蕪村句碑

 

 

古代から、大和川の本流として利用されてきた名残を、水路のような現在の長瀬川に立って、道の旅人は振り返ろうとしていた。 つまり、1704年に付け替え工事が完成するまで、暗越奈良街道を、川幅が270mあったという旧大和川が分断していたことになるのだ。それが、奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置され、防人や唐・朝鮮の外国使節もこの道を通って平城京と行き来したと言うことに対し、ちょっとした疑問を持たざるを得ない。

この『放出停車場 三十丁』の碑(いしぶみ)は、長瀬川沿いに、放出まで道が通じていたことになる。

つまり、東大阪市に入ると、多少の屈曲はあるものの概(おおむ)ね北流し、長瀬川は国道308号(街道筋の南側)をくぐる辺りから向きを北西に変え、大阪市に入ってすぐの城東区諏訪で第二寝屋川と合流しており、放出に辿ることができるのだ。

古代から大和川の本流として、その水運は利用されてきたのだが、陸路よりもむしろ、水路としての利用が活発であったと思える。そしてこれら流域に、集落が発展していったのである。

ところが大和川は、非常な暴れ川であり、土砂が堆積して天井川になったりすると、洪水の被害をさらに甚大なものとしていった。

そんな大和川の付け替えで、今では、長瀬川と改めて緑地風景を見せているのである。

大和川の旧河道の位置に現在も流れているのが長瀬川であり、戦前までは川幅は河川敷を含め30m程あった(現在の川幅は5m程)。そのため戦前までは、流域の農家の多くが、天満の青物市場まで船で作物を出荷しており、記録および写真として残されている。そのため近年では、大和川は付け替えられたのではなく、分流させたのだとする説もある。

高度成長期になると、新しい大和川へ多くの水を流すようになり、かつての大和川の諸流は埋め立てられ、長瀬川も農業用水路として、後には工業排水用の水路として細い流れを残すのみとなった。しかし、その工業排水によって汚染されることになり、八尾市・東大阪市・大阪府・旧建設省(現在の国土交通省)が中心となって水質改善を進めて今に至っている。

長瀬川に沿って南に進み、国道308号線を渡れば宝樹寺なのだが、この川の一筋東にあり、ちょっと見つけにくいかもしれない。そこに、紀海音と菅沼奇渕の墓地があるのだ。

 

紀海音(1663-1742):あの近松門左衛門と、人気を二分した浄瑠璃作家である。大坂御堂前雛屋町の禁裏御用の菓子屋、鯛屋善右衛門の次男として生まれた。 海音は若くして出家し、1700年(元禄13年)父の死と共に還俗し、医学を身につけ生計を立て、また契沖に入門して国学や和歌を学び、兄貞柳にも師事し狂歌を教わっている。その後、戯曲を書くようになり、豊竹座の座付作家に招かれ、1723年(享保8年)に引退するまで、約50編の作品を残した。

大坂の浄瑠璃が大発展したのは、竹本座と豊竹座がライバルとして、拮抗したことが大きいといわれ、中でも1722年(享保7年)に大坂生玉で起きた、半兵衛とお千代夫婦の心中事件を扱った「心中二つ腹帯(はらおび)」は、近松門左衛門の「心中宵庚申(よいごうしん)」と競作になり、竹本座か豊竹座かと世の中を大いに沸かせた。1742年(寛保2年)79歳で没した。上本町にあった宝樹寺に葬られらたが、1927年(昭和2年)道路拡張により、墓と共に、現在地に越してきた。

菅沼奇渕(1763-1834):江戸時代後期の俳人で、堺の生まれ。青年時代大坂に出て、不二庵二柳(ふじあんじりゅう)に師事した。師の二柳は20代で諸国放浪の旅に出て蕉門と交流があり、51歳で大坂に居を構え、以後30年にわたり芭蕉の顕彰と蕉風の発展に生きた人であるが、奇渕も二柳の後を引き継ぎ、終生芭蕉の顕彰に努めた。 芭蕉の終焉地である、大坂・南御堂前の花屋仁左衛門宅は1807年(文化4年)の火災で焼失したが、その2年後、奇渕はこの跡地にささやかな翁堂と中2階造りの「花屋庵」と称する家屋を建てて移り住み、花市会、松風会、枯野会等の芭蕉祭祀行事を創始し、大坂蕉門俳諧の拡大に努めた。門人は3000人とも称されるほど名声も広がり、法眼(ほうげん)の位に叙せられた。著書に『西国七部集』『芭蕉袖草子』『俳諧季寄大全』などがある。尚、茅渟奇渕名で建てた 芭蕉の句碑が、大阪・星光学園内に残っている。

蕉門の拡大に尽くした奇渕(きえん)と同じように、芭蕉を敬い慕って、東北地方を周遊したのが与謝蕪村(1716-1784)である。 その蕪村が、暗越奈良街道の新喜多(しぎた)付近に来て句をつくっているのだ。その句碑が新喜多中学校にある。

 

日は日くれよ

  夜は夜あけよと

         啼かわす

 

蛙の啼く声を詠んだ春の句である。摂津国東成郡毛馬村(けまむら)(大阪市都島区毛馬町)に生まれた蕪村は、江戸で俳諧を学び、京都に居を構えたのが42歳ごろだというが、大坂をいつ周遊したのであろうか?

45歳頃に結婚し一人娘を儲けたが、51歳には妻子を京都に残して讃岐に赴いている。この時大坂に立ち寄ったのでないだろうか?しかし、芭蕉を辿るならば暗峠を越えて大坂に入らなければならないのだ。もし京都からだとすると、淀川から東高野街道を選んで、枚岡神社まで行き奈良街道のコースに入ったのではないかと推測される。

しかも、芭蕉は秋の季節なのだが、蕪村は春の季節にこの長瀬川まで下りてきたのだ。まるで一夜を過ごした句のようであるが、なんとなく、名句「春の海・・・」を想い出させるような句である。

 

この長瀬川を渡り、道なりに進むと小坂北口に出る。ここから、道の旅人は北へ向かい寄り道した先は、西堤神社である。と言うのも、、西岸・西堤が幅を取りすぎて東岸にたどり着かないことが気になったんよ。そしたら、そこでまた新しい出会いがあった。

第二寝屋川の西岸、阪神高速13号東大阪線がすぐ北を走り、西堤東の交差点のすぐ南に西堤神社が鎮座しているのだ。 昭和43年(1968年)、第二寝屋川ができるまでは、この周辺には楠根川が流れていた。 ところが、西堤の地名は楠根川の西の堤ではなくて、現大東市に勿入渕(ないりふち)という池があった折、その西堤に住んでいた人たちがこの地に移転したことで命名されたと言うんだ。

そして境内社には水神社があり、「鱗殿(うろこ殿)」とも呼ばれているが、大蛇を退治した時にはがされた鱗が祀られているという。 井原西鶴『西鶴諸国はなし』にも、これに関する逸話が記載されている。

さすがに、大東市までは探訪するわけにいかないが、何故池を捨てて、西堤の人たちがこの地に移り住まなければならなかったのであろう?

ひょっとしたら、巨大な池の消滅が、村の運命を変えていったのかもしれないが、良くも悪くも水の影響を受けてきたのであろう。

むかし、大和川は河内平野を北へ流れて、新開池(しんかいいけ)と、深野池(ふこうのいけ)という二つの池へと注ぎこんでいたんよ。二つの池は、現在の大東市・南側から東大阪市の長田あたりまであったと伝えられ、池というより湖と呼んだ方がふさわしいほどの大きさである。

 

その新開池に二匹の大蛇がおり、長田村の内助(ないすけ)という者も、魚を捕りに出たまま大蛇に呑まれ、帰ってこなかったのです。

大蛇が暴れるたび、池のそばの村々は洪水にみまわれ田畑や家が流されて、災難にあうのでした。その年も洪水の為に米が出来ず、池の魚や貝などが捕れなければ、飢饉になることは確実でした。困り果てた村人たちは、たびたび寄り合い、そして、「大蛇を退治をしよう」と決めたのですが、神さんのご加護か、一匹が力尽きて白い腹を見せました。残る一匹は、池の水をまき上げ空へと消えていったのです。

そんなある日、西堤村(大東市)の庄屋の夢枕に顕れ、「わしは新開池の青蛇大明神である、われらを手厚く祀るなら、恨みを流そうではないか。」と言ったそうです。あくる朝見ると、庄屋の家の縁がわに、一枚の大きなうろこが落ちていたので、そのうろこをご神体として、祠を建て祀りました。                  (『東大阪むかしむかし』より)

 

そして現在、巨大な池たちの名残として、大東市に【勿入渕址】の碑が建っているのだが、これが『枕草子15』の、「な入りその渕、誰にいかなる人の教えけむ」なのである。