五 松尾芭蕉

芭蕉(1644-94)の生涯を決めたのは、若年の彼が藤堂家一門の嗣子であった蟬吟・藤堂良忠と知り合う幸運に恵まれたことであるが、蟬吟を友に持ち、その保護を受けたことは芭蕉に幸いし、彼は貞門の優れた俳人であり学者でもあった北村季吟(1624-1705)から俳諧の手ほどきを受けることになった。

蟬吟は、1666年に24歳で世を去ったが、これは芭蕉にとっては二重の痛手であったというのも、っともであり、俳諧の道を行く同行を失ったばかりではなく、武士としての出世を約束してくれる保護者を同時に失ったからで、それから二十年以上もたった1688年の春の一日、蟬吟の墓所に詣でた芭蕉は、次の名句を残しているー「さまざまの事おもひ出す桜哉」

 

1672年、28歳の芭蕉は、人生の開運をかけるべく江戸へ向かい、1678年には神田上水の水道工事に関係して職を得たが、仕官の手がかりよりは生計の足しにという気持ちだったらしく、そうするうちにも、江戸に新しく、また保護者の一人とてもない障害を越えて、彼は徐々に俳諧師としての地歩を固めていった。

当時の江戸俳壇は、大別して二派にわかれており、江戸談林の創始者、田代松意に代表される江戸生え抜きの一派と、上方から移ってきた集団がそれで、芭蕉は後者に属しており、彼は風虎の俳号で知られる磐城平の城主、内藤義泰の屋敷に出入りし、その息子の露沾友交わり、内藤親子が季吟・重頼・宗因らと交遊があり、よく俳人たちを自邸に招いていた。

 

芭蕉が宗匠として一家をなすようになったのは1677年ごろからで、最初の弟子の中には、のちに蕉門の偉傑となった杉山杉風(1647-1732:さんぷう)・宝井其角(1661-1707)・服部嵐設(1654-1707)らが含まれている。

ただこうした成功は、必ずしも経済的な余裕にはつながらず、通常の宗匠と違って、芭蕉は弟子の句の添削にはあまり身を入れなかったようであり、おそらくその過程で、どうしても弟子にへつらう態度をとらねばならないことを知っていたからであろう。

延宝8年(1680年)、桃青(芭蕉)は突然深川に居を移し、翌81年には門弟の李下が、師の寓居のうらぶれを救うよすがにもと、一株の芭蕉を贈り、実を結ばない芭蕉の木は、わずかな風にも裂ける葉のゆえに、繊細な詩歌の心を象徴するものとしても珍重されていた。

深川の湿った土壌に育てられて、木は順調に生い茂り、やがて訪れる人々が師の閑居を芭蕉庵と呼び始めると、間もなく師自身が自らを芭蕉と呼ぶようになり、十年後に彼は、芭蕉の木にわびしさを託した日々を好随筆『芭蕉を移す詞』の中で回想している。

 

表層的な談林俳諧への不満、あるいは俳諧に対してより深い奥行きを与えようとした信徳(1633-98)や鬼貫からの間接的影響、杜甫や李白をして荘子への深まりゆく傾斜、また同様に、彼の胸中に高まりつつあった西行・宗祇など僧侶歌人への傾斜などが、一つの流れの中に注ぎ込んだのであろう。

1682年末の江戸大火(八百屋お七)は、深川にまで及んで、芭蕉庵をも類焼し、彼は六カ月の間甲斐に逃れて高山麋塒(びじ:1649-1718)を頼り、新庵がほぼ旧芭蕉庵の位置になったのは、その年の暮れの事であり、再建のための浄財を集めてくれたのは、素堂(そどう:1642-1716)らの親友であった。

 

この年の野ざらしの旅は、芭蕉の生涯を区切る五紀行の嚆矢となり、その最初の旅行の吟において、野に行き倒れる覚悟に心をふるわせ、旅は気楽な遊覧とは程遠く、肉体も心も途上に朽ちるかもしれぬ苦難の巡礼行を予感していた。

自己の中に漂泊の詩人を見、わが身にさすらいの役を振り当てたのであるが、それは気取りではなく、むしろ旅というものの精髄を、心行くまで味わおうとのことあり、芭蕉にとって旅の滋味とは、一人旅が意味する疲れや辛さ、時には危険の中にさえ存在するものであった。

1684年から85年まで9カ月の間、江戸を出て伊勢・伊賀・大和・・山城を経めぐり、近江から尾張に至ったこの時の旅行は、その要点だけを記した短い紀行文『野ざらし紀行』にまとめられているけれど、おそらく江戸に立ち帰ってた後で書いたものだろうが、刊本として世に出たのは1678年、芭蕉の死後だった。

『野ざらし紀行』には、句と文の間に一種の釣り合いの欠如が指摘されるが、芭蕉がこのような形式のものに、まだ不慣れであったからであり、最重点が置かれているのは彼が旅中で得た発句で、文の部分は女子にすぎないような場合もあり、調子が時々変わるため、まとまりが弱く、単に道中の見聞を寄せ集めたという印象を与える。

 

その書き出しにおいて既に明らかだった漢詩文の影響は、『野ざらし紀行』を一貫して流れ、時にはまるで漢文からの翻訳かと錯覚させる個所もあり、材料そのものが唐宋詩文から採られたものや、故事に合わせて整えられたものもみられる。

空虚をかきむしる「猿嘯哀」(えんしょうあい)は、唐詩などによく使われる材料であるが、芭蕉が言いたいのは、どれほど悲痛な猿のなき声でも、貧しさゆえに子を捨てねばならなかった人の、親の苦痛には比べるべくもない、ということであるらしい。

 

野ざらし紀行の目的が帰郷にあったのなら、母の一周忌に間に合わぬまでも、芭蕉はもっと急いで伊賀へ向かったはずであるが、そのような気配はなく、俳諧の道に志していったん故郷を捨てた芭蕉の心中には、家族との縁を永遠に断つ出家遁世にも似た気持ちがあったのだろうか、再び生地を踏むのをためらう感情も、なくはなかったものと思われるが、実際に伊賀上野についた時の彼の感動には、非常に真率なものが看取される。

紀行文は、日本文学の中では早くから確立されていたジャンルだが、芭蕉は旅の記述を巧みに用いて、発句という、高度に省略された詩の、言い残したことを補い、ごく短い前書きさえ、『野ざらし紀行』中の句全体の解釈にかかわってくるけれど、『野ざらし紀行』の調子は、大垣着と同時に大きく代わり、前からの約束に従って門弟、谷木因(1646-1725)の家に止宿したのだが、江戸を出た時の暗い予感も晴れ、その後の紀行には、目立って快活な調子が混入し始める。

古池や蛙飛びこむ水の音」(1685)は、芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とされており、芭蕉の作品中でもっとも知られているだけでなく、すでに江戸時代から俳句の代名詞として広く知られていた句であり、季語は蛙(春)。

《まず、「蛙飛びこむ水のをと」だけができ、その時傍らにいた其角が、「山吹や」と言う上五を冠したが、芭蕉はそれをとらずに「古池や」とした(各務支考『葛の松原』より)》というのである。

 

閑さや岩にしみ入る蝉の声」(1689)は、出羽国(現在の山形市)の立石寺(りっしゃくじ:山寺)に参詣した際に詠んだ発句で、『奥の細道』に収録されているが、随伴した河合曾良が記した『随行日記』では、山寺や石にしみつく蝉の声とされている。

山寺の静寂は、絶え間ない蟬の音によって乱されてはいるが、ふと泣き止んだ一瞬には、岩にしみいるばかりの静かさがあり、芭蕉はこの寺を「清閑の地」と人々に勧められて訪れたのだが、真の清閑を知りえたのは、「今」を乱す蝉の鳴き声によってであった。

 

「私の体全体の中に、一つの抑えがたいものがあり、仮にこれを風羅坊と名付け、実際、薄い衣が風に吹かれすぐに破れてしまう事を言っているのであるが、かの男は、俳諧を好んで久しく、しまいには生涯取り組むこととなり、ある時は飽きて投げ出そうと思い、ある時は進んで人に勝って誇ろうとして、このため心が休まることがない」

「一度は立身出世を願ったこともあったが、この俳諧というもののために遮られ、または学問をして自分の愚かさを悟ろうともしたが、俳諧のために破られ、ついに無能無芸のまま、ただこの一筋をつらぬくことになったが、さりとて、西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その道をつらぬく物は一つである」『笈の小文』

紀行文は貫之、町名や阿仏尼いらい、ほとんど進歩していないが、旅中雑事は、よほど新奇なことでもない限り、書くまでもないことであるが、それにもかかわらず、旅の苦しさや風雪の便りを書き留めてみた。

そう韜晦(とうかい)しながらも、芭蕉は『笈の小文』の中に詩文渾然の完成を期したが、現存する完本の中には、一部に未完成のような痕跡があり、芭蕉が十分に彫琢を加える前に筆をおいたのではないかと想像している学者もいる。

 

『笈の小文』の芭蕉は、わざわざ杜国(とこく:?-1690)流謫(るたく)の地、伊良子崎にまで足を延ばし、ときは弥生、杜国は、そこから微行して師に従い、吉野の花を訪(おとな)うことになり、名も万菊丸と童子風に変えた愛する弟子を同道した吉野への旅は、芭蕉の紀行中最も愉快なものであった。

『笈の小文』の末尾では、芭蕉は須磨へ行き、『源氏物語』や謡曲『松風』などのゆ古かりの地を訪ね、須磨から京へ戻り、芭蕉と杜国はそこで別れ、杜国はそこから流刑の地の伊良古へ、芭蕉は義父を経て尾張へ向かい、有名な鵜飼の句を得たのは、その時のことであるー「おもしろうてやがてかなしき鵜飼哉

 

貞享5年(1688)8月、松尾芭蕉は『笈の小文』の旅の帰路、門人越智越0人を伴い、中仙道を通って更科姨捨山の月を見、善光寺詣でをしてから江戸に戻りましたが、その道中を描いた紀行文だが、木曽路の険しさを象徴するような緊張感の高い名句の数々があり、短いながら味わい深い作品である。

その『更科紀行』も、1704年まで出版されず、その後も比較的注目されることもなく、すでに上げた芭蕉苦吟の挿話を別にすれば、主なテーマでは更科伝説、古くからあった姨捨のそれであるが山深く打ち捨てられた老婆への連想と名月は、芭蕉に一句を作らせたのであるー「俤や姨(おば)ひとりなく月の夜」 

奥の細道』は、いうまでもなく、みちおくへの旅なのだが、同時にそこには詩心の深奥への遍歴の意がこめられ、現在の旅に永遠の詩歌の探求を兼ねたこの表題そのものが、すでにして芭蕉の提唱した不易流行の理念を示唆するものと言えるだろう。

『奥の細道』には、多くの学者による綿密緻密な分析があるが、その一つによれば、全編は一見あたかも素直に旅程を追うように見えながらも、実は一巻の連句に似た形式を備え、個々の断章が前句と付句のように付け合いの味で相助けながら渾然たる一巻を成しているという。

 

『奥の細道』は、芭蕉美学の集大成であり、そこには貞門俳諧の技巧と彫琢や談林の自由から、彼自身の後年の清雅幽玄の句風、あるいは漢詩文の影響を受けた銃口から俗談平話の簡浄に至るまで、芭蕉の美学を形成したあらゆる要素が融合されており、多様性は決して寄せ集めの感を与えず、驚嘆すべき統一で貫かれている。

全編は基本的には散文が主体になっており、まず道中の出来事や景観が述べられ、続いて一句あるいは二句以上の句が、それについての感動なり様子なりをまとめるという構成が多用されており、句はほとんどが芭蕉のものだが、空の数区と象潟で出会った未納の商人、低耳(ていじ)の一句を収めている。

 

『奥の細道』編中の最高峰は、没頭部と松島、平泉・象潟の三か所とされているが、つなぎの部分には、少なくとも一読した限りでは平板で起伏に乏しいと感じられる個所もなくはないが、それは必ずしも芭蕉の失敗を意味しない。

『奥の細道』の重要な場面は、周到に用意されており、連句的な意味だけでなく、劇的な構成としてもそうであり、五百年前に塩釜明神に神灯を寄進した和泉三郎忠衡(ただひら)へのやや常套的な賛辞が、松島の風向に感動する抒情的な一節を引き出す。

 

『奥の細道』中の最も感動的な一節は、芭蕉が杜甫の『春望』の詩を否定している下りであろうが、その少し前に、多賀城趾を訪れ、はるか762年、奈良時代に建てられた城修復の碑を見ており、碑文は詩歌からは程遠い、単なる修造の記録にすぎないのだが、その古さが芭蕉を深く感動させる。

むかしよりよみ置ける歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋まりてつてに隠れ、木は老いて若木にかはれば、時移り代変じて、その跡確かならぬ事のみを、爰に至りて疑いなき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び羇旅の労を忘れて泪も落ちるばかりなり

 

『奥の細道』には、芭蕉の誠実さが一貫した印象をとどめているため、その卓絶の技巧の方は、えてして見逃されやすいが、江戸に出立するときの芭蕉が、見送りの人々に残した留別吟はこうであったー行春や鳥啼魚の目は泪

芭蕉は、落ち合った門弟や友人とも別れ、再び一人になるのだが貝の蓋と身が分かれるようなつらい思いだという心を籠めているが、「行く秋ぞ」は、また、穢土を出るときの「行く春や」に呼応しているのだー蛤のふたみにわかれ行秋ぞ(『奥の細道』結びの句)

芭蕉は琵琶湖の南、ことに膳所と大津を愛しており、1690年の正月を膳所で迎えた彼は、その年の初夏には膳所藩の家臣だった菅沼曲水の世話を快く受け、湖南を見下ろす国分八幡の小庵に住み、約三か月半の滞在の間に珠玉の俳文『幻住庵記』を書いた。

『猿蓑』完成後(1691年7月)の芭蕉は、再び湖南・宜忠治の庵に戻り、1691年秋の三カ月を過ごし、健康はすでにかなり回復しており、江戸へ向かったのは陰暦九月二十八日、江戸着は一カ月後で、二年八カ月の間留守にしていたことになる。

 

1694年の陰暦九月八日、芭蕉は上野を出て大坂へ向かい、一門は各地で隆盛を見せていたが、大坂ではさほどでなく、浜田酒堂(しゃどう)、槐之道の両門弟の中がいつも悪かったのもその原因だったのだろう。

不幸にも芭蕉の健康は、旅に耐えることができず、一日もはや数キロ以上は歩けなかった芭蕉にとって、暗峠からの道は遠すぎ、苦労の末、何とか大坂にたどり着きはしたが、翌日から原因不明の高熱に倒れた。

 

二十九日には病状にわかに悪化し、招宴に出ることはもはやできず、それからも病勢は進む一方ではあったが、十月五日には南御堂に近い花屋の離れに移され、宗匠病むの報せは、たちまち弟子の間に広まり、蕉門の人々がはせ参じて師の枕頭を囲んだ。

通夜ののち、遺骸はは船で膳所の義仲寺へ運ばれ、遺言通りに葬られたがだびに付したのちの埋葬は十四日、八十人を超える一門の弟子が会葬し、伊賀の門人二人には、郷里の家代々の墓に納めるべく遺髪が託された。