18 鎌倉・室町時代の和歌

鎌倉時代の雰囲気をよく伝えているとされる和歌は、『新古今集』の歌ほど印象深くなく、美しくもないと感じられるかもしれないが、三代将軍源実朝の歌は、明治以降の批評家に絶賛された。

というのも、万葉調の気取らない素朴さがあり、大丈夫振りなのだが、平安時代の歌に気取りや過度の繊細さを見て、それを嘆かわしく思っていた人々には、実朝の歌が新鮮に響いたに違いない。

 

鎌倉幕府を開いた源頼朝は1199年不慮の死を遂げ、そのあと長子頼家が二代将軍となったが、1203年、外戚北条氏の圧力もあって、弟実朝(1192-1219)に将軍職を譲り、頼家の維持の公暁(くぎょう)に暗殺されるまで将軍の地位にあったが、それは北条氏に支配され続ける十六年間だった。

実朝の短い生涯は、とりわけ戦争体験をもつ作家の想像力を強くかきたて、多くの作品を生んでおり、これほど注目されたのは、実朝が武人であり歌人でもあるという、一つの理想を体現しているからであろうが、鎌倉幕府編の史書『吾妻鏡』によると、実朝は十四歳で歌を詠み始めているが、その歌は今日に残っていない。

 

初期の実朝讃美者の一人に賀茂真淵(1697-1769)がいるが、賀茂真淵は『金槐和歌集』の貞享本を校訂したときの付言に、その万葉風の和歌を「大空に翔ける龍の如く勢いあり」などと絶賛し、中には、「人麿のよめらん勢ひなり」と激賞したりしている。

明治時代には、正岡子規を中心に和歌革新運動が進められたが、その口火を切った評論「歌よみに与ふる書」は「仰せのごとく近来和歌は一向に振い申さず候。正直に申し候えば『万葉』以来、実朝以来、一向に振い申さず候」という文で始まっている。(20220815)

1232年、後堀河天皇の勅命により、藤原定家は新しい(九番目の)勅撰集の編集に着手したが、出来上がった『新勅撰集』は、明らかに『新古今集』に劣っており、承久の乱で挫折した後、公家勢力がすっかり自信を失ったことの表れなのだろうか。

藤原家隆(1158-1237)が、『新古今集』より二首増えた四十四首で、最多歌人であるが、他の有名な新古今歌人は、軒並み歌数を減らしていて、西行が九十四首から十四首、慈円が九十一首から二十七首、定家自身も四十七首から十五首という激減ぶりである。

 

『新古今集』に一首もなかった実朝は、二十五首入集をはたしたが、妖艶美うたって名のあった俊成卿娘は、『新勅撰集』は芸術的に劣ると言い、定家が撰した歌集でなければ手にも取らないところだと難じた。

他方には、定家の子藤原為家(1198-1275)のように、「すがたすなほに心うるはしき歌』だと讃美する人もおり、その妻阿仏尼も、歌論集『夜の鶴』で夫の意見に同調しているが、その為家は平安文学の学者でも重要な歌人でもあって、のちに二つの勅撰集の撰者である。

 

為家には複数の妻があり、それぞれの妻に息子が織、和歌の真の伝統は定家の残した著作にこそ流れていると信じる息子たちは、、祖父定家の真筆の所持をめぐって争い、ここに和歌の流派が生まれた。

長男為氏(1222-86)は二条派を興し、次男為教(1227-79)は革新的な京極派を興し、ずっと年下の爲相(1263-1328)が起こした冷泉派は、京極派と親交があったが、、やはり独自の真筆と歌風を誇りにした。

 

『玉葉集』成立の裏には、文学的事情とともに政治的な事情も絡んでおり、歌壇で主要二派が勢力を争っていたのに、宮廷でも13世紀中ごろから14世紀末にかけて二つの勢力の対立があり、このことは1246年の後嵯峨天皇の退位に始まる。

あとを襲った後深草天皇は1259年まで皇位にあったが、院政を敷く父後嵯峨院の意向で、その寵愛の子、自分には弟にあたる亀山天皇に譲位することを余儀なくされ、後嵯峨院は亀山天皇の即位後も院政をつづけ、結局、1272年に没するまで朝政の実権を握り続ける。

 

後嵯峨院が亡くなってから二年後の1274年亀山天皇は自分の子の後宇多天皇に譲位し、兄の血統こそ皇位を継承すべきだと主張する後深草派の憤激をかい、こうして皇位継承をめぐって宮廷内で後深草派とっ亀山派の対立が表面化した。

この対立は幕府の介入で一応沈静化し、1287年に後宇多天皇が譲位したあとは、後深草院の血統(持明院統)とっ亀山院の血統(大覚寺統)からほぼ交互に天皇を出す形にお落ち着き、それが1318年に即位した、後醍醐天皇まで続く。(20220822) 

1293年、伏見天皇(1265-1317)が新しい勅撰集(のちの『玉葉集』)を企画した天皇は、持明院統で、才能ある歌人でもあり、京極爲兼(1254-1332)の歌と歌論に共鳴していたが、撰者には各派取り交ぜて四人の歌人を選んだ。

しかし、京極為兼と二条為世の間には、例えば『万葉集』の歌を入れるかどうかなどの問題をめぐって意見の対立が絶えず、撰者間の協力はとても望めない状態だったが、1296年、為兼が権中納言を突然辞任し、『玉葉集』の編纂も中止となった。

 

1301年、持明院統の後伏見天皇が退位して、大覚寺統の後二条天皇が即位し、この交代で二条派による『新後撰集』の編纂が始まりはしたが、京極派の歌人にとっても、特に活動が停滞する事態にはならなかった。

1303年、幕府に許されて為兼が佐渡から帰洛し、これを機に、京極派の活動は一層活発になり、そして1308年、後二条天皇が没して、持明院統の花園天皇が即位すると、いよいよ京極派による勅撰集編纂が現実のものとなった。

 

『玉葉集』は、1312年に京極為兼から伏見院に奏覧されて、そこに収められた二千八百一首と言う歌数は、あらゆる勅撰集の中でも最多であるが、多くの歌人の中で際立っているのは、京極為兼・伏見天皇・永福門院(伏見天皇の中宮)の三人である。

1315年、かつての弟子西園寺実兼が幕府に讒言したことにより、為兼は再びとらえられ、この時の疑いは奈良訪問の折、公家や女房や僧侶を大勢侍らせて天皇の如く振る舞い、富と繁栄ぶりを誇示したことだといい、その様子が『徒然草』に記されている。(20220829)

1308年、伏見院の子の花園天皇(1297-1348)が十二歳で即位し、後醍醐天皇に譲位する1318年まで皇位にとどまり『玉葉集』の編纂も子の天皇の治世のことだったが、天皇自身は若すぎて編纂には関与しなかった。

退位後の花園院は多くの時間を文学活動と学問に費やし、1310年から1332年まで書き続けた漢文日記『花園天皇宸記(しんき)』は、鎌倉末期から室町初期にかけての歌壇の動きを伝える重要な資料である。

 

花園院は退位から三十年間生きたが、これは、相次ぐ戦乱と国内分裂の時期にあたり、特に後醍醐天応が鎌倉幕府を倒し、京都の還幸して親政を復活した1333-36年の「建武中興」は、持明院統の花園院にはつらい時期だった。

大覚寺統の後醍醐天皇は持明院統に厳しく接し、花園院は後伏見院・光厳天皇ともども京を離れざるを得なくなり、美濃の鄙びた寺に難を逃れ、1336年、足利尊氏に擁立された持明院統の光明天皇が即位するまで京に戻らなかった。

 

1343年に新しい勅撰『風雅集』の編纂が始まると、花園院は積極的にそれに関わり、仮名序と真名序を書き、花園院が撰したものと信じられてきたが、最近の研究によると、花園院はいわば監修者の立場にあり、実際の編纂作業に光厳院(1313-64)があたったらしい。

光厳院は1352年に出家し、以後、もっぱら修行の日々を送り、光厳院の信仰心は極めて篤く、特に晩年は戦乱による死者の霊を弔って歩き、1362年のに立ち寄り、南朝の後村上天皇に対面しているのも、これで平和が実現されればと願ってのことだろうか?(20220905) 

和歌史のうえでは、文学的に重要な勅撰集は『風雅集』が最後ということになっているが、実際には、二条派によってさらに四集が編纂されているが、評価は岐わねて低く、優れた歌人も何人かは協力しているものの、、歌集としては無視してもいいだろう。

京都は概して北朝の支配下にあり、二条派歌人の中では、頓阿(1289-1372)・浄弁(?-1356)・慶運(?-1369)・兼好(1283-1352)の4人の僧が、和歌四天王と呼ばれ、4人の歌は巧みで、時には魅力的でもある。

 

14世紀後半の歌集の中で、今日も詠まれているのは、後醍醐天皇の第五皇子、宗良(むねなが)親王(1311-85?)の編んだ『新葉和歌集』くらいであろうが、南朝の歌人だけを集めたと言い、特異な性格を持つ歌集である。

宗良親王は『李花集』(1371年)という家集も編んではいるが、南朝の大義のためにささげた長い年月と、その間になめた辛酸から、日本の学者の中には、杜甫になぞらえる向きもあるが、この大詩人が戦乱を詠んだ詩と比べるとあまりにも物足りない。

 

僧正徹(1381-1459)は、室町時代最後の重要な歌人で、二十世紀以前の最後の大歌人といっても言い過ぎではなく、若くして冷泉為伊(ためまさ)に出会い、冷泉流を学ぶことになるが、正徹への影響という点から見れば、今川了俊(1326-1414?)の方がずっと大きな存在だった。

了俊は素直な表現を好み、『万葉集』を讃美し、一方で定家と『新古今集』にも心酔していたが、心の矛盾も感じないで、幽玄に『古今集』の在原業平の歌を挙げ、その幽玄とて、定家より俊成に近く、優雅よりも象徴であり、また禅的な釈教歌を数多く詠んでいる。(20220912)