忍陵神社

 

古くは京都、奈良・大坂に通じる交通の要衝の地であった。律令期には郡衙の所在地であり、中世には豪族の城砦、大坂の陣の折には徳川秀忠の本陣が置かれるなど、早くから開かれたところであった。そんな丘陵地に忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ)がある。

ところがこの神社、江戸時代寛永11年(1634年)に忍岡の地に遷座してきた津桙(つほこ)神社で、当地の豪族津桙氏の氏神として創建されたもので、延長5年(927年)に選定された延喜式神名帳には河内国讃良郡鎮座津桙神社と記されている。

江戸期の神社縁起によれば人王40代天武朝(675年頃)に熊野皇大神を勧請、又清和朝(870年頃)には、鎌足公幼少の頃当地に居住せしとの謂れより武運長久を祈り忍岡に鎌足大明神と号しお祀りした記述(鎌足社)があります。

そして明治44年(1911年)に鎮座地の地名に因んで忍陵神社と改称すると共に、砂東村(現在の字名奈良田畑地区周辺)の氏神馬守社と砂西村(現在の砂地区一帯)の氏神大将軍社の大神を合祀してるんよ。この合祀された馬守大神は古来より牛馬畜産の神として信仰され、大将軍神は日本最古の方除神として崇敬されております。

昭和9年(1934年)、室戸台風により社殿が倒壊した。その修復作業中に前方後円墳の竪穴式石室が発見され、「忍岡古墳」と名附けられた。昭和47年(1972年)3月31日、忍岡古墳の石室が大阪府指定文化財に指定された。 忍岡古墳は全長87mの前方後円墳で、4世紀中ごろの古墳時代に作られたものである。

と言うことは、この時代から国づくりが始まるのである。つまり、この時代にヤマト王権が倭の統一政権として確立し、前方後円墳はヤマト王権が倭の統一政権として確立してゆく中で、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。

対外関係としては、4世紀以降朝鮮半島に進出。新羅百済を臣従させ、高句麗と激しく戦ったとも解釈される広開土王碑文などから知られる。

この忍岡古墳は、北河内地方で唯一竪穴式石室が見学できる貴重な古墳です。 石室内の遺物はすでに盗掘によって大半が失われ ていたが、碧玉製釧、鍬形石、紡錘車のほか、剣、刀、刀子、鎌、斧などの鉄製品があった。鉄製の小札が数枚出土している が、京都府の椿井大塚山古墳(出現古墳)で出土している中国式の小札革綴冑の一部と推察される。

この3世紀半ば過ぎに出現した古墳こそ、前代より格段に規模を増した前方後円墳なのである。しかも、前期の古墳は、山の尾根や丘陵の先端に造られ、地域全体を見渡せるような景勝の地に築造されたようである。

そして、4世紀中頃から末までの半世紀の間に奈良盆地の北部佐紀の地に4基の大王墓クラスの前方後円墳が築かれた。

ここに眠られたであろう首長は、いかなる氏族なのかはわからないが、第十代崇神天皇と同じ時代を生きてきたかもしれないのだ。

 さらに戦国時代には、岡山城が築かれたと伝えられている。 岡山城は、三好長慶が飯盛山城を居城とした永禄3年(1560年)頃に、飯盛山の北東にある忍岡古墳の丘陵を利用して築かれた支城として伝えられている。永禄、天正年間には当時の城主である結城氏が熱心なキリシタンで、キリシタン信仰の拠点となる。  結城左衛門尉は、大和奈良で父・結城忠正がロレンソの説教を聞いて洗礼を受けた時、当地を訪れていた彼も、父と一緒に信仰を持ちました。彼が河内岡山城に帰ってイエスの素晴らしさを飯盛城で証しをしました。これが飯盛城で三好長慶幕下の七十三名の武士たちが洗礼を受けた、河内キリシタ・集団を生み出す切っ掛けになりました。

発掘した奈良井遺跡(ならいいせき)は、中野三丁目を中心としていて、市民総合センター建設の際に発掘調査を行い、古墳時代の中ごろから終わりにかけて(約1400から1600年前)、一辺が約40メートルある、馬に関わる祭りを行っていた場所が見つかった遺跡です。この祭り場は、溝で取り囲んでいて、その中で馬を「いけにえ」として神様にささげていた場所でした。

馬の祭りで見つかった馬は、朝鮮半島から準構造船に乗せられて馬飼とともに四條畷にやってきた馬の子孫である。四條畷で 育った馬は権力者のもとに届けられ、権威の象徴とともに、通信・運輸・軍事力に大活躍した。馬は大きな役割を果たすので またたくまに普及した。 馬の牧場が展開するのは五世紀になってからであり、最初の頃に馬飼いの里が出現するのは飯盛山・生駒山の山麓、当時の河内湖の東岸である。寝屋にもまた、馬の遺物が出現しており、馬飼い達の寝屋であったことが想像できる。

百済から馬と共に渡来し、兎野(うの)・沙羅羅(さらら)の馬飼いの民族として、発展していったのは、天武天皇の時代であり、その皇后である持統天皇(645-703)の幼名は、鸕野讚良(うののさらら)なのである。 

奈良井遺跡祭祀遺構の碑は、市民綜合センター(四条畷図書館)の前にあるが、この中野地区辺りから、砂・岡山とする地域が、鵜野・讃良と思われる。 

ここから、南へ一筋目の角を西に折れて、旧東高野街道に入る。国道163号線の高架下をくぐり、墓の堂古墳・歴史民俗資料館を通り過ぎると、国道170号線に出る。

そこに、楠木正季の五男(末男)で、楠木正成の甥である、和田賢秀の戦死墓が祀られている。湊川の戦いで伯父(正成)・父(正季)らが戦死した後、楠木一門の棟梁となった従兄弟の楠木正行に従い、共に勢力を回復していった。

正平三年(1348年)1月5日、四條畷の戦いで正行討死の後、賢秀は敵の大将高師直と刺し違えて死のうと、只一人敵の軍勢に紛れ込み本陣に近づいて行きました。

しかし、かつて楠軍にいたのですが、北軍に降伏して今は高師直軍に属していた湯浅太郎左衛門という者が、賢秀の背後に廻り両膝を切りつけ倒れるところへ走り寄り首をかこうとしたのです。

賢秀は首を注いだような大きな眼を見開いて湯浅をハッと睨み据え、その眼を見開いたまま首を取られたのでした。

 

湯浅は大剛の賢秀ににらみつけられ、その日からは仰げば賢秀の怒りの顔が天に現れ、俯けば賢秀の眼が地に浮かんで、合戦の7日後にあがき苦しんで死んでしまったのでした。土地の人々は賢秀の霊のことを歯噛様(はがみさま)、転じて歯神様として祀っている。

この和田賢秀の墓所は、四條畷神社の管理下にある。

明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を継いで南朝のために戦い命を落とした嫡男の正行も小楠公(しょうなんこう)と呼ばれ崇められるようになった。

正成の子楠木正行が成長すると、本拠地である河内国南部で次第に力を蓄え、摂津国南部の住吉・天王寺周辺までゲリラ的に出没し、足利方を脅かすようになった。1347年(正平2年/貞和3年)9月、楠木軍は藤井寺近辺で細川顕氏を破り、11月には住吉付近で山名時氏を破った。

そして1348年(正平3年/貞和4年)1月5日、河内国北條(大阪府四條畷市・大東市)において、南朝方の楠木正行と足利尊氏の家臣高師直との間の戦いが始まった。

 

「子細なき師直を討てげり」と、多年の本意云(ここ)に達すと喜んで、味方の兵どもに見するに、舎弟次郎(正時)走り寄って、これを見れば、長井修理亮(スリノスケ)これなりけり。

                                                                                                        【太平記】

楠正行も眉間のただ中、涎かけのはづれに二矢射られて、その矢を抜くべき力もなし。舎弟次郎正時・誉田・開地・野田・石楠、皆痛手負ひてければ、重ねて戦ふべき様もなし。和田̪新発意(しぼち)源秀も湯浅八郎に討たれ・・・。

 

・・・「今はこれまでぞ。云ひ甲斐なき敵の手にかかるな」とて、楠正行心閑に物の具は脱ぎ捨て、腹一文字に引き切って、南枕にぞ臥したりける。   【太平記】

 

かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる(辞世の句)

 

この小楠公御墓所は、東高野街道の西側を並行に走っている、河内街道沿いにあり、明治十一年には建碑式が盛大に挙行されました。

引き続いて、小楠公をまつる神社創建のおもいが強くなり、この墓所より東約1000メートルの位置に、正行を主祭神とする四條畷神社が明治23年に創建された。