一.俳諧の連歌の登場

俳諧(はいかい)とは、主に江戸時代に栄えた日本文学の形式、また、その作品のことだが、誹諧とも表記し、正しくは俳諧の連歌あるいは俳諧連歌と呼び、正統の連歌から分岐して、遊戯性を高めた集団文芸であり、発句や連句といった形式の総称である。

「俳諧」とは本来、滑稽と同意の戯れをさす漢語であり、佐藤勝明(国文学者)によれば、和歌は「(5+7)×N+7」(Nは任意の数)の公式で説明でき、N=1が片歌、N=2が短歌、N≧3が長歌となる。

 

やがて、5・7を組み合わせる短歌が主流になると、575/77の上句と下句の対応に関心が寄せられ、上句と下句を2人で分担して詠む連歌が流行するが、初期の連歌は、対話的で機知的な笑いを伴うもので、「俳諧之連歌」と呼称された。

連歌が流行するにつれて、2句だけの短連歌だったのが、次第に長句(5・7・5)と短句(7・7)をつなげて一定数を続ける長連歌へと変化し、その後、幽玄・さび・ひえを重視する和歌的連歌(有心連歌)と、連歌本来の機知的滑稽を残す俳諧連歌(無心連歌)に二分される。

 

卑俗な連歌を一つの文芸ジャンルにまで高めた人として、広く知られているのは山崎宗鑑(1465?-1554?)だが、その生涯については謎が多く、一応、近江の国の出で、中年の頃は京都の西にあたる山崎で詩歌と書を教え、今の香川県観音寺市で死んだというのが定説のようになっている。

山崎宗鑑が俳諧連歌集の祖となる『犬筑波集(俳諧之連歌抄)』を編纂し、また、宗鑑と並び俳諧の祖と評される荒木田守武(1473 - 1549)が『俳諧独吟百韻』(1530)等の俳諧集を編んだ頃から、俳諧連歌への関心が高まり、いわば文芸としての俳諧を世の中に広めたと言えるかもしれない。

当時俳諧は未だ連歌から完全に独立したものではなく、連歌の余興として扱われており、保守的な連歌師は宗鑑の作風と俳諧を卑属・滑稽と哂(わら)ったが、宗鑑は「かしましや 此の里過ぎよ 時鳥 都のうつけ 如何に聞くらむ」と逆に哄笑し、より民衆的な色彩の中に自己の行く道を見出し、座興として捨てられていた俳諧を、丹念に記録・整理して「新撰犬筑波集」(1524)を編んだのである。

俳諧を独立した芸術として世間に公表したわけだが、「犬」は連歌からの俳諧連歌に対する卑称で、つまり、『犬筑波集』は連歌集たる『新撰菟玖波集』に対する表現となっているのだが、収録される俳諧連歌は、「付句」と「発句」から構成され、また「付句」は四季に、「発句」は四季・恋・雑に部類分けされており、卑俗な滑稽を狙って卑猥な表現を直接的に歌い、連歌への反意・批判の意図が感じられるとされる。

 

この俳諧撰集「犬筑波集」の、自由奔放で滑稽味のあるその句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与え、荒木田守武(1473-1549)とともに、俳諧の祖と称されるのだが、伊勢太神宮の禰宜だった守武は、晩年には有心(うしん)連歌から無心連歌に転じていた。

因みに、有心連歌とは、和歌の伝統を受けた優雅を旨とする連歌のことで、無心連歌は、洒落・滑稽・機知を旨として詠む連歌であり、対立して競い合っており、南北朝時代以後有心が主として行われ、室町時代末期にいたって無心風のものが「俳諧之連歌」となっていった。

 

卑俗な笑いは、日本文学の歴史の中で、常に舞台の隅へ追いやられる宿命をたどってきているが、日本の狂言に最も近いものをヨーロッパに求めるなら、それは中世の道化芝居になり、その両者を比較すると、狂言の方がはるかに上品であることがわかる。

俳諧の連歌が、里謡などのように詠み捨てにされてしまわず、『犬つくば集』の中に収められ、保存されたという事実は、とりもなおさず、俳諧がその初期において、既に文学的価値ありと認められたことを物語るのである。

 

『犬つくば集』に続いて刊行された俳諧選集は、松江重頼(1602-80)によって編集された『犬子(えのこ)集』(1633年)だったが、この書名は、宗鑑に敬意を表して、自らはその亜流也とへりくだった命名であると言えよう。

以後重頼は、一門の地盤を京都から大坂の堺に移し、1645年(寛永21年)には『毛吹草』(俳諧論書)を刊行し、排撃を受けたりもしたが、俳諧作法書かつ百科事典として好評を博している。