深江稲荷神社

 

深江地域は、東成区の東部に位置し、町の東端は東大阪市に接し、中央を南北に内環状線、南側に大阪枚岡線が走っています。古代よりの笠縫邑跡と言われ深江の菅笠として有名で、江戸時代には、深江の菅笠が名産となり、伊勢参りの道中笠として買い求める人々で賑わいました。周辺には、歴史のある神社仏閣も多く、白壁や土蔵の街並みなど落ち着いたたたずまいを残しています。

当社の創起は、第11代垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖が大和笠縫邑より、良質の菅に恵まれた当地、摂津国東生郡笠縫島の宮浦に居をかまえ、下照姫命を奉祀したのが始めで、その後、和銅年間(708~15)に山城国稲荷神社の分霊をを勧請したと伝える。

笠縫氏は代々伊勢神宮のご神体を守る菅御笠、菅御翳(さしは)を奉ずる氏族で、当地に移ってからも歴代天皇御即位式の大嘗祭に用いられる御菅蓋や伊勢神宮式年遷宮の行われる毎に御神宝の菅御笠、菅御翳を奉製献納する栄誉と伝統を担っていた。 

江戸時代にはお伊勢参りが盛んに行われたが、伊勢音頭に「大坂出てから早や玉造、笠を買おうなら深江が名所」と歌われたように、大坂玉造の二軒茶屋から伊勢参りに出立した者は、まずここで菅笠を買うのがしきたりになっていたという。

なお、この菅笠作りは現在に至るも有志の方により、作り続けられ、大阪市の無形文化財に指定されている。

 

四極山(しはすやま)うち越しみれば笠縫の 島こぎかくる 棚なし小舟(おぶね)

                                    【万Ⅲ-272】

 

深江稲荷神社の境内に、高市黒人の歌碑がある。その隣には、人間国宝角谷(かくたに)一圭記念深江郷土資料館(入館無料)がある。

角谷家は、大阪の深江で代々、宮大工の家系でしたが、明治18年頃、初代巳之助が鋳物の魅力にひかれ鋳物師としての道を歩みはじめました。その四男が一圭(1904-1999)であり、伝統的な茶の湯釜(筑前芦屋釜)製作を極めるために、和鏡の文様に対する研究を重ねたといわれる。昭和48年(1973)の第60回式年遷宮に御神宝鏡31面を、平成5年(1993)の第61回式年遷宮に際しても御神宝鏡31面を製作している。そして昭和53年(1978)に重要無形文化財保持者(茶の湯釜)に認定された。

伊勢の神宮式年遷宮や、天皇即位後の大嘗祭では、儀式用の大型の菅笠などが、今もなお製作されています。

平成11年度には、“深江の菅細工”が大阪市の無形文化財に指定されました。

平成23年10月には、伊勢の神宮において、第62回神宮式年遷宮装束神宝管御笠並びに菅御翳の管編綴部分の献納式が行われました。

かつては深江のほぼ全ての農家で菅細工が作られていましたが、近代には帽子の普及に伴い菅笠づくりは廃れ、明治・大正期には皿敷をはじめ各種の菅細工生産に転じて輸出もしましたが、産業としてはあまり長続きせず、昭和30年代前半には深江稲荷神社境内の菅田がなくなり、その後深江に一反ほど残っていた菅田もなくなり、材料の菅は他県から取り寄せていました。

現在は、地元有志で形成された“深江菅田保存会”によって南深江公園と深江郷土資料館前に菅田が復元され良質な管の収穫を目指しています。

 

ここで突如だが、淀川の話になる。と言うのも、1885年(明治18年)6月は、上旬から二つの低気圧の影響により雨が降り続けた。6月17日淀川左岸にある支流天野川の堤防が決壊、次いで枚方三矢、伊加賀で淀川本流の堤防が三十間(約182m)にも渡って決壊したのを皮切りに、以後淀川左岸の堤防は各所で決壊。25日から始まった新たな暴風雨によって水は寝屋川に達し、その他の河川も水が溢れ出した結果、江戸時代干拓で消滅したはずの深野池と新開池以上の大きな湖、かつての河内湖が地上に現れ出す始末であった。

その明治大洪水で、大阪府下の北河内郡・中河内郡、東成郡及び大阪市街の一部を飲み込む甚大な被害が発生したのだ。それも、八百八橋とうたわれた大阪の橋は30余りが次々に流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断された。

つまり、上町台地一帯を除くほとんどの低地部が水害を受け泥海化していた。以来、大切な品を水害から守るため、石垣で段々に高くした倉を建てて納めた。それを段倉(だんくら)と呼ぶ。

 

神路村海抜1.9m、高い深江村で2.6m。深江の段倉あり。地下は砂地なり。

            (東成郡誌)

 

この深江村に、『四千万歩の男』が宿泊していた。

文化5年11月26日(1809年1月11日)朝曇天、六ッ後(朝5時半)大坂淡路町出立我等、坂部・柴山・下河辺・青木・文助・佐助・善八、安堂寺町二丁目より測初、安堂寺町筋を平野口町迄測、それより木村周蔵支配所、摂津国東成郡中道村、石原庄三郎支配所、本庄村、大今里村、深尾村(深江村の誤り)地先を歴(へ)て、岡村字新家、河内国渋川郡東足代村字新家界(奈良道十三峠越)追分迄測、四ッ後(朝10時)深江村へ着。止宿本陣、長(おさ)百姓弥七、別宿庄屋五郎兵衛。此朝内弟子秀蔵長病に付、添触を入、大坂より街道を伏見、それより東海道を江戸、又佐原村(伊能家)まで下す。此夜宵曇、無程晴て測量(天文)。

同27日朝晴天。六ッ後深江村出立。昨日測留、河内国渋川郡東足代村より初、荒川村同村字長道、同枝沼菱屋西新田、同国若江郡上小坂村、若江村、西郡村、山本北新田、河内郡福万寺村、池ノ嶋村、高安郡楽音寺村、神立村、九ッ半(昼1時)頃に着。止宿年寄伊右衛門、別宿嘉右衛門。若江村畑の中に山口但馬守墓、木村長門守墓あり。此夜晴天測量。

                         (四国沿岸大和路第六次測量篇より)

実地測量で日本地図を作ったのは、伊能忠敬が初めてです。その地図は、海岸線の測量を精密に行い、非常に正確な日本列島の形を描いていた。しかし、それが日の目を見たのは、明治時代以降なのだ。

と言うのも、開国とともに西洋化の波が押し寄せた。その時地図として太刀打ちできたのが、半世紀以上前の『大日本沿岸輿地全図』であった。

ところで、彼が中高年の星と呼ばれているのは、隠居(50歳)してからのセカンドライフが、足かけ17年をかけて全国を測量してまわり、一大プロジェクトを成したことにある。

 

年を重ねただけで人は老いない。

理想を失うとき初めて老いる。

(サムエル・ウルマン『青春』)

 

伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時(よしとき)の子である高橋景保(1785年-1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)『大日本沿海輿地全図』が完成した。

道の旅人としても、”二度生きる”ってことに肖りたいと思いながら、次の法明寺に立ち寄った。その境内には、雁の夫婦愛に心をうたれた法明上人が、その冥福を祈るために建立された雁塚がある。