石切釼箭神社

奈良時代になると、平城京と難波津を結ぶ街道が整備され、その街道筋にも多くの集落ができた。 平安時代になり、熊野詣や高野山へ上皇や貴族が参詣に訪れるようになると、その街道として生駒山麓を辿る東高野街道が利用された。

また、平安時代には枚岡神社の勢力が大きく、それを背景とする水走氏が有力な領主として市東部を中心に活動した。

 東大阪市の中央部は長い間、北にある深野池や西にある新開池、そこに注いでいる付け替え前の大和川の為に長らく湿地帯で、東大阪市の市域で早くに開けたのは、確かにこれら大和川の流域と東高野街道沿いの地域ではあるが、開発は遅れがちであった。室町時代以降、河内国の行政の中心であった若江城でさえ、四方を沼地に囲まれた難攻不落の平城として記録されている。


春二月十一日に、天皇のはついに東に向かった。軸艪相つぎ、まさに難波碕(なにはのみさき)に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く。よって名づけて浪速国(なみはやのくに)とした。また浪花(なみはな)ともいう。今難波(なにわ)というのはなまったものである。

三月十日、川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津(しらかたのつ)に着いた。

夏四月九日に、皇軍は兵を整え、歩いて竜田に向かった。その道は狭くけわしくて、人が並んで行くことができなかった。そこで引き返して、さらに東の方生駒山を越えて内つ国に入ろうとした。

そのときに長髄彦(ながすねひこ)がそれを聞き、「天神(あまつのかみ)子がやってくるわけは、きっとわが国を奪おうとするのだろう」といって、全軍を率いて孔舎衙坂(くさのえさか)で戦った。流れの矢が五瀬命(いつせのみこと)の肘脛に当たった。 『日本書紀【神武天皇】』

剣道の師範であった吉田誠宏氏はまだ治療法もなく、死病と恐れられた結核患者の悲惨な状況を何とか救いたいと、武道をもとに独特の鍛錬法を取り入れた治療法を考案し、旅館建物を改造して健康道場を開きます。これが孔舎衙健康道場です。

吉田氏は患者の療養に心血を注ぎ、患者は全国から押し寄せ、最盛期には100名近くもの患者を収容したのです。昭和16年この道場に京都一青年が入院してきます。太宰治に心酔し、小説などを書いていた文学青年でした。一時よくなって退院するのですが再発し、昭和18年に23歳の若い命を自ら絶っています。

この青年の孔舎衙健康道場での日々を綴った日記がその遺言により、太宰治に贈られ、太宰はこの日記をもとに小説「パンドラの匣」を発表したのです。       (日下古文書研究会)

「桜の間」は、十畳間くらいの、そうしてやや長方形の洋室である。木製の頑丈なベッドが南枕で四つ並んでいて、僕のベッドは部屋の一ばん奥にあって、枕元の大きい硝子窓の下には、十坪くらいの「乙女ヶ池」とかいう(この名は、あまり感心しないが)いつも涼しく澄んでいる池があって、鮒や金魚が泳いでいるのもはっきり見えて、まあ、僕のベッドの位置に就いては不服は無い。一番いい位置かも知れない。 

 

「やっとるか。」「やっとるぞ。」「がんばれよ。」「よし来た。」 この問答は何だかわかるか。これはこの道場の、挨拶である。助手さんと塾生が、廊下ですれちがった時など、必ずこの挨拶を交す事にきまっているようだ。いつ頃からはじまった事か、それはわからぬけれども、まさかここの場長がとりきめたものではなかろう。助手さんたちの案出したものに違いない。ひどく快活で、そうしてちょっと男の子みたいな手剛さが、ここの看護婦さんたちに通有の気風らしい。                                                                          【太宰治『パンドラの匣』】

貝塚、といふ史蹟を訪れた。(中略)貝塚といふのは、ちょっとした石碑がたってゐるだけで、つまらないところだった。そこから帰途についたが、こんどは、村の中を通らずに、田圃の中の細い道を、遠くの山の中腹に見える道場を目指して、めくらめっぽうに歩いて帰った。

よい散歩だった。(中略)その山脈の中腹に、鮮やかに浮き出してゐる、エビ茶と白の、美しい道場の建物。まるで御殿のやうな美しさに見えた。 (浅田高明『ルーツ木村庄助日誌巻九』)

  日下貝塚(くさかかいづか)之詩

 

その昔、大阪湾は「茅淳(ちぬ)の海」と呼ばれていた。

生命の母なる「茅淳の海」は、河内の入り海として、大きく生駒の山麓まで押し寄せて、この地を長らく「河内湾」と呼ぶ時代が続いた。

まだ「稲作り」を知らない古代の人々、食糧はすべて、海から 山から 自給自足 。

前には 海の幸をもたらす 豊漁の海 。

後ろには 山の幸いっぱいの 扇状大地。 古代の人々の住む、ここは水の清らかな、一等地、 男は生駒山でけものを追いかけ、女や子どもは海辺へ出て貝を拾い集めた。

その数々の海の幸は 「セタシジミ・オオタニシ・イケチョウガイ・チリメンカワニナ・マガキ・フトヘタナリ・ハイガイ・カガミガイ・ハマグリ・ウチムラサキ・サザエ」

 

彼らの日常生活の糧、それらすべては「日下貝塚」

深い土の下に今でも眠り、よく保存されている。 「日下貝塚」:それは畿内で最も栄えた或る時代を証明する歴史の宝庫 「日本(にっぽん)」の古い読み方それは「ヒノモト」そしてまた「日下(クサカ)」も??? 「ヒノモト」或いは国名「日本」の地名の発祥地、出発点こそは、この「日下地方」にあったのではないか?! こんな研究まで、今、歴史の諸説が飛び交う。 孔舎衛・草賀・草香・久佐迦・みんな「くさか」と読む。 その生きた証人こそ、繁栄を物語る。 「日本の貝塚」伝えのこしたい。私たちの歴史のふるさと!!    ( 作詞 奥田 哲郎 郷土史研究家)

大阪平野の東、生駒山麓に鎮座する石切劔箭神社は、「いしきりさん」と親しみを込めて尊称され、氏子崇敬者の皆様より尊崇を集めております。社号の「石切劔箭(いしきりつるぎや)」は御祭神の御神威が強固な岩をも切り裂き、貫き通すほど偉大な様をあらわしております。特に加持祈祷、お百度参りは有名で関西一円はもとより、その御神徳を慕い全国から大勢の方がお参りになられています。「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。

 

神社の公式な見解には無いが、進藤治によると「石切さんは長髄彦と深いかかわりがある。」「石切さんには長髄彦がお祀りしてある。」等の口伝があるという. 長髄彦は河内古代の大首長であり、物部氏とは極めて密接な関係である。日下に降臨(先代旧事本紀)した饒速日(にぎはやひ)命と可美真手(うましまで)命は物部氏の祖神である。

現在の管長さん木積氏は物部氏族穂積氏の末裔であり世襲神管家である。 氏神として物部氏の父子(饒速日命、可美真手命)を祭神とし二座とするか、あるいは前記を1つにして饒速日を一座とする二座の新藤説か、どちらにしても石切神社と物部氏の関係は深い。

言うまでもなく、長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。神武天皇に抵抗した大和の指導者なのだ。

饒速日(ニギハヤヒ)命は、『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生まれた子が、可美真手命である。

 

饒速日命は天神が気にかけているのは、天孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の皇統継承者だけだということを知っていた。長髄彦には性質がすねたところがあった。饒速日命は長髄彦に、天神と人とは全く異なるところがあるのだということを説いても無駄だと思い、長髄彦を剣によって刺し殺した。 そして饒速日命は部下と共に磐余彦に帰順したのである。長髄彦の亡骸は奈良県葛城市竹内にある鍋塚に納められたと伝えられている。

その昔、天正十一年二月秀吉公が大坂築城に当たり、「巽の方三里の外に稲荷大神を勧請し、家宝を納めて鎮護神とする”という古式に則り、侍臣片桐且元をして鬼塚・大塚の古墳に金瓢を埋めて聖地をへ、伏見桃山城より

‟ふくべ稲荷”を勧請し・・・瓢箪山稲荷神社と号して尊崇殊に厚かりしは有名な史実である」と記している。  (由緒記)

 

瓢箪山稲荷神社は、旧四条村大塚村あり、山麓に群集して築造された山畑古墳群中、最も古い6世紀初めごろに造られた最大の古墳、通称瓢箪山古墳(双円墳)の西斜面に、西面する社殿が建てられています。稲荷神すなわち保食神(うけもちのかみ)として祀り、辻占ないの総本社として知られています。

 

瑞穂甘露 潤養生 太占遺風 破雲霧


碑文は瓢箪山稲荷大神の五穀豊穣の
御神徳を崇め社伝の辻占を称える、

 

そもそも、江戸時代から近くの東高野街道において辻占いの風習があったが、明治時代初めごろに宮司が「辻占」を創始し、「淡路島かよふ千鳥の河内ひょうたん山恋の辻占」として日本全国に知られるようになった。

道の旅人としても、此処に付記することが二つある。一つが善根寺の原始蓮(大阪府天然記念物)である。大和朝廷成立期から7~8世紀にかけて、河内の低地は、河内湖と呼ばれる湖沼が広がり、生駒山地西麓の布市・日下一帯は、草香江(日下江)と称する入り江であった。

 

日下江の入江の蓮(はちす)花蓮 身の盛り人羨(とも)しきろかも (古事記『雄略天皇』)

 

二つ目は、『小楠公銅像』と刻まれた石柱があり、まっすぐ東千メートルの坂を上りきると、往生院六万寺である。四天王寺の西門の真東にあたる地に日想観を行ずる念仏道場として一宇を建立。南北朝時代まだ幼少だった楠木正行が往生院で武芸を学んでいる。

しかし、正平3年(1348年)には四條畷の戦いにおいて南朝方の武将となっていたその楠木正行がここに本陣を置いたため、戦いに巻き込まれて焼失した。正行ゆかりの地ということで正行の亡骸は焼けた往生院に葬られ、墓が作られている。