10 清少納言と『枕草子』

 

日本の「随筆」と呼ばれるジャンルで、きらめくような才気煥発ぶりを発揮している作品といえば、誰もが清少納言(966頃-1025頃)の『枕草子』を挙げるだろう。

これ以後、無数の日本人が随筆を書くことになるが、その散文の切れ味をしのぐ者はおらず、清少納言を超えたものはいないのだ。

 

平安時代の宮廷には、女性をその父親または夫の役職名で呼ぶ習慣があったが、清少納言の場合は、父親(清原元輔)もふたりの夫(橘則光・藤原棟世)も少納言ではなかった。

父の元輔は、優れた歌人であり、『後撰集』(勅撰和歌集)をも編纂し、私家集の一首は百人一首にもとられているのだ。

 

清少納言が仕えた中宮は、定子(976-1000)であり、藤原道隆(953-995)の娘で、一じょぷ天皇に迎えられ、道隆が天皇のお気に入りだったこともあって「中宮」になった。

ところが、道隆の死後、道長は999年に彰子を入内(じゅだい)させ、翌年には強引に「中宮」にし、定子は皇后となり、この二后並立が、清少納言と紫式部のライバルを生むのである。(20210719)

 この草子(さうし)、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居(さとゐ)のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便(びん)なき言ひ過ぐもしつべきところどころもあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏(も)りいでにけれ。【『枕草子』319段】

 

ただ地名を並べただけのものであれ、簡単なエッセーの形をとったものであれー『枕草子』本来の姿を現しているのかもしれない。

感嘆すべき導入部も、もとは「春、曙。夏、夜。秋、夕暮れ。冬、つとめて」というメモから始まったのかもしれないが、簡単なメモの形でも、作者の鋭い感覚をうかがわせるには十分である。

 

『枕草子』に含まれるリストは、二種類に大別でき、一つは地名や草木のほか、「峰」「原」「市」「わたり」など、歌によく詠まれる事物をあげたもの、もうひとつは、「みぐるしきもの」「めでたきもの」「すさまじきもの」など、清少納言が個人的に何か感じるところのあったもののリストで、内容はこちらのほうがずっと豊かである。

なお清少納言は、993年から1000年まで宮仕えをし、少なくとも二回は正式に結婚しているが、それ以外にも、宮中の何人かの男性と関係を持っていたが、和泉式部とは異なり、放縦な女性という噂は立たなかったが、『枕草子』には自分の情事に触れている部分もある。

 

『枕草子』全体にみられる、三千六百六十例ほどの形容詞のうち、四百四十五例を占めているのが「おかし」だが、いつも「面白い」という良い意味に用いられていて、ときには「すばらしい」「ほれぼれする」「興味深い」などとも訳せようが、細かなニュアンスはともかく、常に発言者が嬉しがり、たいていは面白がっていることをあらわす。

文学的観念としての「おかし」は、紫式部の作品に典型的にみられる「あはれ」と対比され、人間体験の感動的側面やしみじみとした側面を言う「あはれ」は、以後の日本文学で「おかし」の何倍も使われることになるが、『枕草子』にみられるユーモアが日本文学ではまれにあることの、一つの具体的な現れともいえる。(20210726) 

清少納言は、機転が利くことで有名で、『枕草子』の中にも、とっさのひらめきで座を笑わせたり、博識ぶりを見せつけたりするエピソードがいくつもある。

たいていは、中宮が嬉しげに笑うか、清少納言の学識をほめたたえて終わるが、これは自慢というより、むしろ中宮の知性と慧眼を讃えるための文章だったかもしれない。

 

『枕草子』は、『古今集』と『源氏物語』という平安時代が生んだ、ニ傑作ほど後世に読まれなかったが、日本文学の中で、最も機知に富む気の利いた作品であることに間違いはない。

「ウィットは、男女が平等にまじわる社会で初めて可能になる」(ジョージ・メレデス『Essay in Comedy』)という言葉を思い出させる。

 

時代が下がり、武士が支配階級にのし上がると、清少納言のような考えは好ましくないと排斥され、男女間の平等も儒者によって否定された。

女性の社会的地位が目覚ましく向上した現代でさえ、『枕草子』は古典文学研究の主流から外れてはいるが、着想から一千年を経た今日でも新鮮さと個性を失わずにいるのである。(20210802)