楯並橋

 

忠岡町の地図

 

大津川を渡ると、忠岡町に入る。

この、大阪府泉北地域に位置する町は、日本一面積の小さい町でもあるのだ。

そうなると、ついつい応援したくなるよね。

ところで、この川に架かる“楯並橋”には、町名の由来があると云うんよ。

 

 

 

源氏の一族木曽義仲は、家臣今井四郎兼平の一子五郎兼滋をして平(薩摩守)忠度の追討を命じた。民家の戸板を盾にして待ち構える忠度の一子忠行は楯並橋に戦い、年わずか18歳を最期に散っていった。村人たちはこれを哀れみ、屍を埋め丘を築いて「忠行の丘」と呼んだ。これが後年「忠岡」と呼ばれるようになったと伝えられているんよ。
源平の戦いがこの泉南の地でも行われたのであろうか?しかも、それぞれのご子息が戦い、どちらかが死ぬ。忠行は命を賭けて戦い、父忠度が俊成卿に秀歌をとどける時間を稼いだのである。
平家再興を願い、優れた武将でもあった父に託した願いも強かったであろうが、その父の命数もわずかであった。

 
三位是をあけてみて、「かかる忘れ形見を給はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候。御疑あるべからず。さても唯今の御わたりこそ、情もすぐれてふかう、哀れもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ」とのたまへば、薩摩守悦んで、「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮世に思ひおく事候はず、さらば暇申して」とて、馬にうち乗り、甲の緒をしめ、西をさいてぞあゆませ給ふ。三位うしろを遥かに見送ってたたれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途程遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す」と、口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。     (平家物語『忠度都落』)

“かかる忘れ形見”とは、秀歌と思われるものを百余首書き集められた巻物である。三位とは藤原俊成であり、薩摩守とは平清盛の弟、平忠度である。俊成が編集した勅撰千載集に、“読み人知らず”として一首が入れられた。

       さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

 今、楯並橋の下には日本列島が横たわっている。川を挟んでは戦を繰り返した武将たち。当時、“これしかない!”と言う生き方の中で、若者たちは大人になっていった。只タダ、親は子の無事を祈り、子も親の延命を願っているものではあるが・・・。

 今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「今は誰をかばはむとてか戦をもすべき。これを見給へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落ち、貫かれてぞうせにける。
                            (平家物語『木曾最後』)
 
 木曾義仲の首を太刀の先につらぬき、高くさしあげた大音声に、五郎兼滋の父今井四郎兼平(巴御前の兄)は自害した。しかも、同じ源氏との戦いにおいてである。享年三十三歳、まだ若き父親であった。するとその子兼滋は、忠行よりも若かったかもしれない。
 平家物語では、このあと一の谷の西の手の大将軍忠度の最後も語られる。源氏方、猪俣党の岡部の六野太忠純を取り押さえ、首を斬ろうとした時、背後から六野太の配下が忠度の右腕を肘の付け根から切落した。今やこれまでと、六野太を投げつけ、西に向かって念仏十遍唱え、背後から六野太に首を討たれた。その箙(えびら)に結び付けられていた文を解いてみると、「旅宿花」との題で歌が記されていた。

      ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひの主ならまし

 

ここで紀州街道の東に位置する忠岡神社に寄る。

と云うのも、高浜虚子・年尾(虚子の長男)、そして稲畑汀子(年尾の次女)の三代句碑があるのだ。


大汐干 句会の船を 五六艘    (虚子)【季語:汐干(春)】
その昔よりの 千鳥の洲なるべし  (年尾)【季語:千鳥(冬)】
千鳥の洲とて 訪ねたき 心すぐ  (汀子)【同上】

  

ところが虚子の句は、堺大浜で詠んだものである。

あとの二句は、忠岡の浜に数百羽飛んでいた千鳥と、大津川の中州を想っての作品なのだ。

これってルール違反かもしれないけれど、『土佐日記』までさかのぼれば、堺の石津へ向かう辺りで鴎を詠み込んでいるのだ。

 

祈りくる風間と思(も)ふをあやなくも かもめさへだに波と見ゆらむ

 

果たしてそんな光景が続いていたかどうかは知らないけれど、ここの句碑があるこそ意味深い気がする。

つまり、この町のキャッチフレーズ『支えあうぬくもりのある町』とともに、冬には千鳥の洲を見せてもらいたいのだ。

 

紀州街道をそのまま駈けると忠岡小学校に至る。そこで不思議なことに、岸和田市と境界線をかぶることになる。この校門の真向かいに永福寺がある。

ここにも源平の話が遺されていたのだ。

永福寺のビャクシン(伊吹柏槇)境内に十二世紀後半建久1198年、木曾義仲の家臣で今井兼滋(安明)氏が伊吹山より持ち帰り、移植したと伝えられるビャクシン(イブキ)の一種ともいわれ、今は大阪府の天然記念物に指定され、その由緒を尋ねて訪れる人も少なくありません。

いまもなお昔わすれずほととぎす
  庭のいぶきに来てやなくらん


この一首が、安明老人の歌として言い伝えられています。

 この忠岡町には、源平の親と子の物語がある。それはまた、“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり”と聞くものかや、兼滋は義仲と乳兄弟である父の家名を捨てた。しかし、血筋を遺すことはできた。父の生き方を思い、これでよいのかと自分の生き方を問い、親になって子を思うとき、これでよかったのだと自分に言い聞かせもした。

 紀州街道を駈けると、忠岡町を一気に過ぎてしまいそうだが、この街道の西側に正木美術館
がある。正木氏は忠岡町の素封家で、禅宗文化に惹かれ 室町時代の水墨画や茶道具などを収集した。収蔵品は彫刻・陶磁器・墨跡などの古美術品約1,200点で、その中には"小野道風 筆三体白氏詩巻"など国宝3点と重要文化財12点が含まれる。
 道の旅人は、源氏の血をひく足利時代の古美術品が収集されているのも、この町にふさわしいと思いながら、源平の町を後にする。