観心寺

河内長野市は、大阪府の南東端に位置し、東は金剛山地で奈良県、南は和泉山脈で和歌山県と接し、北を頂点とした三角形の市域を形づくっている。

つまり、石川や石見川などの河川が、北に向かって河内平野に続いているのだ。

そんな地形にあって、真言宗の古刹である、観心寺と金剛寺があり、ともに古くより、京都や大阪から、高野山に至る高野街道の中継地として栄えたのである。

また南北朝時代には、南朝の功労者である楠木正成が観心寺で少年時代を過ごし、後醍醐天皇の皇子後村上天皇も金剛寺で6年、観心寺に10ヶ月行宮を開いた。 正に南朝の本拠地、歴史の舞台として記憶されている市(まち)なのだ。 

富田林との境界である、一里塚を越えたら、まもなく汐ノ宮駅(近鉄長野線)が目に入る。美しい駅名だと思ったけれど、海があるわけでもなく、由来はよくわからなかった。 どうやら昔、汐ノ宮温泉(廃業)があったらしく、その泉質が食塩炭酸塩であったこともあり、その(しお)からきているのかもしれない。 いぶかりながらも、いよいよ道の旅人は、この線路沿いの東高野街道を駆けて、2㎞先の河内長野駅近くの、西高野街道と合流する地点に向かった。

河内長野駅は、大阪府河内長野市本町にある、南海電気鉄道(南海)・近畿日本鉄道(近鉄)の駅である。

駅近くには、7本の道路が交差する「本町七つ辻」があり、国道・旧道・市道が入り混じって、終日渋滞なのだが、ある意味、河内長野のグランドゼロ地点だと言えるかもしれない。

西高野街道と東高野街道が合流した本町交差点から高野街道に入るわけだが、例えば北に大阪狭山・堺方面(国道310)、北東には河内長野古野町(市道:近江膳所藩代官所跡)、南東に羽曳野(国道170)・五條(国道310)、南南東には長野町(市道:高野街道)、そして南西に和歌山県橋本方面(国道371)、さらには、西に河内長野市栄町(市道:烏帽子公園西側)、北西に向けては泉佐野方面(国道170)ではあるが、その一つ一つの道は、複雑な曲折を示しており、方向音痴の道の旅人は途方に暮れるしかない。

 

しかし、道の旅人の針路はハッキリしており、この国道170号線を南南東に進路を取れば、高野の入り口である、長野町に入ることができるのだ。

しかも、三日市町にかけての高野街道は、宿場町としての歴史的な街並みなどが残っているのだが、この区間にも二択問題が控えていた。

その一つが、登録有形文化財に登録されている、西篠合資会社旧店舗主屋をはじめとした天野酒醸造元、さをり蔵などが並ぶ酒蔵通りを通り、旧西篠橋を渡って、国の史跡である烏帽子形城址の東側を経由し、八木家住宅主屋や旧三日市交番周辺の三日市宿へとつないでいる。 そして、この旧々街道は、烏帽子形城が現役だった時代に、軍事・政治的意図により、城の麓まで大きく西へ迂回するよう取り付けられていたが、近代になって、長野神社から南下する旧街道(西篠橋経由)が利用されるようになったのだ。


もちろん道の旅人は、この東高野街道の最終章に当たって、高野街道の入り口である吹屋吉年邸から、天野酒(西篠合資会社)よりも隣接している長野神社を選んだ。

その神社はかつて、木屋堂宮(こやどうのみや)と称し、ここを核として長野町一帯は、高野山や紀伊・大和、そして和泉との間を往来する旅人や行商人にくわえ、さまざまな商品が集散して市が立つなど、中世都市として殷賑(いんしん)を極めていたものと推測される。

つまり、そもそもは木材の集積場であったと思われるのだが、相当規模の宿泊施設もあったに違いないのだ。

ところが、三日市もまた高野参詣の宿場町として栄えてきた歴史があり、明治時代には錦渓温泉(1975年廃業)が開業すると、寂々寥々たる一寒村だった当村は戸数300へ膨れ上がった。

しかし、高野登山鉄道(現在の南海電気鉄道)が高野山方面まで延伸されるようになると、徐々に観光業は衰退していった。

なんと三日市町駅前に、【多聞丸 大江時親に学ぶ像】が建立されていた。

この多聞丸とは、楠木正成(1294?-1336)の幼名であり、兵学の師が大江時親(?-1341)である。

『孫子』『呉子』はもちろんなのだが、大江家に伝わる、日本最古の兵法書『闘戦経』を学んだのである。

『孫子』は、「兵は詭道なり(謀略などの騙し合いが要)」としているのだが、『闘戦経』は、‟兵としての精神・理念”を学ぶことになる。

道の旅人は、ここでハッキリしたと言うのも、「河内長野を語るには、楠木正成をして語るべき」なのだ。

そこで、観心寺から8kmの道を通ったという多聞丸に倣って、楠公通学橋から上りになる観心寺を目指すことにした。

伝承では大宝元年(701年)、役小角(役行者:634伝-701伝)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。

その後大同3年(808年)、空海(774-835)がこの地を訪れ、北斗七星勧請したという。

これにちなむ7つの「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は、日本では観心寺が唯一であるが、神社では他にもある)。

弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」の寺号を与えたという。

南北朝時代・戦国時代を通じて、日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「日本開闢以来の名将」(江島為信『古今軍理問答』)と称された正成が、騎馬武者で迎えてくれた。

とは言え、兵学の基礎に儒学を据える為信(1635-1695)は、‟智仁勇”の三徳を兼ね備えるのは聖人のみとし、正成は至っていないと断じてはいる。

聖人でも賢人でもないが、日本における【無双の英雄の士】であることには変わりないと言うのだ。

 

さらに、山崎闇斎(1619-1682)に言わせると、‟三徳にちかき人”とする孔明の次に、正成を置いているのだ。

ところで『太平記』では、奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎない。

史実では、刀を振るえば電撃戦を得意とし、六波羅探題を震撼させた猛将でもあるのだ。(『楠木合戦注文』)

まして、築城・籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した、革新的な軍事思想家でもある。(楠木流軍学の祖)

そして、畿内にいながらにして、日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した、不世出の戦略家だったのだ(『梅松論』)。

観心寺は、楠木氏の菩提寺である。

その中院で、多聞丸は8歳から15歳まで、四書五経、宋学(朱子学)等を学んだ。

中でも、師 の龍覚より“四恩の教え”の大切さを学 んだことが、後年、 彼の行動の基盤 になっている。

四恩とは、心地観経によると 父母・国王・衆生・三宝の恩をいう。

もちろん三宝とは、仏・法・僧のことであり、それらは正行にも引き継がれた。

河内と言えば、河内源氏が浮かぶのだが、楠木氏は橘氏の後裔とされる。

正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘とあるが、任官には源平藤橘(げんぺいとうきつ)の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある。

『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は、橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる。

楠木正成自身、建武2年(1335年)8月25日の『法華経』奥書(湊川神社宝物)で橘朝臣正成を称している。 また『橘氏系図』も正成を橘氏として扱っている。

悪党と呼ばれた正成の主君は、後醍醐天皇であるが、その皇子後村上天皇(1328?-1368)の檜尾陵(ひのおのみささぎ)がこの観心寺にある。

それも、1368年3月11日子刻に、住吉行宮にて崩御したのだが、崩御後の3月15日に当所で火葬されたのだ。

足利義詮(1330-1367)の遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の善入山宝筐院)の楠木正行(1326-1346)の墓の傍らで眠らせ給え」とあり、遺言どおり、正行の墓(五輪石塔)の隣に墓(宝筐印塔)が建てられた、という伝説がある。

では、後村上天皇にも遺勅があったのであろうか?

因みに観心寺には、母である阿野簾子(新待賢門院)の陵があった。

しかし天皇は、マザコンと言うより、幼い(5歳)頃から、鎌倉幕府執権北条氏残党の討伐と東国武士の帰属を目的に、北畠顕家・親房親子に奉じられ、奥州多賀城に向かったのだ。

どちらかと言えば、生涯を父:後醍醐の理想のために尽くしており、ほぼファザコンに近いように思う。

それにしても、弱体化して、退勢を挽回するまでには至らなかった南朝は、なお強硬姿勢を貫いていた。

 

1367年4月には、幕府との和睦交渉が行われたにもかかわらず、天皇は武家側の降伏を条件に要求したため、義詮の怒りを買った末に和議は決裂している。

正季(まさすえ)が「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と述べると、正成も自分もそう思うと同意し、皆に「さらばだ」と別れを告げた。

正成の首は足利方に回収されたが、尊氏は残された家族を気遣い、正成の首を故郷である河内(南河内郡千早赤坂村)に送り返した。

延元元年(1336)正成公が湊川で戦死されると後醍醐天皇その悼惜限りなく、翌2年(1337)御親ら公の尊像を刻ませ給い、公と縁故深き建水分(たけみくまり)神社境内に祀り、その忠誠を無窮に伝えしめ給うた。(楠木正成公を奉祭する日本最古の神社。)

そして後醍醐天皇の皇子、後村上天皇より「南木明神(なぎみょうじん)」の神号を賜った。「南木」とは「楠」を二つに分けたとも、『太平記』記述の正成公登場の後醍醐天皇の御夢によるものとも云う。

南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。 だが、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町(おおぎまち)天皇(1517-1593)の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった。

1378年に当寺を参詣した賢耀の『観心寺参詣諸堂巡礼記』を参照すると、現在境内に「楠公首塚」と称している五輪塔の辺りが真の女院墓に相当するようである。

この廉子に関して言えば、花将軍北畠顕家(1318-1338)が死に臨んで書き上げた諫奏文にも、「女官 の中に、私利私欲により国政を乱すものがいる」と、廉子を重用する後醍醐天皇を暗に非難している部分がある。

ひょっとしたら、正成のために女院の墓が崩されることを承知した後村上天皇は、義詮に負けじと、正行の父である正成を、わが守護神にしたのじゃないかと勘繰ってしまう。

 

この南北朝時代を終結させたのは、他ならぬ正成の三男:正儀(まさのり)と言えるかもしれないのに、この東高野街道で語ることができなかったのが唯一の心残りである。