秦河勝の墓

 

JR学研都市線「星田」駅前通りを西へ、松本ハイツの辻を入る、約300m、不二鉄工所の前に、寝屋長者屋敷跡がある。そこが、『鉢かづき』(お伽草紙)の舞台になった場所であり、その”はちかづきちゃん”は、寝屋川市のイメージキャラクターでもある。

ところがその物語の出だしは、『河内国交野の辺に』となっているのだが、天野信景(さだかげ)の『塩尻』巻三十九には、「鉢かづき事は、同国寝屋村の長者か女(むすめ)なり」とある。

また、市役所本『河州交野郡寝屋長者鉢記』(全七巻)には、壱:寝屋長者鉢かづき記序・弐:芦屋長者闕所物事 並ニ長太夫親子病死照見病発ノ事・参:寝屋長者夫木津難渋ノ事 鉢かづき姫追い出され、艱難ノ事・四:首なし地蔵尊由来の事 並ニ乳母おこん殿屋敷の記・五:初瀬姫湯殿番と成り上がるを 宰相殿には和歌の事・六:かづきし鉢自ら消滅する事 並ビ嫁くらべ勝劣の事・七:宰相殿家督相続の事 並ニ初瀬姫実父実高御対面の事 継母浅路成り行きの事。

その口語訳が、『寝屋川の民話』に‟鉢かづき”(寺前治一)として収められている。

この鉢がご加護であり、托鉢に通じるものがあるのかもしれない。

民話には、寝屋長者の屋敷の事が綴られている。

屋敷は東西十二町、南北四町で東西に大門があった。田畑は一千二百余町で、住宅の構え造りは言葉では表現できないほどで、南には小山があり、本宅との間の谷に百間の橋を架け、欄干擬宝珠に銀の金物を打ち、橋の下を泉水にして魚を飼っていた。

東を高台にし、庭の樹木は年中花を絶やしたことがなく、家の造りは高くして、玄関・中門・路次門・客間・別間・待合の間・使者の間・茶の間に次座敷、そして奥の間は百丈式で廻り縁の広さ三間もあった。槍戸をひらいて築山の中に、高欄附きの朱塗りの橋を架けて離れ座敷への通り道とし、方立・雲肘木・破風関板飛縁・庵垣・透(すかし)垣とし、連子蔀・腰槍戸・妻戸などのこしらえは見事なものであった。そのそばに的山を築き、その脇に蹴鞠の坪をこしらえ、おりおり公家衆が、おこしの時は、鞠を蹴って遊ばれた。

言うまでもなく屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で、その造りは公家の屋敷と変わりなかった。家の棟数は百十三あって、土蔵は八十八か所で、この内宝蔵が五か所もあった。

その他長屋は長さ十間に横三間のものが五棟も建てられていた。

母上は流るる涙をおしとどめ、そばなる手箱を取り出(いだ)し、中には何をか入れられけん。世に重げなるを姫君の御髪(みぐし)にいただかせ、その上に肩の隠るるほどの鉢をきせ参らせて、母上、かくこそ詠じ給ひける。

 

  さしも草深くぞ 頼む観世音 誓ひのままにいただかせぬる   (御伽草子『鉢かづき』)

 

臨終の母親が、十三歳の姫君に、長谷観音のお告げに従い、鉢を被らせた件(くだり)である。ここから異様な姿の鉢かづき姫が、数奇な運命をたどることになる。

その鉢については、人に功徳を積ませる【托鉢】を意味しているかもしれないが、姫においては穢れのない乙女を意味しており、日本におけるシンデレラ(灰かぶり)の話なのだ。

 

姫を追い出したことを後悔した長者が、諸国修行の旅に立つ前に、かねて約束のひな道具入れの土蔵ひと棟を、おこんに贈りました。中にはよほど高価な物があったのかそのお金で座敷を建てたり庭づくりなどをして、仏様によく仕えて八十八歳まで長生きしたと言います。                                                                                                     (『鉢記巻四』より) 

 

この‟はちかづきの初瀬姫”の乳母おこんの事だが、母の照見の方の死後、その冥福を朝夕祈っておりました。長者の実高(さねたか)に後妻が来てからも、姫を大事にして変わりがありませんでした。姫が屋敷を追い出されたときは、おり悪く病臥中で知らなかったのですが、照見の方の夢の告げで、仏様のご加護で心配に及ばないと知らされ、悲しいうちにもホッとするのでありました。                   (寝屋川市教育委員会『寝屋川市を歩く』)

 

乳母は、この巻にしか登場しないのだが、おそらく姫の後見人であり、‟功徳を積めば、こんないいことがあるんだよ”と言う教えだったのかもしれない。

それにつけてもあくどいのが、継母浅路で、弟作兵衛と手代権九郎に命じて、初瀬姫を殺させたのだ。権九郎は持っていた姫の首が不思議にも重くなったので、それを淀川に遺棄して東に逃亡する。のちにその首が、照見・初瀬姫の信仰していた地蔵尊の首であったことがわかる。

 

この長者屋敷は山根街道沿いにあり、そのまま正法寺・西連寺(伝照見の方の墓)とまわり、寝屋川市公園墓地に下りてくる。府道18号線を打上川治水緑地に向かうと細屋神社(寝屋川市太秦)がある。

この神社の社頭掲示板には、『祭神は秦の記録に天神星屋、星天宮と記されており、祖先からの天体崇拝の思想から日月星辰の運行を司ってこの地域の集落や農業豊穣の守り神として祭祀されていたものと考えられます。この境内の木を切ったり、草を刈ったりすると腹が痛くなるが秦、大秦の人々だけは別であると言われており、土地の守り神として尊ばれています』とある。

つまり、星を司っており、星屋が細屋にかわったと言われている。

この太秦から、なんと聖徳太子(574-622)の側近であった、あの秦河勝の墓(寝屋川市川勝町)へ向かうことになる。 

ところが、河勝は生没年が不詳なのだ。しかし『日本書紀』には、推古天皇11年(603年)、弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、蜂岡寺(広隆寺)を建てそれを安置した。18年(610年)、新羅の使節を迎える導者の任に当る。さらに、皇極天皇3年(644年)、駿河国富士川周辺で、大生部多(おおふべのおお)を中心とした常世神を崇める集団(宗教)を追討している。また、『上宮聖徳太子傳補闕記』には、丁未(ていび)の乱(587年)で、軍政人秦造川勝として登場し、厩戸皇子を守護しつつ守屋の首を斬ったという。

 

日本書紀から消えた河勝(644年)だが、太子の死後(622年)も生きつづけており、没したのは赤穂坂越(さこし)とされ、神域の生島には秦河勝の墓がある。この坂越湾に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座している。とは言え、 山城国(京都)出身であり、交野ケ原には秦者(はたもの)たちの集団が定住していた族長の魂は、この河内国にて祀られていて不思議はない。

河勝山背の王と相親しきを以て、入鹿これを嫉む(643年上宮王家滅亡)。翌三年東国富士川の辺に虫を生ず、処の民これを常世の神と名付けて尊んで祭り、鄙の人民を害するに至る、河勝これを制禁してその功多し、入鹿又これを嫉む。河勝難義の身に及ばんことを懼れて、ひそかに都を出て、播州難波の浦より船に乗りて坂越の裏に着く、皇極の三年秋九月十二日此浦に着く時に寿八十三才、後世其日を以て祭祀の日とす。                                  『播州赤穂郡志』

星田から旧街道を進み、たち川(異称:傍示川)を渡ると、東(左)側に石積みで築いた基壇の上に置かれた小祠に、大師像が祀られており、大谷地区に入ったことを示す。『河内誌』という昔の書物に、大谷の地は星田村と寝屋村のニ村から分かれた土地とされ、今では道の東側が交野市、西側が寝屋川市になってる。


打上の四ツ辻は南北に東高野街道、東西に奈良伊勢道が走る交通の要所でした。ここには、かつて寝屋長者の信仰が厚かったという石の地蔵さんがありましたが、「鉢かづき姫」が寝屋の屋敷を追い出されて殺されかけたときに、身代わりになられたといいます。今は、打上の明光寺に移され、「首なし地蔵」の愛称で人々に親しまれています。右の画像の地蔵さんの後ろに隠れているのが首なし地蔵なのだが、本尊を拝むことはできない。 そしてこの坂道をさらに登っていくと、高良(こうら)神社(打上神社)があり、さらに50メートルほど進むと、石の宝殿古墳があるんよ。 

【高良神社由緒】

 旧讃良郡に属し、江戸時代には交野郡に属していた。
 打上川沿いを含め、寝屋川市には秦氏一族に因む地名や伝承地(伝秦川勝の墓)などが点在している。 『日本書紀欽明紀』には「河内国更荒郡のウ野邑の新羅人の先祖」とか、『姓氏録』に「宇努連、新羅皇子金庭興の後」など、後期の渡来系氏族の色濃い地域と言える。

寝屋川市東端の打上元町にある北河内唯一の古墳時代終末期に属する古墳です。 古墳は生駒山地から派生する丘陵の南斜面に築かれていて、現状は巨大な横口式石槨が露出しています。同じような構造の横口式石槨をもつ古墳は、奈良県斑鳩町御坊山3号墳、明日香村鬼の爼(まないた) ・雪隠(せっちん)しかない。 古墳の背後には3個の巨石が一列に並んでおり、この列石の西側にも石が埋っていることが確認され、この石と列石との設置角は135度で、古墳の平面形が八角形になる可能性があるんよ。