17 『新古今集』の時代

日本古典文学史上で三大和歌集と言えば、一般に『万葉集』『古今集』『新古今集』を指すだろうが、このうち『古今集』と『新古今集』は、いわゆる八代集の最初と最後の歌集であり、六つの勅撰集が挟まれている。

『新古今集』は、十三世紀初頭の十年ほどの間に編纂され、武士の台頭で実験をすでに失っていた宮廷にとって、作歌や勅撰集の編集は、わずかに残された、宮廷機能のひとつであり、その持つ意味は以前にもまして大きくなっていたと考えられる。

 

西行・後鳥羽院・藤原定家は古今の大歌人に数えられているし、その三人に劣らず有名な歌人が何人もおり、どの歌人も特色ある歌を詠んでいるが、『新古今集』の代表的な作品には、批評家が新古今風と呼ぶある共通の調子と表現上の特徴がみられる。

例えば、『古今集』に比べ、初句切れや三句切れの歌がはるかに多く、また、詩的効果を名詞に依存する歌ー特に、体言止めの歌ーが、主題のいかんにかかわらず億、これも、用言の語尾変化を重視した『古今集』とは異なる点である。

 

『新古今集』の歌人たちが本歌に使った歌には、平安朝がその黄金時代にあったとされる三百年ほど前の作品が多く、宮廷社会が無秩序の恐怖におびえずに済んだ過去・・・その過去への郷愁が、本歌取りという形をとって、『新古今集』の新古典主義を生んだのかもしれない。

定家も、いくつも歌論を著わして、新しい規則を提唱しており、要約すると、①三代集を中心とする古歌のすぐれたものを本歌とし、②とった歌句は本歌と異なった個所に置くことが望ましく、本歌の主題もすっかり変えることだという。(20220718)

 

後鳥羽院(1180-1239)が、のちに歌人としてまれに見る才能を発揮したことを考えると、在位中(1183-1198)の歌が一首も残っていないのは不思議である。

院の歌で今日に伝わる最古のものは、譲位後初めて宮中に桜を見に行った時の感慨を詠んだ歌で、1199年の作とされている。

 

院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会・歌合などを行うようになった。

2度の百首歌(1200年7月・8月)を経て和歌に志を深めた院は、建仁元年(1201年)、命を受けた30人の歌人が100首ずつ詠進(「後鳥羽院第三度百首」)し、この3000首が1500番の『千五百番歌合』である。

 

これに認められた藤原定家(1162-1241)と院は、以後も良好な関係を示し、定家は院の歌作りに助言を与え続け、院はまた、呑み込みの早い生徒で、定家の指導で歌才を急速に開花させ、やがて歌合にも出席するようになる。

歌聖柿本人麻呂の肖像を前にした「影供(えいぐ)歌合」も、よく行われたようで、そのような場で後鳥羽院は、いつも作者名を隠し、自作が自由に批評されることを期待し、いよいよ1201年7月、和歌所を設置して、『新古今集』編纂への第一歩が踏み出された。(20220725)

『新古今集』に撰進された歌は、当代の作品に限定されておらず、既に他の勅撰集に見える歌は除外されたが、、『万葉集』(勅撰集ではない)からは数首選ばれているほか、『古今集』時代の歌人の作品も多く取られている。

それにもかかわらず全編に「新古今風」がみなぎっていると言われるのは、当代と過去の歌の中から、撰者の世代の感覚に最も合う作品が選ばれているからで、源通具(みちとも)・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮法師の6人。

 

『古今集』の歌人は、穏やかな憂鬱を楽しむように詠んだが、『新古今集』の歌人の悲しみの表現には、ときに絶望に近い強烈さがあり、その一方で、自分たちが今、偉大な和歌復興の時代に生きていることは確信していた。

とりわけ藤原定家(1162-1241)は、『新古今集』を代表する偉大な歌人であるが、その最初の歌は三十八番目にようやく現われたにしろ、この歌こそが、『新古今集』全体の基調を定めた作品であると言ってよい。

 

春の夜の夢の浮橋とだえして峯にわかるる横雲の空

 

1235年頃、定家が編んだ歌集に、『小倉百人一首』があり、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためたものだが、21世紀の現在に至っても、日本人の美意識に影響し続けてきたのは事実である。

なお、流刑という試練を経験して歌人として成熟した後鳥羽院であったが、流刑中に『後鳥羽院御口伝(ごくでん)』という歌論書を著わしているが、第二部のほぼ半分が定家評に充てられており、才能は認めるものの、いくつかの欠点をあげつらうも、明晰さにかけている。(20220801)

詳しく論じるべき歌人をあと一人だけ上げるとすれば、西行(1118-1190)であろうが、ほとんどの『新古今集』歌人より少し前の世代に属するのだが、勅撰集での本格的な顔見世は『新古今集』となる。

西行は、真言宗と他の仏教宗派の教義上の違いにはほとんど関心を持っていなかったが、伊勢の地に惹かれ、そこに五年以上も住み続けることになるのは、おそらく、ともに太陽神である、真言宗の本尊大日如来と神道の主神天照大神を同一視する真言宗の教えにあったのだろう。

 

西行は偉大な旅人として知られ、大体は、古歌に詠まれている「歌枕」を訪ねる旅だったようだが、一度だけ、近かった崇徳院(1119-1164)の墓に詣でるために四国へ旅しおり、保元の乱(1156)を平安貴族世界の終焉・武家支配の始まりととらえていたことも事実である。

存命中には完全に理解されなかったとしても、『新古今集』編纂当時の西行の名声のほどは、この勅撰集に最も多く入集していることからも推察でき、若いころの定家が西行から多大の刺激と影響を受け、後鳥羽院が当代のどの歌人より西行を高く評価していたのである。

 

西行は、死後も新しいともに恵まれ続け、例えば松尾芭蕉は、『笈の小文』のなかで、和歌を代表する天才に西行を挙げているだけでなく、その陸奥の旅に触発されて、1686年に自分も北へ向けて旅立ち、紀行文学の傑作『奥の細道』は、この旅から生まれ、旅にある間、芭蕉の念頭にはいつも西行があり、西行の歌に詠まれている場所を一つとして見逃すことはなかった。

その後も名声は高まり続け、歌の注釈書だけでなく、西行という人間を理解するための書物が数多くあらわされたが、西行の歌の技法的側面に触れたものはあまりなく、全体的に見て典型的な新古今歌とはいえないまでも、『新古今集』が最高の勅撰和歌集になりえているのは、西行の力もあずかっていることは疑いがない。(20220808)