道明寺天満宮

 

道の旅人は、自転車・歩行者専用橋である、新大和橋を渡って藤井寺に入った。踏切を渡り、梅が園町を通ると突き当りに、国府(こう)八幡神社がある。

伝承によれば、近世の初期に、河内源氏の氏神である壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まったとされているんよ。他にも、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が四社あり、沢田八幡神社・古室(こむろ)八幡神社・土師里(はじのさと)八幡神社・津堂八幡神社は、日本最古の八幡宮と呼ばれる誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものである。その経緯についてはわからないが、主祭神が応神天皇であることに変わりはない。

また、神社の北には「国府遺跡」があり、旧石器時代の石器や縄文、弥生人の人骨が発掘されているんよ。飛鳥時代には衣縫(いぬい)氏の氏寺とされる衣縫廃寺が創建され、柱に使われていた礎石が国府八幡神社にも残されている。

国府遺跡は、約2万年前の旧石器時代から縄文・弥生・古墳と、各時代の人々が生活したと思われる跡が発見されており、まさに複合遺跡である。

現在までの調査で縄文・弥生時代の約90体の人骨も出土しているのだ。

考古学の研究史において、大きな足跡を残し、貴重な資料を提供している点では、その名を全国に知らしめたと言えるかもしれない。

というのも、日本 人起源論や日本の旧石器時代に関する見解に、大きな影響を与えたんよ。

つまり、日本には旧石器時代は存在しなかったと考えられていた1916年(大正5)、旧石器時代の可能性のある石器が採集されたことから調査が始まり、1957年(昭和32)に、縄文時代の遺物を包含する地層の下から、ナイフ形の特徴的な旧石器が発見され、旧石器時代の遺跡として確認されたってわけ。

遺跡からは旧石器時代の遺物だけでなく、縄文時代・弥生時代の人骨、弥生時代の土坑、古墳時代の製塩土器、飛鳥時代創建の衣縫(いぬい)寺跡の関係遺構、奈良時代の河内国府に関係する建物群跡と円面硯、施釉陶器、土馬など、また、平安時代以降の黒色土器、土釜、墨書土器なども出土した。 学術的にも貴重なことから1974年(昭和49)に国の史跡に指定され、1977年(昭和52)に追加指定を受けた。現在は史跡の一部が公園として整備されている。

まさにエポックメイキングな遺跡なのだが、この地は大和川と石川の合流点の西、羽曳野(はびきの)丘陵の東北部段丘崖近辺に位置し、古代から交通の要衝であり、雄略紀の餌香市(えがのいち)の所在地であったとも言われている。

そして、国府遺跡の西側に志貴県主神社があり、河内国惣社でもあるのだが、これを【志紀】と書き換えるだけで、八尾の物部氏のにニオイがしてきて、石川を挟んでの蘇我との拮抗も見えてくるのだ。しかも両陣営の帰化人たちは、山のすそ野を広げるように降りてきていたのかもしれない。

【略記】この神社は、河内古市より国府に至る南北約五粁に亘って連なる洪積層の「国府、古市台地」の北端に鎮座する延喜式内社(延喜式に記されている古社)であり、祭神は神武天皇の長子と伝えられる神八井耳命(かんやいみみのみこと)を主神としている。

大和時代初期のころ、柏原付近から道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として「河内の志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は、神八井耳命を始祖とする志貴県主及びその同族である志貴首であったため、これらの豪族たちが本貴地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であったと考えられる。

ところが、三代実録の清和天皇の貞観四年(862)二月の記録によると、本籍を志貴郡から平安京の左京に転じたことが判るのである。その後、村上天皇の天暦年間、惣社の制により、この神社を「河内の惣社の宮」と呼称することになった。

后が日下(くさか)にいた時、天皇は河内へ行幸した。そこで山の上に登り国内を見渡すと、鰹木(かつおぎ)を上げている家があった。天皇が「その鰹木を上げて作ったのは誰の家か」と問うと、答えて言うには「志幾(しき)の大県主の家です」と。そこで天皇が詔して「自分の家を天皇の御殿に似せて造ったのか」と人を派遣して家を焼かせようとすると、大県主が恐れ入って「卑しい者でありながら、身の程を知らずに立派なものを作ってしまい申し訳ありません。「ノミ(=謝罪)」の供物を献上致します」と布を白い犬に掛けて鈴をつけて献上し、天皇は火をつけるのをやめた。                        【古事記 雄略天皇】 

 

磯城縣主(シキノアガタヌシ)は、神武即位前紀の、奈良県磯城郡にあった豪族であるが、日本書紀神武天皇の段によると、神武天皇の大和侵攻に際して、抵抗して誅殺された志貴の豪族・兄磯城(エシキ)に代えて、帰順したオトシキを志貴県主としたとある。

 

そのことに意味があるのか、この神社の主神にもエピソードがあり、『日本書紀』綏靖天皇即位前紀によれば、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命(かんやいみみのみこと)・神渟名川耳尊(かぬなかわみみのみこと)を害そうとした(タギシミミの反逆)。 この陰謀を知った兄弟は、己卯年11月に片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代綏靖天皇)、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。

ところでこの神社の南側には、雄略天皇の父である允恭天皇陵があり、そのエピソードも記すと、反正天皇5年1月、反正天皇が皇太子を定めずして崩御(410年)したため、群臣達が相談して雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)を天皇(大王)に推挙する。尊は病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、允恭天皇元年(412年)12月、皇后:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の強い要請を受け即位。 中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。

とても謙虚で慈悲深い人物だったとされ、病を治す為に医者の招聘(414年)に応じた新羅は、お隠れになられた際に弔使(453年)を送っている。

しかし、豪族に対しては厳しい姿勢をとり、氏姓の乱れを正す為に呪術的な裁判である盟神探湯(くかたち)を実施したりした。

さらに、有力豪族葛城氏の玉田宿禰(たまだのすくね)が、反正天皇の遺体の管理を任せられながらも、地震(416年?)の際に酒宴を開いていて、職務を放棄していた。

そんな事態を調査にしにきた使者を、殺す事件が起こり、これを誅殺したとある。

治世の晩年(435年)には、第一皇子で皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と、その同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)による近親相姦な関係が発覚したのだ。 ところが天皇もまた、皇后の妹・衣通郎姫を入内(418年)させているのだが、それはセーフで、皇后の不興を買っただけ。 

藤井寺市は、古代文化発祥の地であり、金剛・和泉山系に源を発する石川と大和盆地から流出する大和川との合流点の西側には段丘地形が発達し、この段丘面に巨大な古墳が築造されました。 それが市野山古墳(5世紀中頃)で、実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定(じじょう)されたのは、明治時代の初めの、当時の宮内省によってである。市野山古墳は、従来5世紀後半に造られた古墳だと考えられていましたが、近年の円筒埴輪編年では、5世紀 中頃の築造であると推定されています。今まで、市野山古墳が允恭天皇陵に治定されていることを疑問視する説も少なくなかったのですが、築造時期の推定が早まれば、允恭天皇陵である可能性は高まることになります。「市野山古墳」の名前の由来は、この地が昔から地元で「市の山」と呼ばれていたことによります。この「市 というのは、古代の律令時代に古墳のすぐ近くに、餌香の市(えがのいち)」という河内の市が置かれていたことに関 連するという説があります。

1795(寛政7)年4月に葛井寺や道明寺に参詣した俳人・小林一 茶は、允恭天皇陵にも立ち寄っており、「市野山は綿毛で墳丘一帯は真っ白であった」とその時見た様子を著書『西国紀行』に記しています。

なお、津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)も、宮内庁により允恭天皇の「藤井寺陵墓参考地」としている。

この古墳から南に下り、土師ノ里に入ると、道明寺に至る。道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であり、氏寺である土師寺があった。

埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の姓とこの地を与えられた。そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社を建立した。

仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となったが、 この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏が分流していくのだ。

延喜元年(901年)、大宰府に左遷される道真が、この寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね、「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな

と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。

道真の死後、天暦元年(947年)には道真自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺を道明寺と改めるが、これは道真の号である「道明」に由来する。

この時同時に、土師神社内に天満宮も創建された。

 

国宝を 守る御寺の 虫しきり   坊城中子

大安で 吉日梅の 道明寺      伊藤柏翠

 

ところで、醍醐天皇から菅原道真公に対し、太宰府に左遷する旨の詔勅が発せられた。(正月25日)道真公は56歳、

2月1日に出立し、長岡京あたりから淀川を下り、川舟と海船の乗換える渡辺津までの途中で足跡を残している。

 

大坂に着いてから、河内・道明寺の伯母覚寿尼を訪ねているのだが、大宰府へ左遷の道中には、監視がつけられ、赴任ではないので、道中の諸国では馬や食が給付されず、とあるのだ。(『政事要略』巻二十二)

反道真派の奸計により絶えず危険にみまわれ、刺客に襲われたりもした。(『菅家後集』) このような条件の中で、叔母に会えたかどうかは疑問なのだが、馬術の心得さえあれば、道明寺糒(ほしい)にも真実味があり、監視下とは言え、道真を慕う人たちの手で馬を走らせたかもしれない。

「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、『日本書紀』の「虚空見(そらみつ)」から、あるいは「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来という。

 

道真が亡くなった後、平安京で雷、大火、疫病などの天変地異が相次ぎ、清涼殿落雷事件で大納言の藤原清貫ら道真左遷に関わったとされる者たちが相次いで亡くなったことから、道真は大自在天や大威徳明王などと関連付けて考えられるようになった。

 

そんな道明寺と天満宮であったが、1872年(明治5年)神仏分離することとなり、6月に天満宮は土師神社に改称した。翌1873年(明治6年)9月に道明寺は分離し、道を隔てた西隣の地に移転した。

1952年(昭和27年)に土師神社は道明寺天満宮と改称する。現在も学問の神として地元の人々に親しまれており、また境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られている。 


左の画像は、登り窯が復元されたものであり、右は修羅の復元です。天満宮に置かれているこれらの技術は、土師一族のものであったろうと思われます。

 

青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで (一茶)

 

そして境内には、寛政7年(1795年)西国行脚の際に立ち寄った一茶の句碑があるのだが、別途、別れの故事に基づいて詠んだ句も載せておく。

 

 暁や 鳥なき里の ほととぎす (一茶)  

 

この道明寺の西側に、中津姫御陵があり、応神天皇の皇后である。『古事記』は中日売命と綴られている。全長290メートル、後円部径170メートル、高さ26.2メートル、前方部幅193メートル、高さ23.3メートルで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを誇っており、天皇の母である神功皇后との勢力図を考察したいものである。

 

父は景行天皇の孫:陀真若王(ほむだまわかのおう)で、母は建稲種命(たけいなだねのみこと)の女:金田屋野姫命(かなたやのひめのみこと)。

応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。ちなみに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。

 

この建稲種は、尾張国造乎止与(おとよ)の子で、ヤマトタケルの東征の帰路に娶られた宮簀媛(みやずひめ)は妹になる。

また、品陀真若王の母は建稲種の娘の志理都紀斗売(しりつきとめ)である。

応神天皇の諡号である「誉田別」(ほむだわけ)は生前に使われた実名だったとする説があるが、嫁の実家を継いだように思えるし、尾張の豪族である母方の支援を仰いでいるようにも思える。

一方妃には、息長真若中比売がおり、若沼毛二俣王(ワカヌケフタマタ=日本書紀では稚野毛二派皇子)を産む。

 

古事記では若沼毛二俣王は息長真若中比売の妹の「弟比売(百師木伊呂弁(ももしきいろべ)・弟日売真若比売命)」と結婚して、つまり叔母と甥との間柄であるが、意富々杼王(おおほどのおおきみ)や允恭天皇の皇后となる忍坂之大中津比売命、及び妃となる衣通郎姫が生まれている。