《大和橋》

 

   

 

大阪平野を容どっているのは、今も昔も淀川と大和川である。

しかし、この大和川が現在の形になるには、治水の恩人と呼ばれる今米村(東大阪市今米)の中甚兵衛翁(1639~1730)を待たねばならなかった。

 

かつての大和川は、柏原村において、南から流れてくる石川と合流し、ここから西北へ折れ、久宝寺川(長瀬川)と玉串川(玉櫛川)に分かれ、各川や池と合流しながら最後はそれぞれ淀川へと注いでいたんだ。
そんな大和川が流れていた河内平野は、川が運ぶ肥沃な土砂のおがけで、古代から田畑が開かれ、人々が生活を営んでいた一方で、常に洪水の危険がつきまとっていたんよ。

 

 

そこで赤穂浪士討ち入りの翌年、元禄十六年(1703)から付け替え工事が始まり、宝永元年(1704)に大和川は、柏原市国分付近で西へ流れ、堺市で大阪湾に注ぐ新大和川になったわけである。

それでも、大和川の破堤と淀川の破堤が重なることもあり、この型の洪水では、近年でも死者が出ているほどで、ひどい時には枚方・大東・東大阪は言うに及ばず、大阪市から堺まで泥海になったという。

 

とは言っても、付け替えのおかげで河内での洪水の発生が抑えられたのは確かで、その一方、川から流れる土砂によって海岸の美観が損なわれ、あれだけ繁栄を極めた堺の港も、船の入港が困難になり始めた。

 こうしてできた新大和川に架けられた橋が、大和橋であり、明治になるまで大和川にかかっていた橋はこの橋だけで、公儀橋のひとつであった。

 

ところがこの橋は、神がお渡りになる橋でもあったのだ。

と言うのも住吉大社の夏まつりのとき、堺の宿院(お旅所)に向かうのに、この橋の上で引き継ぎが行われていた。

 

しかし平成16年(2004)の『大和川付け替え300周年記念事業』で、約45年ぶりに御神輿のお渡りが復活したんよ。

住吉っさんの「べーら」の掛け声が、大阪の夏祭りの最後を惜しむかのように大和川の河中を、右往左往しながら、堺へ引き継ぐ姿は、見守るものにも活力が湧いてくるんだ。

   
お正月の済んでしまつた頃から、私等はもうお祓(はらひ)が幾月と幾日(いくか)すれば来ると云ふことを、数へるのを忘れませんでした。お祓の帯、お祓の着物と云ふことは、呉服屋が来て一家の人々の前に着物を拡(ひろ)げます度に、私等姉妹(きやうだい)に由(よ)つてさゝやかれました。

大祓祭(おほはらひまつり)は摂津(せつつ)の住吉(すみよし)神社の神事の一つであることは、云ふまでもありませんが、その神輿(みこし)の渡御(とぎよ)が堺(さかひ)のお旅所(たびしよ)へ入る八月一日の前日の、七月三十一日には、和泉(いづみ)の鳳村(おほとりむら)にある大鳥(おほとり)神社の神輿の渡御が、やはり堺のお旅所へ入りますから、誰もお祓と云ふことを、この二日にかけて云ふのです。
                         (与謝野晶子『私の生ひ立ち』) 

しかし、このことを引き出すために、“晶子の生い立ち”を引き合いにだしたのではない。

この夏祭の章の最後に、気になる言葉が書かれていたのだ。

私は刻々不安が募つて行きます。それは今日に変る明日の淋しい日の影が目に見えるからです。

晶子が幾つぐらいの時のことを綴ったのか定かではないが、その幼少の頃というのは、決して幸せな日々ではなかったようだ。

しかしこの時期があったからこそ、晶子は自分の旅へ足を踏み入れることが出来たのである。

さて旧暦六月の晦日、堺のお旅所(宿院)へ行ってはった住吉の神さんが、夜になって住吉へ帰らはります。神輿は堺の人々にかつがられて、大和橋の北詰めまで送られてきまんねん。数百の人々が手に手に松明を持って大和橋を渡る。

この火が、西は西宮、兵庫、明石までも、南は泉州の海岸からも見られ、これを目標にしておがんだものやそうでおます。

 

このとき、橋の北詰めでは大阪の人々が提灯を持って出迎えるのだが、その際、松明から待ちうけていた提灯へと火が替わるので、これを「住吉の火替」と言う。
                        (露の五郎『なにわ橋づくし』)

今、この橋から西の方角を見てみると、南海本線の鉄橋が架かっていて、さらにその上を阪
神高速の堺線が走っている。

つまり、まるっきり視野が遮られていて、湾岸の西の陸は見えないし、南の海岸線も見ることができない。


海を見たさに、大和川沿いに西へ下ってみよう。
大和川大橋があり、阪堺大橋を越え、ジョギングコースにもなっている長い土手をさらに下って
いくと、これが河口だという広がりが見えてくる。


そこまで来てやっとほっとするのだ。

見晴らしがよかった万葉時代の人々は、海や山を歌って自然から気をもらっていた。

 

わたし達も自然に触れることによって、自分の弱まっていた気を高めることができる。

旧街道を駈けていく“道の旅人”にとっても、そんなところから元気をもらえることが愉しみのひ
とつなのだ。