旧杉山家・石上露子

 

富田林市粟ヶ池町に所在する溜池が、粟ヶ池(あわがいけ)である。石川上流の錦織(にしこり)東大字彼方(おちかた)間にかかる深溝(ふかうそ)井堰(いせき)から取水し、深溝水路を流れ河岸段丘上の田地を潤しながら、粟ヶ池の北西端に流れ込み、複数の水路に分かれ喜志の諸村へ配水される。

近世の地誌では、『河内志』とそれを引いた『河内名所図絵』は「和爾(わに)池」(書紀の仁徳天皇13年10月条を引用)を載せ喜志村にありとしており、粟ヶ池の西側に位置する美具久留御魂(みぐくるみたま)神社について、「喜志村和爾ノ池の西にあり、一名、和爾神社」と記しているのだ。

『日本歴史地名大系』は、和珥池が河内にあった根拠は明らかでないとしながらも、美具久留御魂神社の別名を和爾神社とする河内志の記述は捨てがたいとしている。

『西国三十三ヶ所名所図絵』は新堂村の粟ヶ池と喜志村の和爾池を分けて載せ、粟ヶ池については聖武天皇の治世に掘られたという伝承を記す。

『大阪府誌』は「和珥池附粟ヶ池」として、仁徳期の和珥池の所在は明らかでないとしながらも、美具久留御魂神を和爾神と称することから、喜志村の粟ヶ池に該当する可能性を述べてる。

また、粟ヶ池と和爾池が堤防を挟んで隣接していたが、いつしか堤防が崩れ一体の池となったとする伝承を記しており、『河南郷土史読本』は、粟ヶ池の底にある高く盛り上がった部分を元の堤防としている。

美具久留御魂神社は、本殿→拝殿→鳥居の向きが、ほぼ東の「二上山」の方向を向いており、いっぽう本殿の背後は「古墳」である。

社伝によれば、第10代崇神天皇10年、この地にしばしば大蛇が出没したので、天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」と言い、出雲振根(いずものふるね)に杵築(きづき)大社(出雲大社)から生大刀・生弓矢を勘請させ、大国主命の神体として祀らせたのに始まるという。

 

崇神天皇62年、丹波国氷上(ひかみ)郡の氷香戸辺(ひかとべ)が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずし)。出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)。押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)。山河之水泳御魂(やまがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)。底宝御宝主也(そこたからみたからぬしなり)」と宣託した。

【(水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉)訳:宇治谷孟】

 

天皇は直ちに皇太子の活目入彦(いくめいちひこ)命(後の垂仁天皇)を当社に遣わして祀り、「美具久留御魂」の名を贈り、相殿に四神を配祀したという。

石川とその支流によって、ダイナミックな河岸(かがん)段丘の地形を形成しているのがこのエリアである。この段丘上に東高野街道が通っており、中世より人の往来が多い地域であった。

この地形を活かして富田林寺内町が戦国時代に造られている。

永禄年間初頭(1560年前後)に興正寺(京都)第16世証秀(1535年-1568年)が、南河内一帯を支配していた三好長慶(一説)から「富田の芝」と呼ばれた荒地を境内地として買いうけ、周辺4村の庄屋8人とともに富田林寺内町を開発し、興正寺別院を建立した。

というのも、父親である第15世蓮秀(1481-1552)の時代、天文元年(1532年)本願寺10世法主証如と交戦していた、細川晴元と法華一揆らに、山科の興正寺を焼き討ちされ、寺基を摂津大坂(天満)に移していたのだ。

そこで石山本願寺に出仕していた証秀(天文4年10月-永禄11年3月)であったが、祖父第14世蓮教(1451-1492)が布教につとめていた、河内地方に寺を建てたいと言う夢を叶えられたのだが、34歳で病死したと言う。

寺内町は、大阪府の南東部に位置する富田林市の中心にあり、東西に7本、南北に6本の街路で区画された東西約400メートル、南北約350メートル、面積約13.3ヘクタールの楕円形に広がる周辺よりも一段高い台地上に、近世の町割りを残している。

周辺の低地との境目は、幅の広い土居(土手)が設けられていて斜面の一部に竹藪を残しており、また南の石川と面するところから境域がよみとれる。

土居の中にある整然とした街路の両側には、河内風の白壁の土蔵や、格子造りの民家が連なっており、歴史的な街並みをつくっている。

現在も多くの町屋が残り、1997年(平成9年)10月に大阪府で唯一、国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されている。

 

江戸時代には公儀御料となり、在郷町として栄え、南河内における商業の中心地であった。 幕末期には、19名の大組衆(杉山家、仲村家、奥谷家などの有力町人衆)により自治が行われていた。 

中でも杉山家は、寺内町町家で最古・最大の、17世紀中期の南河内地方農家風建築様式で、屋敷地は一区画(約千坪、現在は430坪)を占める。

母屋と東に延びる3室の別座敷、2棟の土蔵(酒蔵と米蔵)と庭園を遺している。

母屋は4層の大屋根が特徴で、数奇屋風書院造りの大床の間、座敷、奥座敷、茶室と農家風建築の土間から構成されているんよ。

 

内部には、狩野派絵師の障壁画、山水画、および欄間彫刻、さらには明治時代に改築されたモダンな螺旋階段、土間には竈(かまど)が復元されている。

富田林八人衆の筆頭年寄で、「わたや」と号し、 約450年前、富田林寺内町の造営から関わり、当初は木綿問屋を営み、その後、江戸時代中期に酒造業を始めて、大いに栄えて河内酒造業の肝いり役を務めた大商家。

明治中期に酒税(造石税)導入や灘・伏見などの大規模生産地との競争力不足などが理由で酒造業を廃業した。 明治の明星派女流歌人・石上露子(いそのかみつゆこ、本名は杉田孝、1882-1959)の生家でもある。 

裕福な大地主で造り酒屋でもある杉山家の長女として誕生。

幼年期は旧家の長女として、琴や和歌、漢籍、日本画、上方舞等を学ぶほか、家庭教師を招いて指導を受けた。

1903年(明治36年)、21歳の時、与謝野鉄幹が主宰する新詩社の社友となり、同社の雑誌「明星」に短歌を寄稿する。

また「婦女新聞」「婦人世界」「新潮」等にも文章を寄せた。

1907年(明治40年)、「明星」明治40年12月号に代表作となる「小板橋」を発表。

 

        小板橋(『明星』明治40年12月号)

 

ゆきずりのわが小板橋 しらしらと一枝のうばら

いづこより流れか寄りし 君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき

今はとて思いに病みて 君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば ああ、うばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめ

                 ゆふちどり(石上露子)

 

旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対する、かなわぬ思いを詠んだ“小板橋”は絶唱と評されたが、同年12月に旧家どうしの婿養子縁組で結婚。

文筆活動に夫の理解を得られることがなく、翌1908年には新詩社を退社させられ、本人の意思とは別に断筆に至る等、不幸な結婚生活を送った。

2男児を儲けるも、後年に夫の投機の失敗による杉山家の没落を経て夫と別居し、1931年(昭和6年)から「明星」の後身「冬柏(とうはく)」に再び短歌の寄稿を始める。

子供を病死や自殺で亡くす等し、晩年は生家で過ごした。

 

かつて、雑誌『明星』には、すぐれた五人の詩人があった。晶子、とみ子、花子、雅子とこの露子とで、其うちの最も美しき女と唄われ、其歌の風情と、姿の趣とあはせて、白菊の花にたとへられてゐた」                    【長谷川時雨『美人伝』】

 

地元でも美人で評判であり、わらべ歌で♪富田林の酒屋の娘、大和河内にない器量♪と歌われた。

錦織神社(にしきおりじんじゃ)は、富田林市宮甲田町にある神社だが、地元では、錦織を「にしごり」と呼んでいる。

旧くは織物の技術を持つ人々が百済より渡来し住みついていたとされ、神社は錦部(にしごり)氏の氏神である。

創建年代は不明であるが、昭和10年(1935年)の本殿修理の際に地中から平安時代中期の丸瓦・平瓦が発見され、そのころかそれ以前に創建されたと推定されている。 「錦織造り」と呼ばれ、日光東照宮にも影響を与えたといわれている。

神社は大和川支流である石川の谷に位置することから、千早赤坂村の建水分(たけみくまり)神社や富田林市宮町にある美具久留御魂神社とともに、古くから河内国の三水分(みくまり)社として広く信仰を集めていた。

錦部は綾錦を織る部族で、仁徳帝の頃に渡来してこの地に定着したと言われる。神社はこの錦部氏が創建し、祖神である百済王を祀っていたのではないかと言われている。

川西小学校の門の横に大石鳥居があり、そこから約150メートルの長い参道が続いている。長い参道はかつて流鏑馬が行われており馬場先と呼ばれていた。 その参道の途中には、天誅組河内勢の立派な顕彰碑が建立されている。その首魁であったのが、水郡(にごり)善之祐で、河内の大庄屋・神主(錦織神社)であり、幕末の勤皇家でもあった。

史跡東高野街道錦織一里塚に至り、道の旅人も、富田林との別れに、心残りがあるとしたら、石上露子のことである。

明治37年(1904)「明星」7月号に発表された反戦歌がある。

 

みいくさに こよひ誰が死ぬ  

さびしみと 

ふく風の 行方見まもる

 

その年の9月号には、晶子の『君死にたまふことなかれ』が発表されるのだ。

 

もちろんここで、三女の与謝野晶子(1878-1942)と四女山川登美子(1879-1909)、そして長女石上露子(1882-1959)の三人を論じるのではないのだが、没落していく家の格式に、晶子は飛び出し、登美子は犠牲になり、露子は抗(あらが)いながらも宿命を背負った、それぞれの人生を感じてしまう。

露子のモデルとして否定されてはいるが、『花紋』(山崎豊子)のあとがきには、「わたしは、そのあまりに完成された女神のごとき心と姿の背後に、悪魔の声と姿を見ることができるのではないかという観点から、その人の歌集を読み、そこに異(ちが)ったイメージを創り上げ、作者の創意によるある一人の女流歌人の、数奇な生涯が生まれたのです」と述べている。