住吉大社

1800年もの歴史を持つであろう“すみよっさん”は、仲哀天皇9年(200年)、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明(アメノホアカリ)命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見(タモミ)宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まると言う。(Wikipedia)

 

大阪市南部、上町台地の方角に西面して鎮座しているのが住吉大社である。そしてその三神が、底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)なのだ。

『日本書紀』では神功皇后の船が、忍熊王(オシクマノミコ)が待ち受ける難波の海に向かったとき、難儀にあう。そこで武庫の港へ戻り占われたときに、これら神々が登場することになる。

ここに天照大神、「我が荒魂、皇后に近づくべからず。まさに御心の広田国(摂津国廣田神社)にましますべし」

また天照の妹は、「吾、活田(イクタ)長峡(ナガヲ)国(摂津国生田神社)にまさむと欲(オモ)ふ」

また事代主命は、「吾を御心の長田国(摂津国長田神社)に祀れ」とのたまふ。

そして三神(ミハシラノカミ)は、「吾が和魂(ニギミタマ)、大津の渟中倉(ヌナクラ)の長峡(ここが住吉大社)にまさしむべし。すなはち因りて往来船を看(ミソコナハ)さむ」

 

こうして、七道の浜に足を踏み入れ、神功皇后摂政11年(211)、住吉大神を住吉の地に鎮斎(帝王編年記)したことになっている。

思えばここから、遣隋使や遣唐使が旅立ったのだが、今ではその海は、“住吉っさん”から8km以上も西に離れてしまったのだ。

住吉大社の象徴として、名高い反橋(そりはし)がある。慶長年間(16世紀末~17世紀初頭)に、豊臣秀頼公の成長祈願の為に、淀君が奉納したと伝えられている。昔はこの橋の近くまで、大阪湾の入り江が広がっており、入り江の対岸と本殿とを結ぶ橋として架けられた。

 反橋は上るよりも

おりる方がこはいも

のです

 私は母に抱かれて

おりました。    (川端康成『反橋』)

 

橋の長さは約20m、幅は約5.8mの木造桁橋である。橋中央部の高さは4.4mで、中央部を頂点として半円状に反っている。最大傾斜は約48度になり、地上と天上を結ぶ虹に例えられていたため、橋が大きく反っているのだ。

そしてこの作品『反橋』は、三部作(他『しぐれ』『住吉』)のひとつであり、すべてが、“あなたはどこにおいででしょうか?”という呼びかけで始まり、再び同じ言葉で結ばれているのだ。

 

ところで、かつての反橋は、渡りやすくするための横木がなく、足掛け穴があいているだけでとても危なかったが、「反橋を渡るだけでお祓いになる」ということから、懸命に上り下りする参詣者も多かった。その後も時おり修復が加えられ、現在に至っている。

太鼓橋の上にいた旅人は、二人の女性を連れた男性を見ていた。

しばらく池にたたずんでいた丈夫(ますらお)は、にわかに腰を下ろすと、蓮の葉を手繰り寄せ、矢立の筆をとりだしたのだ。

 

神もなほ知らじとおもふなさけをは 蓮のうき葉の裏に書くかな  (与謝野鉄幹)

 

もちろんその女性たちとは、鳳晶子と山川登美子である。

このとき鉄幹の情は、登美子に傾いていたようだが、そのときの登美子の歌は・・・。

 

歌かくと 蓮の葉をれば いとの中に 小さきこゑす 何のささやき  (登美子)

晶子は、白い登美子の顔がほほえむのを、可憐で美しいと見た。しかしその登美子を、寛もながめているのに、心をみだされた。それは登美子への友情のうらに流れている、嫉妬である。

「〈蓮きりて よきかと君が もの問ひし 月夜の歌を また誦(ず)してみる〉というところがお返しだ。
 鳳くん、ひとつ、歌があるべきじゃないか」 (田辺聖子『千すじの黒髪』)

 

月の夜の 蓮のおばしま 君うつくし うら葉の御歌 わすれはせずよ (晶子)

 

そこには、『みだれ髪』の一首が載せられていた。

しかし、よほど千々に乱れたのであろうか、“白百合”の章として、他に二首あるのだ。

 

たけの髪をとめ二人に月うすき今宵しら蓮(はす)色まどはずや
荷葉(はす)なかば誰にゆるすの上の御句ぞ御袖(みそで)片取るわかき師の君

 

ついでに、この恋のさやあてに終止符を打つ、登美子の歌を載せておく。その題辞には、題辞には、“晶子の君と住の江に遊びて”とある。

 

それとなく紅き花みな友にゆづり

           そむきて泣きて忘れ草摘む

                 (山川登美子・増田雅子・與謝野晶子『恋衣』) 

この忘れ草が、住吉の三忘れを思いださせた。因みに”忘れ草”とは、『文選』の「萱草人ヲシテヲ忘レシム」よりカンゾウのことである。それに託して紀貫之も詠んでいるのだ。

 

道しらば摘みにもゆかむ住の江の 岸におふてふ恋忘れ草紀貫之)

この‟すみのえ”とは、もちろん住吉のことで、昔は“すみのえ”とも呼んでいた。

暇(イトマ)あらば 拾ひに行かむ住吉(スミノエ)の 岸に寄るとふ 恋忘れ貝 (万Ⅶー1147)

“忘れ貝”(二枚貝の殻の一片)を拾うと、恋しい人を忘れることができると考えられていた。、 住よしの 浅澤をのの 忘水 たへだへならで あふよしもがな  (菅原範綱朝臣)

人に知られずに、細々と流れている水を “忘れ水”という。

ところで、1年で最も重要な祭が住吉祭である。大阪の夏祭りを締めくくる住吉祭は、大阪中をお祓いするお清めの意義があり、大阪を祓い清める祭りとして「おはらい」とも称され、「大阪三大夏祭り」の1つなのだ。

7月海の日に「神輿洗神事(みこしあらいしんじ)」、7月30日に宵宮祭、翌日「夏越祓神事・例大祭」、 そして8月1日にはいよいよ、住吉大神の御神霊(おみたま)をお遷した神輿が行列を仕立て、 堺の宿院頓宮までお渡りする「神輿渡御」が行われるんよ。

神輿洗神事とは、住吉祭の8月1日に堺市宿院への神輿渡御に先立って、その神輿をお清めする神事です。 神輿を住吉大社から、昔住吉浜であった住吉公園(現住之江区)まで巡行し、海水によって神輿が祓い清められます。

この海水は、大阪住吉漁業協同組合のご協力により当日早朝に「汐汲舟」(しおくみぶね)と呼ばれる舟を出し、大阪湾沖合いの神聖な海水を汲み上げたものです。

住吉大社からまっすぐ西に延びている住吉公園までの道は、かつて潮掛けの道と呼ばれており、高燈籠に至り、高さは5丈3尺余(約16m)あり、住吉の代表的な名所として知られる。

なお芭蕉の碑もあるが・・・。

 

升買て 分別かはる 月見かな

 

芭蕉は元禄7年(1694)9月、大坂で派閥争いをしていた2人の門人を仲裁するために故郷伊賀上野から奈良をすぎ暗峠を越えて来坂した。13日に、住吉大社の宝の市神事へ参拝し、参道で売られた升を買った。折から体調が悪かった芭蕉はその夜、招かれていた月見の句会には出席せず宿へ帰った。その翌日の句席で「升買て......」と詠み、「自分もついつい一合升を買ってしまった。すると気分が変わって月見より宿に帰って早く寝た方が良いような気がした」と、洒落っ気を利かして、前日の非礼を詫びたという。