29 十六世後半

十六世紀最後の四十年間は、一般に「安土桃山時代」と呼ばれているが、安土は琵琶湖畔の土地の名、桃山は洛南の土地の名であり、安土には1576年の織田信長(1534-1582)が城を築き、桃山には、信長に続いて日本の事実上の支配者になった、豊臣秀吉(1536-98)が居城を定めた。

歌は、何世紀にもわたって日本の主要な文芸であり続け、十六世紀後半の日本人にとっても、それは同様ではあったが、この時代には和歌は瀕死の状態にあり、旧態依然の和歌の伝統は、かろうじて都の貴族によって保たれ、野蛮人でないことを証明したかった武将らによっても守られていたが、長く歌壇を支配してきた諸流派は消滅していた。

 

この時代の文学の権威である荒木良雄によると、十六世紀の代表的な和歌は「狂歌」と「辞世」の二種類であり、狂歌は風刺を含む和歌、辞世はこの世に別れを告げるー特に自害の前に詠むー和歌である。

歌の持つ滑稽味は、長長と解説してるうちに消え失せ、悲劇に比べて、滑稽がいかに壊れやすいもと思わせるが、十六世紀に戦場の男たちや死に臨んだ人々が詠んだ悲劇的な辞世の歌は、文学的技巧の点で必ずしも狂歌より優れているとは言えないとはいえ、時に読者が感動させる。

 

対立と後奏のこの時代には、歌の覚えやすさが、宗教的あるいは教育的な目的に利用されることもあったが、「道歌」と呼ばれるものがそれで、文学的な面白さはあまりないが、時に強烈なイメージで目を見張らせるものがある。

十六世紀後半のもっとも有名な歌人は細川幽斎であるが、秀吉が発句を詠み、優彩はすぐに脇句をつけたが、その発句に「鳴く蛍」とあり、「蛍は鳴かない」ことが問題になったとき、幽斎が鳴くと発言し、その古歌を射引用したが、場の緊張をほぐすための自作の歌であったという。

十六世紀日本の詩歌の主流は連歌であるが、連歌を詠む人は、この芸術の栄光がいつまでも続くことを信じて疑わなかったけれど、1568年、織田信長が足利義昭を将軍に立てて上洛し、信長は「鬼神より恐ろしげなる」化け物だという噂が広まり、京の人々は、どのような運命が待ち受けていることかと恐れおののいた。

二本手に入(イ)る今日の悦び(里村紹巴)ー舞ひ遊ぶ千代万世の扇にて(織田信長)の連歌のやり取りがあり、「洛中の老若是を聞きて、なんともものをば言はず、此の人は猛き武士なれば、寿永の古、木曽が京入りしたる様にこそあらめと思ひしに、いうに優しうも有りけるよな。扨ては安きこともあるべきにやと、心のうち粗頼もしう成りて、皆息をぞ安めける」『信長記』

 

紹巴は、連歌を周桂に学び、周桂の死後、里村昌休につき、のち里村家を継ぎ、その後公家の三条西公条(きんえだ)をはじめ、織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・三好長慶・細川幽斎・島津義久・最上義光など多数の武将とも交流を持ち、天正10年(1582年)、明智光秀が行った「愛宕百韻」に参加したことは有名である。

1553年の春、公条が桜見物に吉野に遠出した時は、その旅に同行しているが、公条は「吉野詣記」の没頭でこの道連れに触れ、「紹巴とて。筑波の道に志深くて。この頃都の住居(すまい)し侍りて。夜昼来り訪ひけり。志かも敷島の大和の国まで。道たどたどしからず。芳野の花見るべきよし誘いけり」と書いている。

 

1565年、将軍足利義輝が三好義継と松永久秀によって暗殺されたが、久秀は紹巴の庇護者で、舞台裏で立ち回ることが忙しかったかもしれないが、1566年、暗殺された将軍義輝の弟が還俗して68年には将軍義昭となり、幕府の権威を回復しょうと動き始め、戦乱はさらに続いたが、紹巴はそうした世情に超然と構え、悠々と風流三昧の日々を送っていた。

紹巴は俗臭ぷんぷんする人物で、連歌にも深みを欠き、相手選びの基準が、詩的才能でなく世俗的地位にあったのが不幸と言うべきか、そのため、今日、紹巴の名前が語られることがあるとしたら、それは連歌より政治的事件に関連してのことが多いと思うが、弟子には、俳諧(滑稽を主とする連歌)で最初の重要な連歌師となる松永貞徳がいる。 

1518年には、『閑吟集』という歌謡集が編まれたが、作者については不詳であり、仮名序に「ふじの遠望をたよりに庵をむすびて十余歳」の「桑門(僧)」とするのみで、駿河国に庵を結んだ連歌師の宗長を擬する学者もいるが、編者不明という結論委傾いている。

『閑吟集』は、三百十一首の歌を収めているが、この数は詩経の詩数と等しいことは仮名序にも言う通りで、小歌230首のほか、大和節・近江節・田楽節・早歌(そうが)・放下歌(ほうかうた)・狂言小歌・吟詠などを収める。

 

和歌とは違い、小歌には一つの固定された形式というものはないが、最も多いのは、7・5・7・5の四句からなる形で、平安時代の居間用に似ているが、他には、和歌から初句を除いた7・5・7・7もあるし、7・7・7・5や7・7・7・7といったもの、更には三音や四音と言った不規則な句を含むものもある。

『閑吟集』で最も注目されるのは、やはり小歌であり、すべてが詩歌として質は高いとは言えないが、気持ちが良いほど型破りであり、日常生活をよく反映してることは当時の和歌とは比べ物にならず、「若菜」「夏の夜」「水辺の恋」「野宮の秋」などの題を設けて歌を配列する趣向から、編者はおそらく連歌師だろうとする説もある。

 

『隆達小歌』の編者は、高三(たかさぶ)隆達(1527-1611)で、堺の商人ながら、小歌の名手であり、信長や秀吉の前で隆達節を披露したこともあるらしいが、社会各層の歌を集めた『閑吟集』や、ほぼ庶民層の歌と言ってよい「宗安小歌集」と異なり、『隆達小歌』の歌は、非常に都会的で洗練されている。

7・5・7・5音と7・5・7・7音のものが多く、江戸時代には、、これが歌謡の代表的な形となり、伴奏には三味線が使われていて、この点でも、『隆達小歌』は中世歌謡から近世歌謡への橋渡し的な存在だと言えるが、『田植草紙』も、安土桃山時代に編まれた歌謡集であり、純粋な民謡ながら、内容は非常に豊かである。

能がまだ発展する芸術であり得たこの最後の時代を表するのは、観世信光(1435-1516)の子、能作者でもあり役者でもあった観世長俊(1488-1541)で、長俊の能としては唯一、『平家物語』に取材した『正尊』が現在でも演じられている。

正尊と弁慶は西洋劇に言う「アンタゴニスト(敵対者)」であって、ワキと言っても、シテにものを尋ねるだけの単なるわき役ではなく、また登場人物が異常に多いことも目につき、シテと脇のほかに、静御前を演じる子方がいるし、ツレは四人もいて、全員が役名を持っている。

 

十六世紀末には、能にはもう一つの新しい発展があり、それは豊臣秀吉がお御伽衆の木村由己(1536?-96)に命じて、自分を題材にした能をいくつか書かせたことで、秀吉は、自分とその業績が能で演じられることを望み、観客の現在と舞台の現在を一致させることを要求したってわけよ。

二番目物の『柴田」は、柴田勝家を破った秀吉の手柄を描き、シテは勝家の亡霊であるが、かつて意気揚々と近江国の賤ヶ岳に兵を進め、勝利は目前と思えたのに、「秀吉自ら馳せ向かえば、向かえば、数万の味方は霧堪えられて、力及ばず梓弓、もとの住処に立ち返る、無念限りはなかりけり」と語る。

 

木村由己の能は、ひとりの専制君主への単なる追従にすぎないように見えるかもしれないが、いわゆる新作能の中では、最も成功した作品であり、由己は、能に特別の素養を持たなかったが、生得の文才と古歌の知識を駆使して、単なる模倣の域を超える作品をうみだした。

これらの能が短命に終わった原因は、おそらく、秀吉に密着しすぎていたことにあり、秀吉の栄光を称えるための能である以上、秀吉が死に、その子秀頼を奉じる勢力が敗北してしまうと、江戸時代に復活することはほとんど不可能になった。

今日には五十曲あまりの幸若台本が伝わっているが、ほとんどは『平家物語』と「曽我物語」に取材したもので、中世文学全体の主人公ともいえる源義経は、ここでも二十曲で英雄になっているが、『平家物語』の登場人物を扱うものがさらに十三曲あり、あと『曽我物語』八曲あってその他の典拠はさまざまである。。

織田信長は、桶狭間出陣(1560年)を前にして幸若『敦盛』を謳ったが、後には幸若の演者に庇護の手を伸べており、おそらく、信長にとって幸若は単なる娯楽以上のもので、幸若を厳かに謡うことで、過去の英雄や武将と一体化できると信じたのかもしれないけれど、幸若に謡われているいずれも悲劇的最期を遂げている。

 

幸若が、武士の心に強く訴えかけたのは、荘重な詞章と語られる出来事の重さが、社会の守護を自己の運命と心得ていた武士の心情によくあい、当時の観客にとって、流暢で力強い謡いは、現代人が思う以上に感動的なことだったかもしれず、演説を聞く機会など皆無に等しかった社会で、悲劇的な出来事を滔々と語る演者の言葉に、聞き手の心を激しく揺さぶったと思われる。

武士にふさわしい威厳が追及された結果、やがて幸若からは視覚的な魅力が薄れていき、既に十七世紀の始めには、幸若は舞うものでなく語るものになっており、もちろん、十七世紀以降も過去の英雄の偉業は日本人の心を奮い立たせ続けたが、能の壮麗さも歌舞伎のマイム的興奮も持ち合わせていない幸若は、かつての庇護者だった武士の間でさえ支持を失っていった。

 

十六世紀の後半は、いわば劇芸術の苗床で、「浄瑠璃」「説教節」「歌舞伎」など以後三百年にわたって最も重要となる各種演劇が、揃ってこの時期に萌芽しているのだが、当時演じられていた作品は今日に全く伝わってはいない。

浄瑠璃・説教節・歌舞伎の違い以上に重要なのが、史上初めて、木戸銭を払えば誰でも入場ができるという、芝居小屋ができたという事実であり、都の内外の景色を描いた桃山時代の屏風には小さな芝居小屋が並び、人々が思い思いの小屋で楽しげに観劇している姿が描かれている。

平安時代の王朝物語や、鎌倉・室町時代の擬古物語という意味での「物語」は、16世紀の末にとだえており、この時代で最も印象的な散文作品は、おそらく、織田信長と豊臣秀吉の伝記であろうが、日本では、「日記」の名で書かれる自伝が長い歴史を持っていたが、伝記は中国ほどには発達しなかった。

信長と秀吉の伝記も、それぞれの主人公を美化してはいるが、それは信長なり秀吉なりが、実際にやったことの意義を強調するためであって、驚異的な出来事を発明して読者を引き付けようというのではなく、これらの伝記には、ところどころ面白い部分もあるが、あの合戦やこの合戦の記述は不可避的に同じことの繰り返しになる

 

さらに重大な欠点は、主人公の迫真的な描写がないどころか、十分な説得力を持つ人物像さえ描けていないことであるが、宣教師であり、歴史家でもあったルイス・フロイス(1532-97)の1569年の書簡と比べてみると、伝記の人物像の不備は一目瞭然である。

フロイスが、わずか一段落で描き出している人物像は、太田牛一『信長公記』全15巻や、いっそう膨大な小瀬甫庵『信長記』よりはるかに印象的であるが、ただ時折出会うちょっとした細部描写や意外な行動の記述に光るものがある。

 

大村由己『天正記』は1580-90年以秀吉が戦勝した合戦の記録であり、秀吉賛美の文章だが、ときに、この分野のた作品には見られない高い文学性を漂わせることがあるが、伝記が文学としてオーブリーやボズウェルの域に達するにはまだ長い道程でがあるが、まずは頼もしい出発点であったと言えよう。

もうひとつ、どのような経路をたどったものか、『オデュッセイア』の影響が最も明らかな作品は、「百合若大臣」だが、十六世紀の日本が、外国からの影響に開かれていたことは確かであり、西洋人や中国人が日本を訪れ住み着いただけでなく、日本人も外国へ出かけて行き、ローマまで旅したキリスト教改宗者や、東南アジアに渡り、タイなどに日本人町を築いた人々もいる。