りんくうタウン

 


 
見出川を渡り泉佐野市に入るが、その鶴原に道標があるー『右大川あわしま 左紀州わか山』。“あわしま”とは和歌山市加太の淡島神社のこと。
 つまり左に行けば、紀州街道は熊野街道と合流することになり、右の“孝子・大川越え”に入る。そこでふしぎな光景を目にする。レンガ造りの廃墟が目に飛び込んでくる。でもそれは、自然に映える中世イギリスの白い壁と黒い枠組みの伝統的な建築様式「ハーフティンバー」の美しさを、鉄骨鉄筋コンクリート造りで再現していたのだ。
 そしてまもなく、“ショッパーズモール泉佐野”(営業時間は通常10:00より)に出くわす。

 

 和泉といふところへ行きたる男のもとより「佐野浦といふ所なむ、ここにありけりと聞きたりや」と言ひたるに

 

いつみてか告げずば知らむ東路と聞きこそわたれ佐野の船橋

(和泉にあると云うのなら、あの東路の恋を成就するように、どうか佐野の舟橋を渡ってください)                     『和泉式部続集』

 

“和泉といふところへ行きたる男”というのは、和泉式部(978~没年不詳)の最初の夫、橘道貞(生年不詳~1016)のことである。和泉守になって和泉国に下向した道貞が佐野(泉佐野)という地名を聞き、「あなたの言っていた佐野浦という所が和泉国にあるよ」と都にいる和泉式部に知らせてきた、その返し歌である。

                       (樋口百合子『歌枕・泉州』)

             

 上野(かみつけ)の佐野の船橋とりはなし親はさくれど我(あ)はさかるがへ
                            【万葉集3420】

 

 本歌である“上野の佐野”は、群馬県高崎市にある地名である。“船橋”とは、舟をたくさん浮かべて橋の代わりにしていたことを言う。
 このように“佐野の船橋”は、悲恋伝説を含んだ歌物語だが、このことがふたりの間で話題になったことがあったのかもしれない。その佐野の地(泉佐野市)への誘いの手紙が届いたけれど、和泉式部は、生まれたばかりの小式部を抱え、逆にわたし達に逢いに来て下さいよと言い返したのかもしれない。

それにしても、その名の由来となった和泉式部に出逢いたいものであるが、その佇まいをイメージさせる個所が、マーブルビーチにあった。

 

ところで時代も遡り、三条西実隆(1455~1537)の『逍遥院殿高野参詣日記』に、佐野の市場のにぎわいが詠われている。

いつみなる

    さのの市人たち騒ぎ
           このわたりには  家もありけり

                   (三条西実隆『逍遙院殿高野参詣日記』)

 

“高野参詣”なら紀州街道ではなく、ひょっとしたら熊野街道沿いかとも思うが、人通りや家並みに、ホッとしたひと時だったのかもしれない。

さらに貝原益軒(1630~1714)の「南遊紀行」には、「佐野市場は貝塚より十一里余。民家千軒ありと云う。富商多し。民家皆瓦葺‥‥‥商人多く船を持ちて家業とす。其中に船を多く持たる大富商あり」とある。

 

その同じころ、井原西鶴(1642~1693)が『日本永代蔵』(1688)に書き記していることがある。


近代泉州に唐金(からかね)屋とて、金銀に有徳(うとく)なる人出来ぬ。世渡る大船を造りて、その名を神通丸とて、三千七百石積みても足軽く、北国の海を自在に乗りて、難波の入り湊に八木(はちぼくー“米”のこと)の商売をして、次第に家栄えけるは、諸事につきて、その身調義のよきゆゑぞかし。 (井原西鶴『日本永代蔵』)

 

食野宅址 この唐金も、食(めし)一族である。このように、“海に生きた人々”は、諸大名の財政まで関与

するようになった。
 ざれ歌に、「紀州の殿さんなんで佐野こわい、
佐野の食野に借りがある」と唄われました。

 豪商食野・唐金は、廻船業(かいせんぎょう)を営むとともに(運輸業)、佐野・大阪・江戸に数多くの屋敷・蔵・店を所持し(商業)、これらによって得られた巨万の富を活用した、大名貸し(金融業)なども営み、これらを組み合わせた事業ネットワークを全国展開し、さらなる富を築き

ました。
 ここ佐野には、“いろは四十八蔵”と呼ばれるほど、多くの蔵が海岸線に建ち並んでいたと云われ
ています。

 これが長者伝説となって、アーケードのつばさ

商店街では幟が立ち並んでいるんよ。

 

なお、大阪市西区堀江一帯は、ほぼすべて両家とその一族の所有地となり、天保12年の古地図によると、汐見橋は「唐金橋」と呼ばれていたんよ。


しかも現在の、堀江の立花通りは、唐金家の屋号「橘」にちなんで「オレンジストリート」と名づけられ、多くの若者でにぎわうおしゃれな街となっているんだ。

一方“市の名前、売ります”の、泉佐野市では、海に生きる人達が息づいていた。
その“海に生きる”像を見ていると、掛け声が聞こえてきそうだ。廻船問屋たちの豪商たちが名を馳せた町だが、海を暮らしに立ててた人たちの活気はそれ以上だと思う。
そして今、この市に新しい町が誕生した。

太鼓橋から見た“りんくうゲートタワービル” 四季の泉より見た”りんくうゲートタワービル”

 

りんくうタウン”である。ゲートタワービルが“旅の塔”のように聳え立つ。左の画像は、海の遣いが、“里親”を捜すためにこの太鼓橋を渡っていくイメージを抱かせる。右の画像は、“四季の泉”のオブジェで、左から夏至、春分・秋分、冬至の太陽の軌道を示している。
この街は海と空が融合されている。海がきれいであるためには、空が美しくなければならない。道の旅人は、海を汚すな、空を汚すなとおもい、道を汚すな、町を汚すなと思う。

そして、遠くに見える山も、川でつながっているのだ。