高井田地蔵

 

布施を離れる前に、少しばかり長堂についても説明しておくと、まだ村落を形成していなかった西暦千六百年(関ヶ原合戦)以前は、この長堂地区に居住していた少数の土着民が、木綿や麦をつくり歴史の中で細々と暮らしてきて、村という形態を作りかけていた。そうした中で、大歳神社が鎮座したことになる。

ところが、大正三年に併合され、その宮地については長堂宮会が運営していた。そして平成四年、布施駅北口再開発事業の一端を担うことになったが、工事開始にあたり、市・府教育委員会の遺跡文化財試掘調査が入り、縄文・弥生時代を含む大規模且つ貴重な遺物が発見されたのだ。これは宮ノ下遺跡と銘々され、長堂地区が二千年以上前から、人間の生活の場であったと言う、非常に歴史ある地域であることが実証されたのである。

春風に顔なでられて高井田を

暗がり越えて奈良の都へ (弥々子)

 

長堂・柳通西、そして布施柳通まで来て、この碑に出会うと、この旧道からが、暗峠のふりだしのように思えてくる。

 

古代の河内は、大部分が湿地帯で、古代人たちは生駒山地の西麓や湿地帯の高所に居住したわけで、高井田の地名もそれによる。

氏神の鴨高田神社は、創建が白鳳2年(673年)と伝えられる延喜式内社で、隣の百済山長栄寺(別名長栄律寺、高井田寺)は、聖徳太子の創建と伝えられており、江戸時代のサンスクリット語の翻訳で有名な仏教学者、慈雲尊者(1718-1805)が住職を務めていた。

高井田村は、明治22年に若江郡高井田村・森河内村・新喜多新田が合併して誕生している。 

ところで、中世に至り、岩清水文書保元三年(1158年)宣旨には、岩清水八幡宮領として河内国高井田庄の名が見えてをり、後『河内誌』には、鴨高田神社について『在高井田村今若江郡也山州八幡神祭料因称八幡宮』と記し、この神社が岩清水八幡宮領となり八幡宮と称される由縁である。この付近一帯が戦場となった大阪夏の陣(1615年)では、兵火に罹(かか)り社殿ことごとく烏有(うゆう)に帰し、後数年を経て再建されたのである。 『河内名所図会』には、北隣に位置する長栄寺の鎮守となり、今八幡と称するとある。

社記によれば、延喜18年(918年)、当地方が大洪水に見舞われ、五穀が実らず、当社に祈願したところ、豊作となったと伝わる。

年代は違うが、都留彌神社と同じようなことが記されており、その頃までは、神社の力も強かったのかもしれない。

ただ気になるのは【鴨】である。確かに、鴨(加茂・賀茂)氏は彼方此方にいるのだが、果たして河内に居住していたのであろうか?

これが高鴨神社(奈良県御所市)になると、日本各地に300社ある総本社なのだが、この鴨高田神社だけは曲者である。

 

この北隣に位置するのが、長栄寺である。考古学の権威門脇禎二教授によれば、四天王寺と飛鳥寺を建立の後、大阪東部にこの寺を建立したのではないかと言う説を立てている。そのうえで、飛鳥時代に推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子が創建にかかわったことがうかがえる。そして百済僧恵聴は飛鳥寺に住み、聖徳太子に仏教を教え最高大臣の蘇我馬子をして、長栄寺を建立したとしているのだ。

当山は寺伝によると、聖徳太子が自ら本尊の十一面観世音菩薩を刻み安置、百済系渡来僧の入法をもって開山・創建とし、山号は百済山と称する。
  その後、中世の幾度もの戦火で荒廃したが、江戸中期の1744年(延享元年)正法律(真言律)中興の高僧慈雲尊者が再興、当寺をその道場としたが、1825年(文政8年)正月、本堂が全焼し、同年に再建されている。

慈雲尊者:江戸時代の後期、大阪が生んだ真言宗の高僧で、その徳行・教化・学問いずれも面でもわが国の仏教史上稀有の偉人であると称えられている。

1718年(享保3年)大阪中之島、高松藩蔵屋敷に生まれる。13歳にて父を失い、母の進めに従い田辺の法楽寺にて出家。その後河内・野中寺で修行。22歳で法楽寺住職となる。27歳から41歳の春まで、当山に住し、以後、当山が慈雲の活動の拠点となっている。59歳にて葛城山中の高貴寺に隠棲。1804年(文化元年)87歳、京都阿弥陀寺にて遷化。

さらに、山岡鉄舟をして”日本の小釈迦”といわしめ、日本の仏教史に不可欠な高僧である。

日本の仏教が宗旨宗派に分かれる中、尊者は釈迦時代の仏教に回帰すべく、戒律を重視した正法律を提唱された。

その当時 漢字に訳されていた経典ではなく、梵語の経典を護持され、梵学津梁1000巻を残されました。そして、戒を俗の日常にも用いるべく、十善を護持することをすすめられ、天皇家にも戒を授けられた。

十善を詳細にとかれた十善法語は、現代にも通じる人の道を説かれておられます。
 真の仏教に身をおきつつ 神道・儒教にも通じ、 晩年には神おいては雲伝神道を提唱されたり,密教についても触れられています。

堂前の線香立ての石柱に「渡シ地蔵」と刻まれている地蔵石仏は、高さ95cm・幅30cmの舟形光背内に高さ70cmの地蔵菩薩立像をまつっています。
 この場所は、旧大和川の本流である長瀬川の西堤にあたり、大和川付替え以前は川幅が200m近くもあって、舟の渡し場になっていました。当時の大和川には名物の剣先舟が行き交っていた。

実はこのコース、道の旅人は、気になっていた都留彌神社に立ち寄っていたのだ。と言うのも、ほんの近くの高井田村に、同じ式内社の鴨高田神社があるのだ。

ところがこの村も布施町(昭和8年)に合併され、布施文化がどんどん広がっていったわけである。その確認をするためであったが、その北隣の長栄寺との関係が気になりだした。

つまり、明治維新(神仏分離)まで1000年以上も続いた神仏習合についてである。

その神道と仏教についてだが、神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体部族や村を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や魂救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。

なお、雲伝神道(うんでんしんとう)を説いたのが慈雲であることを付け加えて、この問題を振り払い、渡し地蔵を通り高井田地蔵へ行きつき、道の旅人は街道筋に戻ったわけである。

長瀬川西沿いの古い集落であった高井田村だが、その土手沿いにお地蔵さんが点々としている。それこそ、旧大和川の遺産と言うことができるかもしれない。

と言うのも、中世以降は大和川の支流である平野川とともに大阪と奈良を最短距離で結ぶ水路としての利用も活発である。しかし大和川は非常な暴れ川でもあった。梅雨や台風の際には保水能力を超えることもあり、蛇行しながら北上する河道を通る際に溢れ出し、水害となるのである。また河川の勾配が大阪平野(河内平野)に入ると緩いために流送土砂が堆積して天井川となり、洪水の被害をさらに甚大なものとしていた。

そんな時代のお地蔵さんなのだが、街道はここで塞がれていたのである。

大和川のビフォーアフターを考えて、この先も探訪していく必要があるんよ。その大和川の旧河道の位置に現在も流れているのが長瀬川であり、戦前までは川幅は河川敷を含め30m程あったが、現在の川幅は5m程(正味ではない)である。そのため戦前までは、流域の農家の多くが、天満青物市場まで船で作物を出荷しており、記録および写真として残されている。そのため近年では、大和川は付け替えられたのではなく、分流させたのだとする説もある。

道の旅人は、いよいよその長瀬川を渡ることになる。