西蔵法師

 

堺市堺区

 

大和川を渡ると堺市に入り、紀州街道はそのまま大道筋へと向かうのだが、ここで是非とも寄り道をしてほしい。

なぜなら、鉄砲町の七道駅(南海本線)前で、山羊を連れた西蔵法師が待っているからだ。

 

この西蔵法師こそ、日本人として初めて、チベットへの入国を果たした河口慧海(1866~1945)である。

あたかも玄奘(三蔵法師)が、仏典の研究は原典に拠るべきであると考え、インドに向かったように、慧海はチベットを目ざしたのだ。

 

と言うのも、漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえた慧海は、サンスクリット語(古代インド語)の原典から、そのまま逐語訳で翻訳した、チベット語の経典を入手したかったからである。

今までの漢訳された経典には、幾つもの違った経典があり、慧海としては、なんとかして正しいお経を求めたかったのだ。

 

チベット高原を行く慧海像
チベット高原を行く慧海像

チベットは、南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、

東は邛崍(きょうらい)山脈に囲まれているんよ。

まず慧海はインドに赴き、そこからネパールへ入国、

そしてヒマラヤ越えを敢行したのだ。

 

ついにラサ(チベットの古都)に入った慧海は、

セラ寺で修業に入ったけれど、偶然骨のはずれた子の

治療をしたことから評判になり、病人が押しかけて来

たという。

しかもそれら患者を診て、漢方薬を与えたところ、驚

くほどよく治るのだ。

 

こうしてセライ・アムチー(セラ寺の医者)の評判が

高まり、活きた薬師様と言うことになってしまった。

そして遂に、ダライ・ラマ(十三世)に召され、侍従

医になるよう薦められたりしたのだ。

 

 

 

 

 

こうして河口慧海は、サンスクリットの仏典やチベット語の経典を求めて、ネパール・チベットに入りその目的を果たした。

しかし持ち帰ったのはそれだけではなく、仏具・民具類は言うに及ばず、動植物・鉱物標本など多岐にわたっていたのだ。    

 

河口慧海が生まれたのは、この近くの堺区北旅籠町西であり、その生誕の地から綾之町交差点まで辿れば、大道筋に出る。

ここから、御陵前交差点を結ぶ全長約2.5km、幅約50mの大通りは、自転車にも歩行者にも優しい道のりなのだ。

 

ここからは時間があれば、 道路中央を走る路面電車(阪堺電気軌道阪堺線)の駅名とともに、町名を口ずさんでほしいものだ。

間もなくすると、櫛屋町西にザビエル公園が見えてくるから、是非対峙してほしい詩碑があるんよ。

 

てふてふが一匹鞭靼海峡を渡って行った   (安西冬衛『春』)

 

これを口にするだけで妙に力が湧いてくるんよ。

次にここから、堺市の人々にいちばん愛されている歌人与謝野晶子の生家、和菓子屋“駿河屋”に向かう。

 

宿院駅に近いけれど、甲斐町西に位置し、その老舗は、この大道筋を横切っていた。

そこには、23年間過ごした、晶子の少女時代を詠んだ歌碑がある。

 

海こひし潮の遠鳴りかぞへつヽ少女となりし父母の家   

 

ところで今この遠鳴りを聴くため 、国の史跡に指定された、現存する最古の木製様式の、旧堺灯台(大浜北町)へ向かってみるのも良いだろう。

ただ夜を待つのは怖いけれど、その最寄駅になる、堺駅(南海本線)西口では、耳をそばだてている晶子がいるのだ。

 

晶子像(堺駅西口) 晶子像(堺駅西口)
 

ふるさとの

潮の遠音のわが胸に

ひびくをおぼゆ初夏の雲

 

この二首は、たしかに“ふるさと”を謳っているのだが、『私の生ひ立ち』を読む限り、少女の頃は、余りいい印象ではなかったように思える。

そのように考えると、“潮の遠鳴り”とか、“潮の遠音”は、暗闇の叫び声に脅えていたはずなのだ。

 

しかも晶子は、12歳頃まで男姿をさせられていたと言う。

さらに晶子の上には前妻の姉二人がいて、母は、その二人をひがませないようにするあまり、晶子にはかまってやれなかったと言っているのだ。

 

やがて旅人も、この晶子と別れ、フェニックス通りを東に上り、大道筋へと出た。

その交差点がチンチン電車の宿院駅にあたり、そこから寺地町駅・御陵前駅と進んだところで、船待神社を回り込み、一路南に向いて駈けて行った。