14 歴史を映す鏡

最も古い「歴史物語」は『栄花物語』であるが、十世紀中ごろから藤原道長(966-1028)の死までを扱った長大な年代記で、、基礎的な史実(誕生と死、昇進と左遷など)を記すだけでなく、折々に詠まれた歌なども記録している。

作者は赤染衛門(956?-1041?)とされ、大江匡衡(まさひら:952-1012)の妻となり、夫の死後は尼になった宮廷女性であるが、この人物が主たる作者だったとしても、作品全体を一人で書いたとは考えられない。

 

というのも、『栄花物語』に記録されている最後の出来事は1092年のことだから、最後の十巻は、「閑却されてきたのも道理」と言われるように、それ以前の三十巻より明らかに劣っており、おそらく、赤染衛門ほどの文才を持たない別人が書き継いだものであろう。

赤染衛門が『栄花物語』を書いた目的は、三人の岳父となった政治家、藤原道長の生涯を後世に伝えることにあり、道長こそ、日本史上で最も栄光に包まれた宮廷人であると確信し、「その確信と矛盾するような事柄は一切含まない」つもりだったようである。

 

他の文学作品で顔なじみの宮廷人もたまに登場するが、道長の詳細な描写に費やされた熱意ほどのものはなく、例えば、様々な出来事を述べている中で、そのとき紫式部が詠んだ歌をいくつも引用しているのに、紫式部自身には全くと言ってよいほど触れていない。

 

為尊(ためたか)・敦道(あつみち)両親王と和泉式部の関係についても、ごく短い記述があるだけであるが、為尊の死が弟敦道親王と和泉式部の恋愛の背景をなしている、こうした記が多く含まれていれば、『栄花物語』は、平安文学を読むときの必携書になっていたかもしれない。(20211206)

次に取り上げる歴史物語『大鏡』は、遠い過去から14世紀までの日の歴史を映しだしている「四鏡」の一つであり、その中で最初に成立した作品で、のちの軍記物語が社会全体を扱っているのに対し、四鏡は貴族階級だけに視点をすえているという特徴がある。

『大鏡』に語られているのは、、850年~1025年までのできごとで、『栄花物語』と同様、藤原道長の生涯と同じ時代であり、995年~1027年まで宮廷に君臨した道長なのだが、歴史としてみると、その面白さは、平安宮廷に生きた人々のエピソードを伝えてくれることにある。

 

花山天皇と藤原道兼(道長の兄)の人間性なども印象深いが、どの人物を語っている時でも、道長の存在がどこかに感じられても、読者の印象に残るのは、最高権力者道長ではなく、あれこれのゴシップの主人公道長である。

今鏡』(成立時期:1174~1175)は『大鏡』を引き継ぎ、1025年~1170年までの出来事を語った作品で、この作品で扱われている時代は、客観的には動乱の時代、特に末期には武士階級の台頭が著しく、保元・平治の乱も起こっている。

 

しかし、『今鏡』はそのような政治状況にはほとんど触れず、古き良き時代の宮廷の回顧に終始しており、和歌と音楽が主たる関心ごとで、あらゆる関心ごとで、あらゆる儀式が故実にのっとって行われていたかつての宮廷ーそれへの憧憬が『今鏡』の基調である。

宮廷での生活は、天皇や皇族の死を語るとき以外はいつも楽し気に描かれており、在原業平(52)がのちの宇多天皇(10)と相撲を取った話のように、思わず微笑みたくなるエピソードもあり、壊してしまったひじ掛けを、記念に保存していたのを役人が修理しようとしたことなど。

 

『今鏡』とほぼ同時代に著わされ、今日まで残っている「鏡物」の一つに、『水鏡』があり、これは、伝説の初代天皇神武の即位から第54代仁明天皇の崩御(850年)まで、1522年間の歴史から14人の天皇をえらび、その治世を語った歴史書である。

 

『大鏡』の伝統に連なる「鏡物」は、さらに4作目が書かれ、なかでもこの『増鏡』が文学的に最も優れており、後鳥羽院が生まれた1180年から、後醍醐帝が隠岐の島から帰洛する1333年までを扱っていて、成立時期も文体も他の鏡物とは大きく異なっているため、改めて取り上げる。(20211220)