顯家の菩提(太陽橋)

 

堺市西区 堺市西区

 

神社にはときどき、”式内社”という文字を目にすることがあります。

式内社とは、延喜5年(905)から二十二年間かかってつくられた延喜式に、名前が書かれて
いる神社のことです。
それだけ古くから、有名であると言う証(あかし)なのです。
石津太(いわつた)神社も式内社で、毎年12月14日に、「やっさいほっさい」の火祭りが行われます。
                                          

やっさいほっさい

 伊奘諾命(いざなぎのみこと)・伊奘册命(いざなみのみこと)が夫婦 となり、蛭子命(ひるこのみこと)を お生みになられた。

 その命(みこと)、三才に成られても  尚、立ち給ふこと能はざ りし。

 

  そこで、天磐樟船(あまのいわくすぶ ね)に乗せて、順風に放ち棄て給ひし。

  船は、波に従い、飄々として海岸に漂着したまふ。

 

  命(みこと)は、其の携へ来りし五色の神石を、ここに置き給へば此の地 を石津といふ。

  其 の船の着きし所を、“石津の磐山”と いふ。

この蛭子命が“えべっさん”のことで、百八束の柴をつみかさねて燃やし、「やっさいほっさい」の掛け声とともに、神人を担いで火の中に飛び込む。

と言うのも、浜の漁師たちが篝火を焚いて、蛭子命の身体をあたためた故事に由来するのだ。


今し鴎むれ居てあそぶ所あり。京のちかづくよろこびのあまりにある童のよめる歌、 「いのりくる風間と思ふをあやなくに,鴎さへだになみと見ゆらむ」といひて行く間に、石津といふ所の松原おもしろくて浜辺遠し。  (紀貫之「土佐日記」)

土佐(高知)から阿波(徳島)、淡路を経て岬町へ寄港するのが、当時もっとも安全で最短のコースであった。

そして貫之は、泉州の海岸線を眺めながら難波へ入り、渡辺津から京へのぼったのである。


道の旅人は、貫之とは逆のコースを陸路でとることになる。

その神社からほんの少し南に駈ければ、石津川が流れている。

その上にかかる橋が太陽橋で、その南詰に、北畠顕家の奮戦地塚があるのだ。

 

北畠顯家の奮戦塚
北畠顯家の奮戦塚
 

顕家卿の官軍共、疲れてしかも小勢なれば、身命を棄てて支へ戦ふといへども、軍(いくさ)利無くして諸卒散りぢりに成りしかば、顕家卿、立つ足もなく成りたまひて、吉野へ参らんと志し、わづか二十余騎にて、大敵の囲みを出でんと、みづから利(と)きを破り、固きを砕きたまふといへども、その戦功いたづらにして、五月二十二日和泉の堺安部野にて討死したまひければ、相従ふ兵悉く腹切り傷を蒙って、一人も残らず失せにけり。

 

哀れなるかな顕家卿は、武略智謀その家にあらずといへども、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じ奥州の大軍を両度まで起して、尊氏卿を九州の遠境に追ひ下し、君の震襟を快く休め奉られしその誉れ、天下の官軍に先立ちて争ふ輩無かりしに、聖運天に叶はず、武徳時至りぬるそのいはれにや、股肱の重臣あへなく戦場の草の露と消えたまひしかば、南都の侍臣・官軍も、聞きて力をぞ失ひける太平記巻第十九」


その覚悟の一週間前、顯家は後醍醐天皇に上奏文を書いていた。
その原文はおごそかな漢文調で、香気と至誠あふるる名文であるが、『花将軍 北畠顯家』(横山高治)の中に、大西源一氏の『北畠氏の研究』からの解読文が引用されていた。
 
Ⅰ九州および東北に有為の人材を派遣して皇化を布き、山陽と北陸に藩鎮を置いて非常
 の変に備えらるべきこと。
Ⅱ仁徳・醍醐両天皇の聖蹟に習って、三年の間、諸国の租税を免じて民の肩を憩わし
 め、倹約を専らにし、一切の新事業を停止し、贅沢をやめていただきたい。
Ⅲ官吏の登用および恩賞は慎重にせられ、徳行なく勲功なくしてみだりに高官高位をお
 かすが如きは以ての外である。
Ⅳ王化に染まない辺境の士卒にして、忠をおもい節に死する者が多いに関わらず、まだ
 聖恩がこれらの無名戦士に及ばぬことは、政道の一失である。
Ⅴ庶民が塗炭の苦しみに際会しているから、人民の苦労を増すような“臨時の行幸”や遊
 行宴飲は国を乱す基となるから先聖はこれを禁じ、古典はこれを諫めている。
Ⅵ法令はつとめて厳粛にし、朝に令して夕にあらたむる如き無定見では法の尊厳などな
 く、その改廃は特に慎重にせられたい。
Ⅶ公家・官女および僧侶らのうちにも機務になし、朝廷の政事を冒涜するが如き輩が居
 り、政道に有益でない愚直を除かせられるべきこと。
陛下もし臣の諫言をお用いにならぬならば、恐れながら御代の太平は決して望まれないでござりましょう。
 
これが弱冠21歳で戦死した若き将軍の、七カ条の上奏文である。
これに全て、“建武の新政”の問題点が込められていると言うべきであろう。
実は、大阪市阿倍野区の北畠公園内に、顯家の墓がもう一つある。
それは熊野街道の東側にあり、さらにこの紀州街道(阿倍野区)沿いには顯家の像が、阿部野神社に祀られている。
いずれ顯家の物語は、道の旅人によってもう一度語られることになろう。