応神天皇陵

 

豊臣方は、木津川口砦とともに木津川沿岸の守備のため博労淵(現在の大阪市西区立売堀付近、西長堀駅の北側)に砦を築き、薄田兼相(かねすけ)が守将として兵700で守備しており、11月19日の木津川口砦陥落後もそのままになっていた。

これに対し徳川家康は大砲で砦を攻撃するため、水野勝成と永井直勝に命じて狗子(いぬこ)島(木津川の中州、現在の江之子島)に仕寄(しより:塹壕)を築かせた。仕寄は11月28日に完成し、水野がこれを家康に報告したところ、蜂須賀至鎮の家臣がこのことを聞き付けた。

蜂須賀は木津川口砦攻略後も同地に布陣していたが、水野が博労淵砦を攻略する前に砦を落とそうと考え、家康に「博労淵の守備兵が荻に隠れて銃撃してくるため、付近一帯の荻を刈り取らせてほしい」と願い出た(それを口実に砦を攻略しようと考えた)。

ところが、家康は石川忠総に荻の刈り取りを命じる。石川は荻の刈り取った後、狗子島の南にある葦島(木津川の中州)に陣取り、博労淵砦に銃撃を加え守備兵を牽制した。このため蜂須賀は夜中のうちに木津川口に仕寄を構築し攻撃準備に取りかかった。

11月29日、石川勢が夜明けと共に州を渡って進撃しようとしたが、ちょうど満潮時だったため渡河できなかった。石川勢は九鬼守隆から船3隻を借り受け、狗子島の北方から渡河、砦に攻撃を仕掛けた。蜂須賀勢も南方から攻撃をかけた。

守将の薄田兼相は前夜から遊女屋に泊まり込んで不在だったため、守備兵は統制が取れず、砦は陥落した。

翌年の5月上旬、兼相は後藤基次・真田幸村隊らと共に大和路に出撃する。

この時、武士としての最大の屈辱を味わっていた兼相には悲壮な覚悟があった。

俺は橙(だいだい)武者じゃない。この戦いでそれを証明しなくては。たとえ死んだとしても、、、

兼相は、夏の陣にすべてを賭けていたのだ。

ところが5月6日、霧の発生により、先陣の後藤基次から8時間以上も到着が遅れ、すでに基次は、伊達軍の銃弾に倒れた後だった(道明寺の戦い)。

そこで陣頭指揮を執った兼相は、徳川軍の大軍相手に一歩も退かず、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒したが、多勢に無勢、水野勝成の家臣・河村重長に討ち取られたのであった。

 

武人が人身御供をとる神に憤り、身代わりとなってこれを退治する、という伝説が各地にあるが、その一つが、岩見重太郎の狒々退治であり、仇討ちのために、諸国を武者修行してまわったその人こそ、若き日の隼人だと言う。

この話が、近世から戦前まで大変好まれ、各地で語られまた出版されていた。それが書き講談の立川(たつかわ)文庫である。

誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座しているのが、誉田八幡宮である。

もちろん、祭神は応神天皇であるが、社伝によると、欽明天皇20年(559年)に、任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟(しんびょう)が設置されたことをもって創建としており、最古の八幡宮を称している。

しかも、永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の際には、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座し、誉田八幡宮を称したといわれてるんよ。

八幡神が源氏の氏神とされることから、建久7年(1196年)、源頼朝によって社殿が修復されたが、源姓を名乗る歴代の征夷大将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。

南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。

河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われた。その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。

江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。

毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。
応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。
つまり、天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。


第15代応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって、4世紀後半に実在した人であると考えられています。 

ところがその生没年は、(仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)になっており、西暦年数ではないのだ。

その応神天皇は、仲哀天皇の第四皇子であり、母は神功皇后である。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされる。仲哀天皇が崩御して十月十日後のことであり、胎中天皇という異名が示す通り生まれながらの君主なのだ。これに抵抗した異母兄たちが叛乱を起こしたものの神功皇后によって鎮圧され、即位まで母の神功皇后が摂政として君臨していたが、摂政3年には太子(3歳)にはなっていた。

ということは、父母である仲哀と神功も実在したことになり、万世一系の天皇家は、神武までさかのぼるだけでなく、神代にまで至る物語なのだ。

例えば、摂政69年で崩御した神功は享年百歳、その翌年に即位した応神は70歳なのだ。ところが即位2年(72歳)、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊(仁徳天皇)らを得たという。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年(76歳)、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子と八田皇女を得たと言う。

在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。

『古事記』によると王仁によって論語と千字文、すなわち儒教と漢字が伝わったという。また即位37年(107歳)、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは宋)に派遣されたという。

羽曳野丘陵と呼ばれる洪積台地が市の中央を縦断する。東部は古市郡の旧郡域となり、石川と支流の飛鳥川や大乗川などが北流する。西部は丹南郡の旧郡域となり、東除川が北流する。

 

道の旅人は、いよいよ古市古墳群(羽曳野市・藤井寺市)の真っただ中へ突入する。東西約2.5キロ、南北4キロの範囲内に、123基(現存87基)の古墳で構成される古墳群であるのだ。27基(重複含む)が宮内庁により天皇陵(8基)・皇后陵(2基)・皇族墓(1基)・陵墓参考地(1基)・陵墓陪冢(15基)に治定されている。いずれも標高24メートル以上の台地や丘陵上にある。ところが、相対的序列になると、仲津山古墳(4世紀前半伝仲津姫陵)、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(5世紀初頭伝応神陵)、市ノ山古墳(5世紀後半伝允恭陵)と続いている。しかい、応神天皇よりも長生きした、皇后仲津姫の陵(みささぎ)の方が古いのはどういうことであろう?

そんな詮索をしていたら、この旅は終わらないので先を急ぐと、街道沿いの東の奥まったところに西琳寺があったが、道の旅人は危うく見逃すところであった。

第29代欽明天皇(509?-571?)の頃、王仁の子孫である阿志高が自宅の一部を精舎に改め、向原寺と号したのが寺の起源と言われている。

さらに、聖徳太子(574-622)の勧説(かんぜい)によって西文(かわちのふみ)氏一族が、彼らの氏寺として創建に着手し、第40代天武天皇(?-686)の時に完成したと考えられている。

天平十五年(743)の寺記資材帳によれば、金堂・五重塔・講堂・回廊・鐘楼・食堂・僧坊の七堂大伽藍を擁した法起寺式の大寺であったらしい・

鎌倉時代の弘安四年(1281)には、太政官令によりさらに寺域(じいき)が拡張されている。

「東は西飛鳥翔庄、西は尺度庄、南は岐子(喜志)、北は誉田陵」となっており、その広大さも然ることながら、人々の心を惹きつけた渡来人の政治経済力や道徳の教えなどがいかに勝れたものであったかが窺える。

ところで、桓武天皇の勅願寺については、資料がないので推測するしかない。勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のことだと言う。

初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。

或いは、桓武天皇の生母である高野新笠の出身は、百済系渡来人氏族であるとあり、西琳寺とは繋がっていたのだ。

道の旅人は第27代安閑天皇陵に向かった。宮内庁により「古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)」として治定されているほか、合葬の神前皇女(継体天皇皇女)の墓に治定されている。

この古墳は、中世(室町時代後半)に畠山氏の居城である高屋城の本丸がおかれており、『足利季世紀』によれば、畠山稙長は「本城ニハ恐レ」て居住せず「二ノ丸」に居住している。古墳に対する畏敬の念がありながらも、城として利用していることは興味深い。

 安閑天皇陵より出土したいわゆる玉碗と称するカットグラスの碗が、長い時を経て、布施市(現東大阪市)のとある旧家で発見された。それを見に来い、と旧友の考古学者から手紙を受け取り、「私」は訪ねることになる。

 

枕(マクラ)取り 端取(ツマドリ)して 妹(イモ)が手を 我に纏(マ)かしめ 我が手をば 妹に纏(マ)かしめ 真柝(マサキ)葛(ヅラ) 立たき交(アザ)はり 

 

上記は天皇の求愛の歌であるが、妃が応えて歌われていたのは、天皇が崩御した時の悲傷の歌であった。

「妃は天皇に愛情を持っていなかったかもしれない。しかし天皇が亡くなったときはやはり悲しくはあったんだな」

そんなことを義弟は、半ば憑かれたように繰り返していた。(『玉碗記』井上靖より)

ふたつの玉碗(一つは正倉院の宝物)を巡り、「私」は、安閑天皇と妃・春日皇女(かすがのひめみこ)、そして妹夫婦のやるせない愛情の交錯に想いを馳せる。

 

対であったろうふたつの玉碗が何らかの事情で離ればなれになり、千数百年をかけて、今再び出会ったのだ、と確信を持った「私」は、またふたりの貴人のふたつの愛情が今邂逅したであろうという思いを強くする。
そして妹夫婦の不幸せだった魂にも、いつの日かそういう時が来るよう願うのだった。

 

それは考古学のロマンではあったが、子女のない、安閑天皇(466?-536?)・春日山田皇女(生年不詳ー539)に関して言えば、超高齢化社会の現在においては、愛情の卒業みたいなものだと、道の旅人は思った。