交野が原七夕伝説

 

 

18号線を駆け抜けると、枚方市立総合体育館・陸上競技場、池之宮・四辻の交差点、ひたすら駆け抜けてた道も、村野浄水場の途中で交野市に入り出鼻橋に至る。 そして此処から旧道に入り、京阪交野線を渡るまで郡津(こうづ)地区を走る。

古くは平安時代から、多くの善男善女が様々な願いや悩みを抱えながらこの道を往来した。 そこで休憩所として茶屋があったことは江戸時代の河内絵図や文献に記されており、上茶屋・下茶屋などが、各町の生活道路として現存している。

儒学者で教育家でもある貝原益軒もその旅行記『南遊紀行』で、「香津(都津)の茶屋、八幡より1里、京より5里」と、旅を楽しんだ様子を記している。

古代、律令体制時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)には郡衙(ぐんが)=役所が設けられていた。それが現在の倉山の地で、私市(きさいち)から枚方まででとれた年貢米を、当時の長であった郡司が、倉におさめて管理していた。

その郡津はむかし、郡衙(ぐんが)に入る所に門があり、「郡門(こうど)」といっていたのだが、いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に発音どおりの「郡津(こうづ)」と改められた。

 この郡津駅の近く、今の府営交野松塚住宅あたりが「長淵」であり、松塚会館のそばに歌碑がある。

 

かつきゆる うき身のあわと成りぬとも 誰かは問はん 跡の白浪 — 『風葉集』巻14・恋4

 

この歌に、交野少将にまつわる話が込められている。

その交野少将とは、光源氏を登場させるまでは物語の美男子を意味する代名詞的な存在であったことが、『源氏物語』をはじめ、『落窪物語』『枕草子』などの記述に見られるのだ。

果たして物語が先か、モデルがいたのかわからないが、交野少将と呼ばれていた人物に、藤原季縄(すえただ)がおり、楠葉に別荘を所有しており、鷹狩りの名手でもあった。その交友には、在原業平もいたと言うのだ。

『風葉和歌集 』におさめられた歌の物語は以下のとおりである。

色好みで文才に長けた美男子として都で評判である交野の少将に、郡司の娘が一目惚れする。交野の少将が鷹狩をした折、郡司の館に泊まり娘と一夜を共にするのだ。しかし、恋多き男である交野の少将は、娘が待てど暮らせど、館を訪れることはなかった。 ただ月日が過ぎて行くことに絶望した娘は、長淵と呼ばれる淵への身投げを決意する。淵のそばを通りかかった鵜飼いの男に、自分の着物の端を引きちぎり、鵜飼いが灯していた篝火の炭で、辞世の歌を書きつけ、交野の少将に渡すよう言い残して長淵へ身を投げたのだ。

 

因みに、私市水辺プラザに業平の歌碑がある。

狩り暮らし 棚機つめに宿からむ 天の川原にわれは来にけり         (古今和歌集 在原業平)

 

その経緯は『伊勢物語82』にある。

交野を狩りて、天の河のほとりにいたる題にて、歌よみて杯はさせ」とのたまうければ、かの馬頭よみて奉りける。

郡津から倉治まで行くと、機物(はたもの)神社がある。祭神の天棚機比売(あまのたなばたひめ)大神は織姫にあたる。

つまり、七夕伝説の発祥の地であれば、街道から外れていても、紹介せねばなるまい。

古墳時代に養蚕・機織りの技術をもって渡来し、寺村・倉治・津田辺りの山麓一帯に村落を営んだ機織り集団(秦氏系ともいう)、その統率者(あるいは祖先)の漢人:庄員(ショウイン)を祀ったのが始まりという。この倉治を秦者(ハタモノ)と言っていた時代があるのだが、渡来人たちが交野原一帯に住み始めていたかもしれない。

 

棚機の五百機(いほはた)立てて織る布の 秋さり衣誰か取り見む 【萬葉集巻代十 二〇三四】

 

後に和気清麻呂の進行により京都へ遷都し、平安時代を創始した桓武天皇もこの地をしばしば訪れています。というのも、新しい都を開くにあたり、中国から伝わった郊祀をこの交野ヶ原で行いました。その際、自らの父親を天帝として、新しい時代の幕開けを天へと報告したのです。

郊祀(こうし)とは、中国において天子が王都の郊外において天地を祀った祭で、冬至の際には天子が自ら王都の南郊に至って天を祀り、夏至の際には天子が自ら北郊に至って地を祀る。

そしてこの機物神社において、冬至の日には境内から、交野山(こうのざん)に重ね合わされた日の出が見られることです。 このために、この場所は特別に神聖視された祭祀の場所となったようです。条件がよければ、冬至前後の数日間は交野山山頂に日輪が光り輝く直前に交野山の裏側に白道(しろみち)(白い光の帯)が奔り、朝日山を鮮やかに浮き立たせる現象を一瞬見ることができるようです。祀ができる以前は交野山(岩屋)そのものが、機物神社の御神体であり誠に広大な地域を有していました。長岡京が当神社の御神体であった交野山の真北に配置されていることが道教的世界観に基づくものであることはよく知られているところです。因に現在の境内にある鳥居の内のひとつは、交野山と伊勢神宮の両者に向かって参拝できるように設計されています。

 

一年に一夜と思へど七夕の 逢見む秋の限りなき哉 貫之【拾遺和歌集巻第三秋歌】

都津から新天野川橋を渡り、梅が枝(交野市)で旧道を川に沿って南下し、茄子作南へ向かうのだが、府道148号線の天野川に架かる逢合橋(あいあいばし)で、七夕を詠った万葉歌碑がある。

 

彦星と 織女と 今夜逢ふ  天の川門に 波立つなゆめ 【万葉集 巻10-2040 作者未詳】

 

さらに、上流に向かうと、天野川緑地がある。その天野川のことを、元禄二年二月当地を訪れた貝原益軒が記している。 

天の川の源は、生駒山の下の北より流れ出て、田原という谷を過ぎ、岩船に落ち、私市(きさいち)村の南を経、枚方町の北へ出て淀川に入る。獅子窟山より天の川を見 下ろせば、其川東西に直にながれ、砂川に水少く、其川原白く、ひろく長くして、あたかも天上の銀河(天の川)の形の如し、さてこそ比川を天の川とは名付たれ.。

凡諸国の川を見しに、かくのごとく白砂のひろく直 にして、数里長くつづきたるはいまだ見ず。天の川と名付し事、むべなり」(貝原益軒『南遊紀行』)

 

天の川梶の音きこゆ彦星と 織女(たなばたつめ)は今夕(こよい)あひしも【万Ⅹ-2029】

 

再び旧道に戻り茄子作を目指すのだが、『南遊紀行』に 気になる一行があった。

 

香津(郡津)の茶屋、是よりわざと大道をばゆかずして、東の方梨作村を経て、私市に至る。

 

つまり、梨作村のことなのだが、茄子作の聞き違いが生じたのであろうか?茄子作それはさておき、168号線を渡り茄子作東公園(枚方市茄子作東町)を南に向かう。途中旧道に入ると、【本尊掛松遺跡】(枚方市茄子作南町)に出くわす。

融通念仏宗(ユウズウネンブツシュウ)中興の祖法明(ホウミョウ)が男山八幡神の霊夢をうけ、深江(大阪市)の草庵から男山へ向う途中ここで八幡宮の使者に出会い、11面尊天得如来(ジュウイッソンテントクニョライ)の画像を授かった。 上人はこれを路傍の松に掛け、その前で称名念仏(ショウミョウネンブツ)を唱え感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの始まりであるとされている。

融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)は、浄土教の宗派の日本仏教の一つである。大阪市平野区にある大念仏寺を総本山とする。

そもそも平安時代末期に、天台宗の僧侶である聖応大師良忍(1073-1132)が大原来迎院にて修行中、阿弥陀如来から速疾往生(阿弥陀如来から誰もが速やかに仏の道に至る方法)の偈文「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」を授かり開宗した。大念仏宗(だいねんぶつしゅう)とも言う。

この街道では、まるで飛び地のように、茄子作地区があり、淀川左岸の支流、天野川左岸の台地で、枚方市の最南端に位置している。つまり、交野市から枚方市に入り、交野市へ出るという具合なのだ。変わった地名の由来は定かでないが、古くから茄子の名産地であったようである。  

コーナン茄子作南店を過ぎ、第二京阪国道を渡り、ひたすら20号線を駆ける。そこで神出来(かんでき)の交差点に気づけば、もうすでに交野市星田地区に入っている。 

天野川を挟んで、交野側にある機物神社(倉治)はベガ、いわゆる織姫星にあたります。こちらは七夕伝説でも知られていますが、1万年後には北極星になる星としても知られています。

そして、交野の星田にある、星田妙見宮は妙見(北辰)を祀っています。 妙見信仰というのは、北極星を天帝とみなす信仰であり、桓武天皇も非常に篤く信仰されていました。

と言うのも、天武系の権力を平城京に残し、 新しい都を開くにあたり、中国から伝わった郊祀(こうし)をこの交野ヶ原で行っていたのだ。

当宮の縁起によりますと平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810~823年)に弘法大師が交野へ来られた折、獅子窟寺吉祥院の獅子の洞窟に入り、佛眼仏母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、それらの星が3ヶ所に分かれて地上に落ちたと言います。

この時よりここに[三光清岩正身の妙見]として祀られるようになったと言われています。【妙見山影向石略縁起】

 

織女(たなばた)し 船乗(ふな)りすらし まそ鏡 清き月夜(つくよ)に 雲立ち渡る  

                                                                                                                   大伴家持                  

桓武天皇が長岡京遷都達成の神恩感謝として、786年に交野ヶ原の柏原において歴代天皇で初めて郊天(北辰)祭祀を行い、そしてその桓武天皇の郊天祭祀から31年後、空海が北辰を星田妙見宮で祀り、さらに桓武天皇の皇子である嵯峨天皇、淳和天皇がたて続けに星田妙見宮へ行幸した記録が、当社縁起に残っています。

それも、御神体や行場岩窟をはじめとする巨石群は、古代の磐座祭祀を現代に伝え、古代の人々と同じ空間を体感できる場なのだ。

ここまで来ると、交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩「天の磐船(アメノイワブネ)の御神体に立ち寄らねばなるまい。

ところが本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿がある。

神社の起源は不明であるが、 饒速日(ニギハヤヒ)命が天の磐船に乗って、河内国河上の哮ヶ峯(タケルガミネ)に降臨されたとの伝承が、先代旧事本紀にある。 交野に勢力を保っていた物部氏の氏神だとされている。