男水門

 



 五月(さつき)の丙寅(ひのえとら)の朔(ついたち)癸酉(みづのとのとり)〔八日〕に、軍(みいくさ)、茅渟の山城水門(別名 山井水門)〔泉南市樽井〕に至る。
                           (日本書紀『神武天皇』)

浪速国に入った皇軍が、川をさかのぼって河内国の草香邑の青雲の白肩之津に着いたのは三月十日であった。
 そこから兵を整え、歩いて竜田に向かったのが四月九日である。その路は狭く険しくて、軍勢は列をつくって進むことができなかった。そこでひき返し、生駒山を越えて行くことにした。
 しかし、「わが国を奪い取ろうとしている」と、長髄彦が立ちはだかり、孔舎衛坂(くさえのさか)〔東大阪市日下町〕で会戦になった。そして皇兄五瀬命は肘に流れ矢を受け、皇軍は敗走したのだ。


 そこで天皇は、「今わたしは、日の神の子孫であるのに、日に向かって賊を討つことは、天の道にそむいていた」と仰せられ、紀の国に向かうことにした。

 

つまり、その途中に立ち寄ったと云うわけであるが、そこのところを『古事記』では、以下のように記している。

 

 血沼海(ちぬのうみ)[泉北・泉南辺りだが・・・]に到りて、其の御手の血を洗ひたまひき。其の地より廻り幸(い)でまして、紀国(きのくに)の男之水門(をのみなと)に到りて詔(みことのり)たまはく・・・・。    (古事記『神武天皇』)

 

 当時、どのような治療法があったのか知らないが、五瀬命は破傷風にかかっていたと思われる。高熱にうなされながら水をほしがっていたであろう。
 だからこそ、この地が“山の井”と呼ばれていたように、水を供給しに立ち寄ったのだ。

 そのためには、この土地のことを良く知っている国神が案内に立たなくてはならなかった。
 速吸之門(豊予海峡)では珍彦(うずひこ)に導かれ、筑紫国の菟狭(大分県宇佐市)では、菟狭津彦と菟狭津媛のご馳走にあずかる。
 しかし、このあと筑紫の岡水門(福岡県遠賀川河口付近)、安芸国の埃宮(広島県安芸郡府中町)、吉備国の高嶋宮(岡山市高島)を経て浪速国に至るのだが、そこには猿田彦(案内人)なる者は記されていない。

 

 と云うことは、海岸線一帯に広がる松林と、さらさらとした砂浜、そして高台を見上げた時 そこに“山の水”ありと踏んだのかもしれない。

 

    山の井の湊を今の樽井とは昔わすれぬ人もこそ知れ (権中納言 高岡尚資)

 

この山の井の水を、垂れる井戸と云うことで、なまって垂井となり、今の“樽井”になったと云う。

 

その樽井の位置は、大阪府の南部。ちょうど関西空港の対岸に位置しています。南は遠く和泉山脈を望み、北は大阪湾を隔てて摩耶・六甲の連山を望見出来る風光明媚な町です。
 
岸和田・春木・津田・脇浜・鶴原・佐野・嘉祥寺・岡田・樽井が和泉九ヵ浦と呼ばれていた。そしてそれぞれの町に、豪商と呼ばれた人達がいた。
 
この樽井にも、江戸時代、酒造業や廻船業を営んでい た深見仁右衛門という人がいた。蔵から荷物を運ぶ時に 便利なように、屋敷の前から樽井浜に直接道をつけたそ うです。これがもとで人々から”仁右衛門坂”と呼ばれるよ うになり、古くから親しまれてきました。当時はたくさんの酒や醤油がこの坂を下り、浜で船積みされて出荷されたことでしょう。

ここにおいて五瀬命は、動くこともかなわず、もはや戦に加わることも望めなかった。しかも、国を捨てて来たので、なんとしてもこの東方の地に国を打ち建てねばならなかった。

 

「賤しき奴が手を負ひてや死なむ」と男建(をたけび)して崩(かむあが)りましき。故、其の水門を号(なづ)けて男水門(をのみなと)と謂ふ。陵(みはか)は紀国の竈山(かまやま)[和歌山市和田]に在り。        (古事記『神武天皇』)

 

 

  天皇家の初代神武天皇は、“わが天祖ニニギノミコトは、この西のはずれの日向を治めておられた”が、“天磐船に乗ってニギハヤヒが飛び降ってきたのは東の国”だと仰せられた。
 これが神武東征の物語になるのだが、彼は“西の国”から来たのだ。そしてそれは、西の文化(大陸文化)が押し寄せてきたことを意味する。もし彼が、「何処から来た?」と聞かれたら、「日が向かう国、お日さまが棲んでいる国だ」と言ったのかもしれない。
 
 道の旅人は、“記紀の国”に入り、天神の森にある『神武天皇聖蹟雄水門顕彰碑』の前に立った。そこで、まるで方位を失ったかのように佇んでいた。しかし、彼には思慮している時間はなかった。