19 鎌倉時代の仏教文学

仏書として、もっともよく知られているのは、源信(942-1017)の『往生要集』であるが、ここには地獄と極楽の様子が詳細に描かれているが、源信はダンテでなく、とても詩的とは言えない漢文で書かれているうえ、源信の主たる関心は、どうしたら罪に相応しい罰を与えられるか、という一点にあったように見える。

尼を崖から突き落とした男から、商売物の酒を薄めて売った承認まで、様々な罪人が登場して罰を受けるけれど、源信の、地獄でのたうっている人々はー呉倉木で幸せにしている人々もー一人として名前をもたず、もちろん個性的に描き分けられてなどいないので、読者の記憶に残るのは、おそらく、源信が嬉しそうに並べて見せる独創的な拷問の数々くらいなものであろう。

 

この時代の僧が書いたとされる多くの作品のうち、親鸞の弟子唯円の『歎異抄(たんにしょう)

』は特別の重要性を持っており、親鸞の言葉を中心に編んだ十八条からなる、短い作品で、そこでは親鸞が浄土宗の教えを説いたり、他僧の考えの誤りを正したりしている。

真宗の僧清沢満之(1863-1903)がこれを世界に紹介するまで、『歎異抄』は本願寺に秘密裏に保管されていたのも、一見、悪を容認しているともとられかなに内容であることから、本願寺派、無知な信者が阿弥陀の救いを期待して罪を犯すことを恐れたらしい。

 

禅宗も、浄土宗同様、十三世紀に日本に広まった新興宗派であり、特に経典の権威を否定することで知られているが、日本が生んだ最高の禅僧と言われる道元には『正法眼蔵』があり、1233年から1253年にかけて、門下のために仏法の神髄を説いた書である。

きわめて難解な書であるが、同じ道元の思想を知るには、ずっと理解しやすい言葉で書かれた『正法眼蔵随聞記』があり、弟子の懐奘(えじょう:1198-1280)が折に触れて書き留めておいた道元の法語集である。(20220919)

鴨長明(1155-1216)は、仏教説話集の編者として重要であるだけでなく、優れた歌人でもあり、歌論家でもあるが、それ以上に『方丈記』の著者として有名であり、1212年に架かれたこの短い作品には、隠者の庵こそ、この世の災難から逃れる唯一の場所だという長明の確信が、きわめて美しい文体でつづられている。

世俗的な愛着や虚栄を家というイメージに託しながら、地震・大火・辻風で家を失った人々の嘆きを語り、その嘆きと対比させて、庵に閑居する隠者の喜びを語り、その庵はほんの仮ごしらえの粗末な住まいであって、たとえ破壊されてもどうということはないと言い、その書き出しも、日本文学で最も讃美されている文章のひとつである。

 

序に続いて長明は、なぜこの世のことがあてにならないと信じるに至ったかを、いくつかの例を引いて説明しており、それは1177年の大火であり、1180年の辻風であり、1181年と1182年の飢饉であり、1185年の大地震である。

長明が数え上げている災害には、天変地異だけでなく、平清盛の勝手気ままも含まれており、四百年も続いてきた京の都から瀬戸内海沿いの福原に遷都し、京都の家をそのまま捨てていく人もいたが、中には家を新都へ運ぼうとしてこぼたれて淀川に浮かび畑になったという。

 

長明が編纂した『発心集』序文の没頭に、「心の師とは成るとも、心を師とすることなかれ」という涅槃経からの引用があり、感情には心を許さず、自己を制御する様に説くこの一文は、この作品に収められた説話の主要テーマにもなっている。

更に、『発心集』の目的は、他の仏教説話集とは基本的に異なっており、発心した人々の話を集めたのは、読者を教化するためというより、むしろ、その編纂作業を通じて自分自身が発心できるようにという願いからであった。(20220926)

『閑居友』(かんきょのとも)は、天台宗の僧慶政(けいせい:1189-1268)の作品だが、摂政大臣藤原良経(よしつね:1169-1206)の子として九条家に生まれ、まだ幼いころに乳母に抱かれていて取り落され、そのために背骨が曲がったまま成長した。

高名な明恵(1173-1232)のもとで学んだ後、都の西に草庵をもうけ、そこに住み、1217年には渡宋したは、約1年という比較的短い滞在の後帰国しているのだが、在宋中にペルシャ人に出会い、釈迦牟尼仏を崇拝している明恵のために銘文を書いてもらった。

 

『閑居友』で特に興味を惹かれるのは、天台宗で言う不浄観の詳細が生々しく語られていることで、見るも忌まわしい一つの腐爛死に近づき、一晩中読経して泣き続ける若い僧の話で、不浄観の中でも腐爛死体を感じることは、外見の間証を見通すことに大きな助けになるのである。

偉大な歌人西行の作とされたことで、『撰集抄』は、長く広く愛読されており、ポルトガルの宣教師にも知られていたことが、ジョアン・ロドリゲス(1561?-1633)がこの作品をほめていることからわかる。

 

『沙石集』は、鎌倉時代最後の重要な仏教説話集で、無住一円(1226-1312)が編纂したと言われ、無住は、神道の神を本地の垂迹身であると考えただけでなく、和歌もまた、永遠の真実が日本に現われるときのひとつの姿だと信じていた。

梁塵秘抄』の歌は明恵の作品ほど洗練されていないが、題材と表現が面白いほど型破りで、今日でも魅力を失っていないし、それらの歌を詠むと末法の世に入ったと信じられていた時代でも、全てが陰鬱だったのではないことがわかるのである。(20221003)