倭建命と出雲振根

23:夜都米佐須(やつめさす)伊豆毛多祁流賀(いづもたけるが)波祁流多知(はけるたち)都豆良佐波麻岐(つづらさはまき)佐味那志爾(さみなしにトハ)阿波禮(あはれ) 

                               倭建命『古事記 景行』

 

 第12代景行天皇の皇子倭建命は、密かに赤檮(イチイ)の木で木刀を作って偽の佩刀とし、出雲建と肥河(斐伊川)で水浴した際、先に川から上がって出雲建の刀を身に着けて刀の交換を提案した。

果たして、遅れて川から上がった出雲建は偽の刀を身につけたが、刀を抜くことが出来ず、倭建命に討たれ、倭建命は上記の歌を詠んだという。

 

《記において》

【夜】[音]ヤ(呉)(漢)[訓]よ・よる

【都】[音]ツ(呉)ト(漢)[訓]みやこ

『米』の字には少なくとも、米(メートル)・ 米(メ)・ 米(マイ)・ 米(ベイ)・ 米(よね)・ 米(こめ)の6種の読み方が存在する。

【佐】[音]サ(呉)(漢)[訓]たすける・すけ

【須】[音]ス(呉)シュ(漢)[訓]すべからく

【伊】[音]イ(呉)(漢)

『豆』の字には少なくとも、豆(トウ)・ 豆(ズ)・ 豆(シュウ)・ 豆(シュ)・ 豆(まめ)・ 豆(たかつき)の6種の読み方が存在する。

『毛』の字には少なくとも、毛(モウ)・ 毛(ボウ)・ 毛(ブ)・ 毛(け)の4種の読み方が存在する。

【多】[音]タ(呉)(漢)[訓]おおい

『祁』の字には少なくとも、祁(チ)・ 祁(ジ)・ 祁(シ)・ 祁(ケ)・ 祁(ギ)・ 祁(キ)・ 祁んに(さかんに)・ 祁きい(おおきい)・ 祁いに(おおいに)の9種の読み方が存在する。

【流】[音]ル(呉)リュウ(リウ)(漢)[訓]ながれる・ながす

【賀】[音]ガ(呉)

【波】[音]ハ(呉)(漢)[訓]なみ

【知】[音]チ(呉)(漢)[訓]しる

【良】[音]ロウ(ラウ)(呉)リョウ(リャウ)(漢)[訓]よい

[参考]「良」の二画目までが片仮名の「ラ」に、草書体が平仮名の「ら」になった。

【麻】[音]マ(慣)[訓]あさ・お

【岐】[音]ギ(呉)キ(漢)[訓]ちまた・わかれる

【味】[音]ミ(呉)ビ(漢)[訓]あじ・あじわう

【那】[音]ナ(呉)[訓]なんぞ・どれ・どの

【志】[音]シ(呉)(漢)[訓]こころざす・こころざし・しるす・さかん

【爾】[音]ニ(呉)ジ(漢)[訓]なんじ・それ・その

【阿】[音]ア(呉)(漢)[訓]くま・おもねる・お

【礼〔禮〕】ライ(呉)[音]レイ(漢)[訓]いや・うや

 

「事記の歌謡は、その時に詠ったヤマトタケルの歌なのだが、書紀の景行紀にはなく、崇神紀に載っている」

「たしか、出雲振根(いずものふるね)を歌ったものですね」

 

振根は筑紫(ちくし)から帰ってきて、神宝を朝廷に差出したということを聞いて、弟の飯入根(イイイリネ)を責め、「数日待つべきであった。何を恐れてたやすく神宝を渡したのか」と言った。

何年か経っても、恨みと怒りは去らず、弟を殺そうと思い、 それで弟を欺いて、 「この頃、止屋(やむや)の淵に水草が生い茂っている。一緒に行って見て欲しい」 と言い、弟は兄について行った。

そして、兄は密かに木刀を造っていたが、 形は本当の太刀に似ており、 それを自分で差していたのだが、 弟は本物の刀を差しており、 淵のそばに行って兄が弟に言ったー「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しようか」

弟は兄に従い、それぞれ差していた刀を外して、淵の端に置き、水に入ったが、 兄は先に陸にあがって、弟の本物の刀を取って自分に差した。

後からあがった弟は、驚いて兄の木刀を取って、 互いに斬り合うことになったが、弟は木刀で抜くことができず、兄は弟の飯入根を斬り殺した。

 当時の人は歌に詠んで言った。

 

椰句毛多菟(やくもたつ)伊頭毛多鶏流餓(いづもたけるが)波鶏流多知(はけるたち) 菟頭邏佐波磨枳(つづらさはまき)佐微那辭珥(さヲみなしにモ)阿波禮(あはれ) 

                           (出雲振根)『日本書紀 崇神』

 

名称の「イズモタケル」は、ヤマトタケル(倭建)やクマソタケル(熊曾建)と同様に、「(地名)+勇猛な人」の意になり、この場合、飯入根になる。

 

《紀において》

【椰】[音]ヤ(呉)(漢)[訓]やし

【句】[音]ク(呉)(漢)

『毛』の字には少なくとも、毛(モウ)・ 毛(ボウ)・ 毛(ブ)・ 毛(け)の4種の読み方が存在する。

[参考]「毛」の終わり三画が片仮名の「モ」に、草書体が平仮名の「も」になった。

【多】[音]タ(呉)(漢)[訓]おおい

『菟』の字には少なくとも、菟(ト)・ 菟(うさぎ)の2種の読み方が存在する。

【伊】[音]イ(呉)(漢)

【頭】[音]ズ(ヅ)(呉)トウ(漢)ト(慣)ジュウ(ヂュウ)(唐)

・鶏:[音]ケイ(呉)(漢)

・流:[音]ル(呉)リュウ(リウ)(漢)

【餓】[音]ガ(呉)(漢)[訓]うえる・かつえる

・波:[音]ハ(呉)(漢)

・知:[音]チ(呉)(漢)

・邏:[音]ラ(呉)(漢)

・佐:[音]サ(呉)(漢)

・磨:[音]マ(呉)

『枳』の字には少なくとも、枳シ・ 枳ギ・ 枳キ・ 枳からたちの4種の読み方が存在する。

・微:[音]ミ(呉)ビ(漢)

・那:[音]ナ(呉)

・辭:[音]ジ(呉)シ(モジナビ)

『珥』の字には少なくとも、珥(ニョウ)・ 珥(ニ)・ 珥(ジョウ)・ 珥(ジ)・ 珥(みみだま)・ 珥む(さしはさむ)の6種の読み方が存在する。・珥:[音]ニ(呉)ジ(漢)ル(宋)

 

 

実はこの崇神天皇は、『日本書紀』での名は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりびこいにえ)天皇であり、祭祀・軍事・内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国(はつくにしらす)天皇と誉め讃えられ、実在した可能性のある最初の天皇と言われている。

 

「わたしには、古事記の歌にはすんなりイメージが浮かびますが、書紀の歌謡には、今までの説明がなかったならたどたどしく思われますが・・・」

「つまり、【菟】が月の異名であることを承知してもらえるなら、1句目は(やくもたつ)でいいわけだけど、どうせなら、【夜句茂多兔】にすればよいと思うのだが・・・

「まさか、ここでも前回のように、【夜・椰】論争が起きたというわけではないでしょうね」

「もとは邪馬台国論争からなんだけど、漢学者としては、曲げても【耶】(や)にしたかったと思うよ」

「ところが、遣唐使たちは承知せず、【耶】にもならず、【椰】に落ち着いたというわけですね」

「2句目以降はは、異字あったにしても、同音であるから説明はいらないだろう」

 

「しかし5句目は、事記では【佐味那志爾】、書紀では【佐微那辭珥】の5字というのはどうしてですか?そのあとはどちらも、【阿波禮】をつけていますが・・・」

「阿礼は、今思えば、(さみなしに)とは・・・(あはれ)と続けたように思える」

「え、どういうことですか?【阿波禮】は、ただ単に、阿礼の感嘆詞というわけですか?」

「まして(トハ)は、歌謡の一部だとは思わなかったからなぁ」

「(トハ)の漢字付け足すのは難しいけれど、【所謂】でしょうが、(いわゆる)と読んでしまいますね」

「しかし(とは)であるなら、漢語で表すのがルールであろう}

 

「いわゆる~」という日本語があるが、実は漢文でもこの「所謂」は多用されている。

 

ちなみに、【所】[音]ショ(呉)[訓]ところ

『謂』の字には少なくとも、謂(イ)・ 謂れ(いわれ)・ 謂(いい)・ 謂う(いう)の4種の読み方が存在する。

 

「つまり阿礼は、古事記の歌謡において、(つづらさはまき)(さみなしにトハ)と詠みきり、(あはれ)と言ったのである」

 

つづら【葛・黒葛】:つる草の総称。

さ-は 【然は】:そうは。そのようには。

【小】[音]ショウ(セウ)(呉)(漢)[訓]ちいさい・こ・お・さ

【身】[音]シン(呉)(漢)[訓]み・みずから

さみ【小身】:なかみ。物の本体ということで、「刀身」を指す

 

即ち、「つづらのように巻きこでいるけれど、刀ではないのに」として、うがった見方をすれば、ここで阿礼は自分の名を入れたことになるのだが、安万侶はそのことはさておき、話をつづけた。

 

「その歌謡を日本書紀は踏襲したけれど、倭健以前の崇神の時代に戻して、出雲統一を史実にしたかったのだ」

 

【後日談】

【『古事記』では(やつめさす)が出雲にかかる枕詞だが、それに対応する『日本書紀』の(やくもたつ)は、同じ枕詞でも、出雲を讃えているように思える。

さらに、「阿波禮(アワレ)!」と、言い放った意味合いは天晴(アマハレ)で、心地良い神への祈りなのである】

 

ただ識るべきは、『古事記』では、景行時代のヤマトタケルの話にもかかわらず、『日本書紀』は崇神時代の挿入歌にしていることだ。

 

やつめさす いづもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにトハ

やくもたつ いづもたけるが はけるたち つづらさはまき さみなしにトハ

 

即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。

すると倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した折も折、天皇の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。

 

『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神(すくなびこなのかみ)が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我(大物主神)を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終え、この山が三輪山(奈良県桜井市)とされる。

『日本書紀』の異伝では、大物主は大国主の別名としており、大神(おおみわ)神社の由緒では、大国主神が自らの和魂(にきたま)を大物主神として三諸山(三輪山)に祀ったとある。

 

しかも、出雲大社の祭神が国主大神であれば、出雲→大国主神=大物主神→大和へつながっていくのだ。

 

出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建されたものであるにもかかわらず、崇神初期の時代に大国主でない大物主を出現させ大和国に祀り、その晩期において、これで意図的に出雲国を平らげたことにした。