眞田丸顕彰碑

 

 

神社付近には、武将たちの屋敷とともに茶匠千利休の屋敷も構えていた。それを偲ぶかのように、境内には“利休井”がある。古くより玉造清水と呼ばれる良質の水脈を使い、上町台地東端の自然環境にも恵まれ、茶の湯文化が育まれていたのである。そして門人たち(細川忠興・古田織部)の屋敷にも【越中井・山吹井】があり、道の旅人は、唯一存在が確認されている、細川ガラシャ夫人の屋敷跡(中央区森の宮中央2丁目)に向かった。

慶長5年、忠興公が家康に従って会津上杉の征伐に出陣した留守中、三成が大名妻子たちを城中に人質にしょうとしたが、夫人は聞き入れず、取り囲まれた屋敷に火を放ち、家老に介錯させたのである。屋敷の台所にあった井戸には、夫人の徳をしのび、顕彰碑が建立されている。

明智光秀の三女である珠は、天正6年(1578年)、15歳の時に父の主君・織田信長のすすめによって細川藤孝の嫡男・忠興に嫁いだ。しかしその4年後、父の光秀が織田信長を本能寺で討ち、“逆臣の娘”の烙印が押された。天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の大坂屋敷に戻して監視した。それまでは出家した舅・藤孝とともに禅宗を信仰していた珠だったが、忠興が高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

 

これは、ガラシャ夫人の辞世の歌であるが、戦国の武将の妻たちは、いつだってその覚悟をしておく必要があったのだ。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じていた。

上の画像は、高山右近と対になっていて、大阪カテドラル聖マリア大聖堂の内部に飾られている。そして聖堂の外には、二人の像が両脇に立っている。その右近は、“地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である”として、聖人に次ぐ福者に認定されている。

戯曲『強き女 丹後王国の女王グラツィア(ガラシャ)』(1698年イエズス会)では、ガラシャも殉教として描かれてはいるが・・・。 

ここからさらに南に向かい、長堀通りを横切り、餌差町(えさしまち)の交差点まで行くと、契沖が62歳の生涯を閉じた円珠庵(鎌八幡)がある。墓所は境内にあり、毎年1月25日の契沖忌のみ墓参できる。

また庵ができる以前の遠い昔、このあたりは三韓坂と言われた古道で、そのわきに一本の榎の霊木があり、人々の信仰を集めていた。 大坂冬の陣の時真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したと言う。 

大坂には4つの山があり、北から石山・姫山・茶臼山・帝塚山と続いていた。その姫山がこのあたりで、真田の出城があった場所である。道の旅人はいよいよもって、その真田丸に向かうのだが、実はもうすでに、その跡地とされる明星学園を通り過ぎていた。とは言え、真田丸の碑は、その裏のグランドにあるのだ。

 豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られていたが、真田丸の築かれた地続きとなる南方だけは空堀のみであった。そして冬の陣では、その北の茶臼山に、家康が陣を構えたのだ。そして東の岡山(御勝山)には将軍秀忠が本陣を置いていた。

千田嘉博(城郭考古学者。奈良大学文学部文化財学科教授、前学長)は「大坂城の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであり、ここは地形の高低差が少なく、惣堀の幅も狭い。信繁は、真田丸という突出部を築くことで、真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくした」と述べている。

 

真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直・松倉重政・榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4000・松平忠直の兵10000、他数千が布陣していた。真田丸には真田信繁指揮下の兵5,000、八丁目口・谷町口には木村重成・後藤基次・長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。

旧暦12月2日(1615年1月1日)、徳川家康は本陣を住吉から茶臼山陣城(大塚城)に、徳川秀忠は平野から岡山に移した。家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。 真田丸の前方には篠山(ささやま)と呼ばれる丘(小橋)があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、真田勢が火縄銃で篠山から狙撃し作業を妨害した。

旧暦 12月3日、大坂城内で南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚した。南条は城内で切腹させられたが、豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。

旧暦12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。前田勢の先鋒本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。

夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。前田勢は挑発に乗り、真田丸に突撃。真田勢は前田勢が城壁に十分近づいた所に火縄銃で射撃を行う。前田利常は、将達が命令なく攻撃して軍が損害を被ったと怒り、兵を撤収させようとした。 前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。

この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。

とは言うわけで、幸村が巧妙な心理作戦で徳川軍を挑発し、後藤基次がその鋭い洞察力で敵の動きを読み、木村重成以下各隊が見事な連携を見せ、豊臣軍を大勝利に導いている。

その顕彰碑の向かいに心眼寺があり、真田幸村出丸城跡の碑が建っている。境内には、夏の陣で討死した『真田左衛門佐豊臣信繁之墓』がある。

この心眼寺坂を下ると、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院法資法道が大坂夏の陣(1615年)の戦死者の霊を弔うために創建されたのが、“どんどろ大師 善福寺”なのだ。 

ここにあるのが、有名な『傾城阿波の鳴門』の巡礼姿の娘おつると母おゆみの愁嘆を描いた場面である。

「してして、かかさんの名は?」

「アーイー、お弓ともうします」

 

このセリフしか知らなければ、ほっと一息をつきたいところだが、歌舞伎の複雑な構成はそれを許さず、おつるは父親の手にかかり、窒息死してしまうのだ。それを払拭して、ここを東に向かうと、再び幸村の雄姿にまみえることができる。

三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園にある神社である。かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。

しかし、この天王寺区地勢は、山があれば谷もあり、清水谷・細工谷、さらには谷町もあるのだ。そんなに起伏が飛んでいれば、『坂道』もあるってわけよ。どんどろ坂・心眼寺坂・三韓坂と、実にしんどいが面白い地勢なのだ。

三光神社のある高台は、200メートル四方はあるでしょうか、神社の南側は宰相山公園になっている。(千田嘉博『真田丸の謎』)

この宰相山の由来は、大坂冬の陣で真田丸を攻撃した越前宰相(松平忠信)とか、加賀宰相(前田利常)を指すと言われている。

つまり、ここは真田丸の陣地内ではないのだ。

ところでこの神社は、中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現宮城県仙台市宮城野区)の三光宮(現青麻神社)を勧請し、そちらの方が有名になった。明治15年(1882年)の『大阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになる。明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。

またこの神社には、大阪七福神めぐりの寿老人の像もあり、酒好きな道の旅人も、中風封じを願い、健康長寿を願ってこの真田丸を終え、いよいよ奈良街道に向かう。