記』には序文があり、出自が明らかなのだが、ただ一つ、稗田阿礼につてだけが謎のまま伏せられている。

 

『日本書紀』には、天武天皇紀に12人の名前を挙げているのだが、多くは完成の750年にはなくなっており、呉音・漢音、あるいは唐音に通じた渡来人・帰化人、留学生や僧たち、そして素養のある歌人たちが参加したに違いない。

聖徳太子

『日本書紀』に登場する歴史的人物では、聖徳太子(574-622)が最も注目され、日本史全体の中でも、特筆すべき文化的意義をもつ人物である。

本名を「厩戸」と言い、ここで誰もがキリストとかぶってると思うのだが、それが秦河勝に由来するのではないだろうか?

 

しかも、聖徳太子は日本文化の礎を築いた人として尊敬されるだけでなく、軌跡を起こした人として信仰の対象にもなっている。

既に中国には景教(キリスト教の一派)が伝来?しており、秦氏は大陸から朝鮮半島を経由して倭国に渡来してきた時点で、キリスト誕生については知っていたのだ。

 

そして太子は、中国をモデルとする国造りに成功し、『三経義疏』を著して仏教の興隆を図ったのだが、マリアの神聖を否定する景教には違和感があったに違いない。

とはいえ、その二つの教えが、日本国家の理想を描く十七条憲法であり、それも極端に言えば、現代の日本国憲法における、あの平和憲法に相当するものではないであろう。

 

【追伸】

キリスト教ネストリウス(381-451頃)派(景教)は、635年、ササン朝ペルシャの宣教師を通じて唐に伝来とあるが、因みにその寺院は大秦(ローマ)寺と呼ばれていた。(20200827)

秦氏は明らかに、釈迦とは別にキリストを知っており、太子もまたその教えを受けていたようにも思うのだが、太子は仏教を国家の礎にした。
そして自然発生的に生まれた太子崇拝は、まるでキリストの復活を暗示する平和の使途であるべきかのように、太子巡礼の道を生み出したのである。

中国王朝史に見る日本

魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米(なしめ)らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。

太守の鄧夏(とうか)は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。

 

神功皇后の治世で、この引用を行った編者の意図は、倭の女王卑弥呼と神功皇后を同一視させ、伝説上の人間に史実性を与えることが目的だった。

この二人の女性の間には、何の関係もあるまいとしているのだが、卑弥呼と台与の二人の人生に、神功皇后の虚像が必要であったとみるべきであろう。

 

魏の朝廷は倭の女王との友好関係に積極的で、日本からの死者を迎え、天使が卑弥呼に【親魏倭王】の称号と金印を与えている。

朝廷から卑弥呼への贈り物には、剣・銅鏡・勾玉が含まれていたから日本の皇室の三種の神器は、おそらくここに発したものだろう。

 

これ以後の中国王朝史は、しばらくの間、日本については『魏志』の記述を繰り返すだけである。

そして、日本についての新しい中国史料が現れるのは『隋書』になるが、その書簡が「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、恙無きや」なのだ。(20200831) 

【追伸】

倭の女王の記述はあくまでも引用されているだけであり、卑弥呼・台与・邪馬台国といった魏国が書き記した名称も『日本書紀』には書かれていないが、神功皇后が存在するなら、卑弥呼・台与の時代なのである。

 

そして、この演出をしたのが、景行・成務・仲哀・応神・仁徳に仕えた武内宿祢(84-?)であり、明らかに300年以上生きてゐることになるのだ。

懐風藻

Ⅰ 大友皇子

日本人が明確な文学的意図をもって漢語で著した作品は、751年に編まれた『懐風藻』が最初である。

ここに集められた120篇(写本116篇)の漢詩の中には、編集時から80年もさかのぼり、大友皇子(648-672)と言うことになる。

 

中国人は、昔から詩作は君子に欠くことのできない素養だと考えてきたように、日本人も当然師を見習ったというわけだ。

撰者不明の序文であるけれど、編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力である。

 

五言 宴に侍す 一絶(1番)

皇明光日月(皇明日月と光り)帝徳載天地(帝徳天地に載す)

三才並泰昌(三才並びに泰昌)万国表臣義(万国臣義を表す)

 

五言 懐を述ぶ 一絶(2番)

道徳承天訓(道徳天訓を承け)塩梅寄真宰(塩梅真宰に寄す)

羞無監撫術(羞ずらくは監撫の術無きを)安能臨四海(安んぞ能く四海に臨まむ)

 

その正妃が十市皇女で、大海人皇子(天武天皇)と額田王の娘だが、大友皇子の詩歌は万葉集になく、この漢詩のみである。

 

『懐風藻』に残された詳しい伝記によると,博学で多くの知識に通じており,群臣は畏れ服従していたといい、また広く学識者と親交があったとしている。

Ⅱ 大津皇子

懐風藻は、日本の宮廷人が中国の作詩規則にどれだけ従えるかを練習しただけの意味しかない、と言われてきた。

ほとんどの詩は、8世紀中期(南朝の梁・陳)の詩人が愛好した優雅な詩風にのっとっていて、詩人の心の内奥ををうたうというより、宮中の宴や野遊びを祝うだけのものが多い。

 

やはりここでも、謀反の疑いで逮捕された大津皇子(663-686)が、死を目前にして作った詩が引き合いに出される。

懐風藻の詩人の内、8世紀に編まれる『万葉集』に名を連ねているのは21人おり、大津皇子もその一人である。

 

金烏臨西舎 (金烏 西舎に臨み)

鼓声催短命 (鼓声 短命を催す)

泉路無賓主 (泉路 賓主無し)

此夕誰家向 (この夕 誰が家に向ふ)『懐風藻』

 

ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ  『万葉集』

百傳  磐余池尓    鳴鴨乎   今日耳見哉   雲隠去牟) (万葉仮名)

 

この二つの詩歌に、皇子の無念さが何処かにあるとしたら、【泉路無賓主】と(今日のみ見てや)である。

 

密告者川島皇子については、「始め大津皇子と莫逆の契りをなし 津の逆を謀るに及びて、島則ち變を告ぐ」(『懐風藻』)とあり、陥れられたものなら、悔しくて死にきれないものだが・・・。

 

【追伸】

皇子大津は天武天皇の第三子で、威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったと言える」『日本書紀』(20200907) 

Ⅲ 長屋王

文法的・韻律的に正しい中国語を書くことは、それ自体、日本人には容易なことではないが、漢詩を作るのに、それだけでは十分ではなかった。

中国史にも造詣が深いことを、暗示的な引用でかいま見せなければならなかったが、単なるきざな余技で済ますわけにもいかないのだ。

 

日本特有の風物をうたった漢詩はほとんどないが、藤原不比等(658-720)にひとつ、夏の吉野離宮に遊んだときの詩がある。

8世紀中葉までに、中国文化はその巨大な影響力を日本に及ぼし始めていたが、この古い文化の圧倒的な威光の前では、日本固有の伝統など抵抗すらできないように見えた。

 

ところがここに、長屋王(676?-729)がおり、鑑真(688-763)の伝記「唐大和上東征伝」によると、長屋王が唐へ送った袈裟千領に刺繍されていた漢詩がある。

その漢詩を見た鑑真が、「日本は仏教が盛んで仏縁のある国」と感じ、渡海を決意したというのだ。

 

懐風藻には、長屋王の漢詩作品が計3首収められているが、かれもまた、藤原4兄弟の陰謀により、自殺に追い込まれていた。

この4兄弟の父親が藤原不比等なのだが、この四兄弟も、737年の天然痘の流行(天平の疫病大流行)により相次いで病死したのだ。

 

 【追伸】

 長屋王については言及されていないのだが、2020年HSK日本事務局から湖北省へ寄贈する支援物資に貼られた8文字が「山川異域 風月同天」であったが、五言絶句・七言絶句でもなく、中国最古の詩形『詩経』などに代表される四言詩なのだろうか?(20200910)

 

山川異域(山川は域を異にすれど)

風月同天(風月は天を同じにする) 

寄諸仏子(諸の仏子に寄せて)

共結来縁(来縁を結ばん) 

 

『懐風藻』(かいふうそう)は、現存する最古の日本漢詩集で、撰者不明の序文によれば、天平勝宝3年11月(ユリウス暦751年12月10日 -752年1月8日のどこか)に完成としている。

編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力であり、それが事実なら、あの額田王ともつながっており、新しい風景も見えてきそうである。

 

また、ここで言及されている詩人たちは、大友皇子・大津皇子、そして長屋王という、悲劇の皇子たちである。