足代笠のモニュメント

 

 

深江から街道に戻り進むと、アーケード商店街“ブランドリーふせ”を横切った一つ目を北に向かえば国道308号線に出る。しかしこの章は、布施について述べたいと思う。

1937年(昭和12年)に、中河内郡布施町・楠根町・小阪町・意岐部(おきべ)村・弥刀(みと)村・長瀬村が合併し、大阪府下で5番目に市制を施行して布施市が誕生した。 ところが1967年(昭和42年)に、河内市・枚岡市と合併して東大阪市になったんよ。

つまり、行政上の地名としては存在しないのだが、布施駅(近鉄)を中心とした地域には、その名を残している。しかも、伊勢・名古屋方面(大阪線)と、奈良方面へ向かう線路(奈良線)が分岐する一大ジャンクションでもあるのだ。

そしてその駅名も、開通時は深江駅(1914年)であり、1922年に足代駅に改称、そして1925年に今の布施駅になったってわけ。

このアーケード商店街を布施駅に向かって歩いていると、“布施えびす”の幟が目につき、駅よりもさらに南側に布施戎神社がある。

1954年(昭和29年)、西宮戎神社から戎大神(ひるこのみこと)の御霊代(みたましろ)を勧請申し上げ、布施戎神社の祭祀がはじまった。と思っていたら、1988年(昭和63年)には、大阪の今宮戎神社から事代主命(ことしろぬしのみこと)を勧請申し上げ、以来厳粛な祭祀を執行し、広大な御神徳を仰いでいると言う。

ところがこの足代には、延喜式(927)や『河内名所図会』(1801)に名を残す、式内都留弥神社が鎮座していた。明治18年(1885)の淀川大洪水で流失し、その後も、足代の氏神として村民たちの手で再建もされたが、国の神社合祀政策により、明治40年(1907)、近隣の荒川・長堂・岸田堂などの神社と合併して、この地から東方約1㎞(荒川)に遷座し祀られ、今ではこの地は、都留彌神社の御旅所でもある。

布施の地名の由来は、奈良時代の東大寺大仏建立の時の河内における建立従事ボランティアの福祉施設である、「布施屋」であるという説なのだが、むしろ、お布施を募り氏神である都留彌神社を再建したところに、その名が遺されたのではないだろうか?つまり、太平寺・岸田堂・荒川・東足代・菱屋西新田・永和(ながにごり)の6ヶ村が合併して成立した自治体名が布施村(明治22年~大正14年)なのだ。
そして布施町(大正14年~昭和12年)、布施市(昭和12~42年)と続いて、合併により東大阪市になったのだが、今もって布施駅周辺が、最大の商業集積地であることに変わりはない。

この布施駅北側の広場に、2体の像が立っているんよ。それが、足代笠のモニュメントなんだよね。つまり、深江の管笠と同じような光景が見られてたんよ。

このあたりは、平安時代から足代と呼ばれており、南北朝~戦国期には荘園名としても見える。そして江戸期には、西足代村・東足代村とあるのだ。つまり、布施以前は、足代がその中心であり、布施戎もかつては足代戎だったんよ。

ところでその地名の由来には、川の浅瀬に仕掛けて魚を獲る網代が足代に変化したという説と、当時盛んに作られていた網代(足代)笠と呼ぶ菅笠から来ている説とがあるらしいんだが、今から7000年前頃(縄文前期)は、この一帯は大きな湾(河内湖)になっており、古代には葦の生い茂る湿地帯に変わっていたと思われるんよ。

つまり、深江と同じ地勢であり、莎草(シャグサ・ハマスゲグサ)を材料として渋川郡足代村、東足代・三ノ瀬・岸田堂、そして太平寺などでも笠が作られていたんだ。

ここから道の旅人は、布施の氏神、都留彌神社に向かうことにした。つまり、近鉄大阪線の沿って荒川の地に入る。この時合祀された神社について、由緒略記には都留彌神社(足代)・天神社(岸田堂)・稲荷神社(菱屋西)・子守神社(大平寺)・大歳神社(長堂)・産土神社(三の瀬)・子守神社(永和)・鹿島神社(荒川)の8社とあるが、大阪府全志(大正11年・1922刊)に記す合祀社とは、一部の神社名・旧社地の大字名に違いがある。とは言うものの、ここが布施の町の中央部にあたると言うことなのであろうか?

と言うわけで、布施神社となる処、当時政府の勧告に基づき、由緒深き式内社都留彌の社号を残し、現在に至ったのである。

ところで、醍醐天皇より社号を賜ったとあるが、この由来についてははっきりしていない。ただ元場所が足代であり、古代には島を形成したであろうこの地にあって、【鶴見】(ツルミ)と解釈したいところではあるが・・。

そして、鶴見区と言えば、放出街道沿いにある、草薙の剣の御霊を御神体として奉納している阿遅速雄神社につながるのだ。

 

ただ由緒略記には、「醍醐天皇の延喜10年、春から続く大旱魃で田植えができず百姓が困っていた。それを聞いた天皇が、河内国の12社に勅使を遣わし雨乞いを祈願された。これにより大雨が降り伝畑を潤し喜びの声が国々に満ち、その後も順雨が続き連年豊作が続いた。この奇瑞に感動した天皇が親しく当社(旧地)に参詣され、都留彌神社の社号を賜り、従五位上を贈られた」

 

商店街に戻った道の旅人は、あの浅草観音で有名な浅草寺(せんそうじ)を近鉄線の南側の路地で見つけた。

関西唯一と言うのだが、どうしてこの地にあるのかはわからない。河内には、神社仏閣は数多くあるし、新しい寺の建立など考えられないのだが、その経緯はとんとわからない。

たしかに建造物は、いかにも寺院と言うような誇らし気なものではないし、どうも終戦後に勧請したのであろうか?

これもまた、布施の文化と言うことになるのかもしれない。

 

ただ、足代神社由来についてのコメントがある。

「当神社は終戦後より足代の地に御鎮座ましまして天在諸神(あまにますのももくのおおかみ)が祀りされています。当初より足代に持住す正木直市氏が御奉仕して来られましたが此の度、当浅草寺二十周年記念を契機に御社二体一式を当寺へ寄贈されました。足代の氏神として御守護頂けることになりました。」

ふたたび道の旅人は、アーケード商店街に戻ったのだが、実はこの通りが、中高野街道の一部で、南狭山方面を通る東高野街道と京街道を結び、ほぼ、摂津と河内の国境を通っており、剣街道とも呼ばれているんよ。

と言うのも、阿遅速雄神社(鶴見区放出東)の参詣道にあたり、別名:八剣神社に由来するのだが、そこには草薙剣盗難事件(668)が絡んでいるのだが・・・。

 

そして、この布施を通り、放出(はなてん)を目指すところから、放出街道とも言われているのである。