八剱神社

 

道の旅人は、やっと菱屋東にやって来た。つまり、「菱江川」を新田開発した「菱屋東新田」と呼ばれる開墾地であろうか?その交差点(菱屋東)の南北に走っているのが河内街道であり、暗越奈良街道の交点近くの東に鎮座する神社が八剱(やつるぎ)神社である。

ところでこの菱江川、只者ではなく、さらに上流の玉串川まで遡ると、川幅の広かった玉櫛川は、今の近鉄奈良線河内花園駅のすぐ北で二つに分岐し、菱江川と吉田川に分かれそれぞれ低湿地の中の大池である新開池と深野池に流れ込んでいたのだ。

八剱神社の由緒には、昔、新羅の僧が熱田宮にあった神剱を盗み、船にて本国に持ち帰る途中、河口にて大嵐にあい神罰と恐れをなして神剱を河中放り逃げ去った。 これをこの地の里人が拾い放出村の阿遅速雄神社(あぢはやおじんじゃ)におさめ、その後、熱田の宮に帰された。

時は遷り、この地にも神社創建請願の声が高まり、文久2年(1862)放出の阿遅速雄神社の味耜高彦根之命(あじすきたかひこねのみこと)を勧請して祭祀したのだが、ここでも放出と向き合うことに、道の旅人も驚きを隠せないでいた。 

それにしても、道の旅人は、あと幾何の川を渡らねばならないのだろう?そう考えただけでも、この街道が、難事であることを思い知らされると言うものなのに、そのことを記した文献が見つからないのだ。

例えば、大和郡山の城主であった豊臣秀長は、何回となくこの街道を往来したってわけだ。しかし、何本もの川が流れており、何度も洪水に見舞われているのだ。川幅だって、100m以上もあったはずなのにね。

菱江の交差点の手前の旧街道を駆けて、“おかげ燈籠ともちの木地蔵”へ来ると、やっぱりこの街道はお伊勢参りに活かされていたんだなぁと思ってしまう。

旧大和川の付け替えを終えた翌年1705年(宝永2年)が、本格的なお蔭参りの始まりで、2ヶ月間に330万~370万人が伊勢神宮に参詣した。本居宣長の玉勝間の記載によると、4月上旬から1日に2~3千人が松阪を通り、最高は1日23万人である。

中期を経て後期に入ると、文政(1830年)のお蔭参りでは、60年周期の「おかげ年」が意識され、参加人数は大幅に増えている。 何故か参詣するときに、ひしゃくを持って行って伊勢神宮の外宮の北門で置いていくということが流行った。おそらく阿波の巡礼の、風習が広まったのであろう。この時、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されている。

そして末期に始まる“ええじゃないか”は、明治維新になる前年、慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、近畿・四国・東海地方などで発生した騒動で、「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という話が広まるとともに、民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら、集団で町々を巡って熱狂的に踊った。

この街道を抜けると、再び国道に出て、そのまま東へ向かうと、高校ラガーのメッカとして有名な、花園ラクビ―場前に出くわす。ここで少しばかり寄り道して、メインスタジアムに向かった。2017年11月2日に、「ラグビーワールドカップ 2019 日本大会」の試合日程が決まり、東大阪市花園ラグビー場での開幕戦は、9月22日「イタリアvsアフリカ地区1戦」に決定した。

ここで道の旅人は、抑々の歴史を紐解いてみた。

大阪府中河内郡英田村(当時)の大阪電気軌道(大軌)社用地に花園競馬場が開場するも、数回の開催を行ったのみで閉鎖。そのあと、ラクビ―場をつくってはどうかと提案されたのが、関西に旅行されていた秩父宮殿下である。と言うわけで、1929年11月22日 競馬場跡地に大軌花園ラグビー運動場が開場。

ところが旅人の知りたかったのは、どうしてここに三つのグランドを要する広大な敷地が出来上がったのかと言うことである。

花園ラグビー場の西側すぐ、旧吉田川の堤防上にある吉田墓地にあるのが、芭蕉供養碑なのだ。

当地を通行中、急な病を得て暫く当地に滞在し、その折、地元の人々に俳諧にの手ほどきをした。後年、教えを受けた子孫たちが報恩のためにこの供養碑を建立したのだ。

吉田墓地は、今から約300年前の江戸時代宝永年間より、吉田川の中州を墳墓の地として発祥し、その後新家・本郷地区の共同墓地として利用され、徐々に川島・市場地区を加え、現在の墓地の形態がなされました。

つまり、吉田川がこの土地を提供したのかもしれないのだ。そんなことを考えると、河内国の形成は、まさに河とのつながりで出来上がっているのである。

ここから国道を横切って向かい側の松原宿に入るのだが、古代においては河内湖に土砂が堆積してできた低湿地であり、地域の中央を旧大和川の分流である吉田川が流れていた。川はたびたび氾濫して水害を引き起こしたが土地は上流から流された養分で肥沃であり、川の周囲で農業が行われてきた。1704年に大和川の川違えが行われたとき、吉田川の跡は川中新田として開発された。

『和名抄』に記載されている河内郡の郷名に「英多郷」(あがたごう)とあり、大和朝廷の豪族、三野県(みのあがた:美努県主)の治めていた地域の一部であり、後に「英田」と呼ばれるようになった。中世室町時代ごろには若江郡とまたがる「稲葉荘」と呼ばれた荘園の一部だったとされている。この地は難波京と平城京を最短で結ぶ道のり(暗越奈良街道)の中継地点にあたり、江戸時代には宿場町として松原宿が置かれた。

その松原宿は、宿屋だけでなく、旅客と貨物を運ぶ拠点として重要な場所であった。

旧大和川の一つ、吉田川の東側であり、恩地川の西側に位置し、剣先船などの盛んな当時は交通の要所であった。

慶長20年(1615)大坂夏の陣に参戦した徳川方の武将榊原康勝が、若江の戦いに際して陣を置いた場所でもある。

しかも、5月6日豊臣方の木村重成と戦い、さらには翌日の天王寺・岡山の戦いにも参戦した。

(杉山三記雄『暗越奈良街道を歩いた旅人たち』)

このような記述がある限り、実際に隊列を組んで、街道を横切る河川を物ともせずに推し進めたことになる。

 

江戸時代にはいって、この道は脇往環(五街道以外の主要な街道)として発達し、大和・伊勢をむすぶ旅客貨物の重要な交通路となり、伊勢参りなどでにぎわいました。 

 

幕府は、明暦年間(1655~58)以降、街道の支配のために街道間唯一の宿場として「松原宿」を公式に設けました。松原宿は、旧大和川の分流吉田川と恩智川との間に位置し、古くから水運でも栄えた場所にあたります。 宿場には、継立業務(人馬の乗換えを請負う仕事)を行う店のほか、寛永元年(1624)年の記録では、河内屋・奈良屋など計16軒の旅籠(はたご)があり、大変にぎわいました。大坂夏の陣では、徳川家康が枚岡の陣から下ってきてここを通り、天王寺方面へと向かい、真田幸村と死闘を繰り広げております・・・。