あられ松原

   

 

今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園(住之江区浜口東)の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地なのだ。その風光明媚な景勝に、誰もが離れがたくなる。遣隋使・遣唐使たちも、そんな住吉津(すみのえつ)から旅立ったのであろうか?

その住吉津は、上町台地の南西端、現在の大阪府大阪市住吉区細江川(通称・細井川)の河口に形成されていた住吉の細江と呼ばれる入江にあった。

また鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。

「住吉」は平安時代頃まで「すみのえ」と呼ばれており、「墨江」「清江」とも表記された。

また、遣隋使・遣唐使だけじゃなく、浦島太郎伝説もあり、さらに一寸法師伝説もあるのだ。

高灯篭は、もともと住吉大社境内の神前浜にあった。高さは5丈3尺余(約16m)あり、創建は鎌倉時代といわれてるんよ。

本来は住吉大社に捧げる常夜燈なのですが、江戸時代になって海上交通が特に盛んになると、夜間大阪湾に出入りする船のための目印が必要となり、住吉公園の西十三間堀川町に再建されたのが、我が国最初の燈台『住吉の高燈籠』であります。

寛政六年(1794)の「住吉名所図会」には、住吉大社反橋と並ぶ名物と記されています。いかなる時も点灯を続け、正に常夜灯でした。

また「大阪府全志」(大正11年)には、「高燈籠へ上がれば、金剛・飯盛、の山を背に、六甲・耶を右に…前は茅海(ちぬ、大阪湾)で淡路の島影が横たわり、湾水は青く瑠璃のようで、きれいな舟帆が宛然と絵を見る思いがする」との意が書かれ、絶景であった高燈籠からの眺望が目に浮かびます。 

 

昭和25年(1950)に台風被害に遭い石垣だけ残し倒壊してしまいました。その土台の石垣も昭和47年(1972)に道路拡張工事に伴って、住吉公園西、国道26号線沿いの現在地に昭和49年(1974)に、外形は元のままで鉄筋コンクリート造りとして復元再建しました。

室町時代末期ごろに、上町台地上にある熊野街道に代わり、紀州街道が主要街道となった。これにより粉浜や安立(安立町)が街道筋として発達することになる。 

住吉大社に詣で、鳥居前を南にまっすぐに行くと安立町に出る。

この通りが紀州街道で、豊臣秀吉の頃より、堺へはこの道を通ったという。
                       (石田稔・和美著『移りゆく住よし』)

この安立、一字一字はやさしいけれど、読み方になると戸惑うけれど、“あんりゅう”と呼ぶ。

この町は、江戸時代の良医半井(なからい)安立という人が開いたのでこの名がある。

しかしこの字で真っ先に浮かんだのは、“安心立命”という四字熟語である。

【悟りを得て、名声や利害など何事にも動揺せず、現実を受け入れる】ってわけよ。


たしか“立命館の由来”と思っていたら、孟子の『盡心章(じんしんしょう)』の「殀壽不貳(ヨウジュタガワズ)、脩身以俟之(ミヲオサメテモッテコレヲマツ)、所以立命也(メイヲタツルユエンナリ)」からであった。

そんな想いを巡らしていたら、“あられ松原”の歌碑に出くわした。

あられ打つ阿良礼(あられ)松原すみのえの
  弟日娘(おとひおとめ)とみれど飽かぬも 

              (万葉集Ⅰー65)

 

あられ松原の景色は、ひとりで見ててもおもしろい。

それなのに今は、住吉の弟日娘と一緒にいるのだから、いくら見てても飽きないでいるよ。

                                          【意訳】(折口信夫)
 

 昔このあたりを「あられ」または「あらら」といい、その松原を“あられ松原 ”と呼んでいました。するとこの“霰打つ”は、実際に降られたと言うより、たんに枕詞として用いられ、きっと、“霰が降ったような白い砂”のイメージに、松原の風景が広がっているってことなんだよなぁ。これが慶雲(きょううん)三年(706年)丙午(秋半ば)、文武天皇(683-707)の難波ノ宮行幸の時の長皇子の歌である。

 

そこで道の旅人が疑問に思ったのは、「こんなときに、お戯れの歌を詠みあげるのであろうか?」と云うことである。つまり、【弟日娘】は何者なんだろう?果して、遊女の類で済まされるであろうか?

と云うのも、この住吉には、浦島伝説があり、それを踏まえて、長皇子は乙姫を引き合いに出したのではないだろうか?

ところが3首後に、清江娘子(スミノエノオトメ)となって、皇子に奉った歌が出てくるのだ。

 

くさまくら旅ゆく君と知らませば

        岸の埴生(ハニフ)に匂はさましを     (万Ⅰー69) 


つまり、「この住吉の岸の赤土(黄土粉)であなたのお召し物を染め上げれば、いつまでも忘れないでいてもらえたのに・・・」と言う歌意だが、世間のことは忘れて、暗に住吉(スミノエ)の土地に住み着いてほしいと願っているのだ。

と言うことはこの場合、“忘れ土”ではなくて、“想い土”となるのだが・・・。

そこからすぐ、安立商店街に入るのだが、幟には“一寸法師ゆかりの町”とあるんよ。

 

中頃の事なるに、津の國難波の里に、翁(おうぢ)と老媼(うば〕と侍り。老媼四十に及ぶまで、子のなきことを悲しみ、住吉に參り、なき子〔自分にもつて居ない子〕を祈り申すに、大明神あはれと思召して、四十一と申すに、たゞならずなりぬれば、老翁喜びかぎりなし。やがて十月と申すに、いつくしき男子(をのこ)をまうけけり。 さりながら生れおちてより後、せい一寸ありぬれば、やがて其の名を一寸ぼうしと名づけられたり。

        (御伽草子『一寸法師』)                                        

 

ここから“一寸法師”の物語が始まるのだが、ただ単に可愛がられたり、小賢しい策を弄するだけでは大人にはなれないのである。この“一寸法師”が、立派な若者になれたのは、勇気のある行動をしたからである。

住吉の御誓ひに末繁昌に榮え給ふ。世のめでたきためし、これに過ぎたる事はよもあらじとぞ申し侍りける。 

この一寸法師は、京(みやこ)に上るために淀川を目指したが、旅人は大和川を渡らねばならないのだ。しかしその途中、素通りできないところがあった。そこに、秀吉の五奉行(浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)のひとりが待っているのだ。 と言うのが阿弥陀寺で、当山は、安土桃山時代に開山。文禄二年に旭蓮社幡譽空智大和尚が中興。以来太閤秀吉五奉行の浅野長政(1547-1611)公の御縁(ゆかり)の寺として現在にいたる。なおこの長政、寧々の養父である浅野家に婿入りしており、秀吉とは姻戚関係になる。

ところが、関ヶ原の戦いでは家康を支持し、秀忠の軍に従軍して中山道を進み、嫡子幸長(よしなが)は、家康軍の先鋒として岐阜城を攻め落とし、関ヶ原の本戦で活躍している。 その結果浅野幸長(1576-1613)は、この功績により紀伊国和歌山37万石へ加増転封されており、紀伊和歌山初代藩主である。その門前の立札に紀州街道の説明とともに、♪まりと殿様♪の歌詞がある。 

てんてん手鞠 てん手鞠

  てんてん手鞠の手がそれて

 どこから どこまでとんでった

  垣根を越えて 屋根こえて

  おもての通りへ

  とんでった とんでった♪

 

なお、『忠臣蔵』の浅野長矩(内匠頭)は、その子孫にあたるのだが、この義士たちの寺が市内に二つ(吉祥寺・一運寺)あり、浅野氏と大阪市との縁は深いのだ。

こうして赤穂浅野氏は断絶したけれども、安芸(広島)浅野氏においては、幕末まで存続したことを付け加えておく。 

ついでに、境内には、直木 賞作家・寺内大吉揮毫の歌碑があり、ハマグリをあしらい、いに しえの美しい浜をしのんでいると言う。

 

住の江の 岸による浪 よるさへや 夢 のかよひぢ 人目よくらむ  藤原敏行

 

最後に、粉浜(住吉区・住之江区)についても述べておくと、元は木浜という字であり、住吉大社の式年遷宮の時の木材を置く浜だったことに由来する。

また、付近は染色に使用する黄土で有名で、その粉土が取れたからという異説もある。

万葉集(第六巻)では、『住吉の粉浜のしじみ開けもみず隠りてのみや恋ひわたりなむ』という作者不詳の歌が採録されていて、粉浜の地名も登場してるのだ。

尚、日本書紀の第10代崇神天皇紀62年にて、依網池・苅坂池・反折池(さかおりのいけ)を造った時に天皇が居たと記述される桑間宮(くわまのみや)は粉浜にあったのではないかとの説もある。 

また中世以降紀州街道が開けたことに伴い、街道筋が発展したのだが、粉浜街道とは別に、木津村から勝間村を経て粉浜に至る勝間(こつま)街道も地域を通り、紀州街道のバイパス的な役割を担った。