宇治天皇と仁徳天皇

《記において》

そして水中に沈んでしまった。 鉤(かぎ)でその沈んだ所を探ると、その衣の下の鎧にひっかかってカラカラと鳴った。

そこで、そこを名づけて「訶和羅(かわら)の前(さき)」という。

遺骸を鉤にかけて引き上げたとき、弟皇子の宇遅能和紀(うじのわき)が歌った。

 

知波夜比登 宇遲能和多理邇 和多理是邇 多弖流 阿豆佐由美麻由美 伊岐良牟登 許許呂波母閇杼 伊斗良牟登 許許呂波母閇杼 母登幣波 岐美袁淤母比傳 須惠幣波 伊毛袁淤母比傳 伊良那祁久 曾許爾淤母比傳 加那志祁久 許許爾淤母比傳 伊岐良受曾久流 阿豆佐由美麻由美 【古事記歌謡51】 

 

《紀において》

しかし、伏兵が沢山いて、岸に着くことができなかった。

そして、ついに水死された。

この屍(かばね)を探すと、考羅済(かわらのわたり)(京都・河原)に浮かんだ。

太子は屍を見られて、歌を詠んだ。

 

智破揶臂等 于旎能和多利珥 和多利涅珥 多氐屢 阿豆瑳由瀰摩由彌 伊枳羅牟苔 虛々呂破望閉耐 伊斗羅牟苔 虛々呂破望閉耐 望苔弊破 枳瀰烏於望臂涅 須慧弊破 伊暮烏於望比涅 伊羅那鶏區 曾虛珥於望比 伽那志鶏區 虛々珥於望臂 伊枳羅儒層區屢 阿豆瑳由瀰摩由瀰    【日本書紀歌謡43】

 

記紀歌謡を5・7調に手直しする

 《記において》

【是】[音]ゼ(呉)[訓]これ・この

『弖』の字には少なくとも、弖(て)の1種の読み方が存在する。

『流』の字には少なくとも、流(ル)・ 流(リュウ)・ 流れる(ながれる)・ 流す(ながす)の4種の読み方が存在する。

『麻』の字には少なくとも、麻(マ)・ 麻(バ)・ 麻れる(しびれる)・ 麻(あさ)の4種の読み方が存在する。

【良】[音]ロウ(ラウ)(呉)リョウ(リャウ)(漢)[訓]よい ・いや

『傳』の字には少なくとも、傳(デン)・ 傳(テン)・ 傳(つて)・ 傳わる(つたわる)・ 傳える(つたえる)・ 傳う(つたう)の6種の読み方が存在する。

『受』の字には少なくとも、受(トウ)・ 受(ズ)・ 受(ジュ)・ 受(シュウ)・ 受ける(うける)・ 受かる(うかる)の6種の読み方が存在する。

【曽〔曾〕】[音]ゾ(呉)ソウ(漢)[訓]かつて・すなわち

『久』の字には少なくとも、久(ク)・ 久(キュウ)・ 久しい(ひさしい)の3種の読み方が存在する。

 

知波夜比登 宇遲能和多理邇 和多理是邇 [多弖流阿豆佐(たてるあづさノ)](アヅサ由美)(アヅサノ)麻由美 伊岐良牟登 許許呂波母閇杼 伊斗良牟登 許許呂波母閇杼 母登幣波(もとノへは) 岐美袁淤母比傳 須惠幣波(すゑノへは) 伊毛袁淤母比傳 伊良那祁久(いやなけく) 曾許爾淤母比傳 加那志祁久 許許爾淤母比傳 伊岐良受曾 久流阿豆佐由美(アヅサノ)麻由美

 

《紀において》

 『涅』の字には少なくとも、涅(ネツ)・ 涅(ネチ)・ 涅(ネ)・ 涅(デツ)・ 涅(ゲン)・ 涅(ケン)・ 涅める(そめる)・ 涅(くろつち)・ 涅める(くろめる)・ 涅(くろ)の10種の読み方が存在する。

【氐】[音]テイ・タイ[訓]いたる・ひくい。

『屢』の字には少なくとも、屢(ル)・ 屢(しばしば)の2種の読み方が存在する。

『瀰』の字には少なくとも、瀰(メイ)・ 瀰(ミ)・ 瀰(ベイ)・ 瀰(ビ)・ 瀰(ナイ)・ 瀰(デイ)・ 瀰い(ひろい)・ 瀰る(はびこる)の8種の読み方が存在する。

『耐』の字には少なくとも、耐(ノウ)・ 耐(ニ)・ 耐(ナイ)・ 耐(ドウ)・ 耐(ダイ)・ 耐(タイ)・ 耐(ジ)・ 耐える(たえる)の8種の読み方が存在する。

【儒】[音]ジュ(漢)

【層】[音]ソウ(漢)

【区〔區〕】[音]ク(呉)(漢)[訓]まち 『望』の字には少なくとも、望(モウ)・ 望(ボウ)・ 望(もち)・ 望む(のぞむ)・ 望む(うらむ)の5種の読み方が存在する。

 

智破揶臂等 于旎能和多利珥 和多利涅珥 多氐屢阿豆瑳(ノ) (アヅサ)由瀰 アヅサノ)摩由彌 伊枳羅牟苔 虛々呂破望閉耐 伊斗羅牟苔 虛々呂破望閉耐 望苔(ノ)弊破 枳瀰烏於望臂涅 須慧(ノ)弊破 伊暮烏於望比涅 伊羅那鶏區 曾虛珥於望比(テ) 伽那志鶏區 虛々珥於望臂(テ) 伊枳羅儒層 區屢阿豆瑳由瀰 (アヅサノ)摩由瀰  

 

《記紀歌謡の用語》

 ちはや 【襷・褌・千早】:たすき。もと、巫女(みこ)の用いたものをいった。

わたり‐ぜ【渡り瀬】:徒歩で渡ることのできる浅瀬。

わたり‐で【渡り手】:「渡り瀬」に同じ。

ゆみ【弓】:矢を射るもの。

あづさ 【梓】:①木の名で、硬い木なので弓の材とした。②「梓弓(あづさゆみ)」の略。

ま-ゆみ【檀】木の名で、強靫(きようじん)な幹を弓の材料とするところからこの名がある。

い‐き・る【射切る】: 矢を射尽くす。

ら-・む:…ているだろう。…ているような。

い-と・る 【い捕る】:捕らえる。

もと【本・元】:はじめ。起こり。起源。

すゑ 【末】:結果。果て

きゅう‐りゅう【急流】:川などの速い流れ。

いら-な・し 【苛なし】:大げさだ。仰々しい。

 

記紀歌謡を和合する

知波夜比登[智破揶臂等] 宇遲能和多理邇[于旎能和多利珥] 和多理是邇[和多利涅珥] 多弖流阿豆佐ノ[多氐屢阿豆瑳ノ]アヅサ由美[アヅサ由瀰] アヅサノ麻由美[アヅサノ摩由彌] 伊岐良牟登[伊枳羅牟苔] 許許呂波母閇杼[虛々呂破望閉耐] 伊斗良牟登[伊斗羅牟苔] 許許呂波母閇杼[虛々呂破望閉耐] 母登ノ幣波[望苔ノ弊破] 岐美袁淤母比傳[枳瀰烏於望臂涅] 須惠ノ幣波[須慧ノ弊破] 伊毛袁淤母比傳[伊暮烏於望比涅] 伊良那祁久[伊羅那鶏區] 曾許爾淤母比傳[曾虛珥於望比テ] 加那志祁久[伽那志鶏區] 許許爾淤母比傳[虛々珥於望臂テ] 伊岐良受曾[伊枳羅儒層] 久流阿豆佐由美[區屢阿豆瑳由瀰] アヅサノ麻由美[アヅサノ摩由瀰]  

 

「古事記・日本書紀ともに20句になり、合わすことができましたが、付け足しが多すぎますね」 「アヅサには、単なる枕詞以外にも意味があってね、古代、手紙を運ぶ使者は梓の杖を持ち、“玉梓(たまずさ)の使い”とよばれたし、のち玉梓は手紙そのものをさしていうことにもなっただが、それとは関係ないしね」

「あえてこの(あづさ)を繰り返すつもりなら、もっと強烈なイメージが必要でしょう」

「つまり、(アヅサゆみ アヅサノまゆみ)、そして最後の(アズサノまゆみ)なんだよね」

「ところが慣れてくると、このリフレインが美しく感じてくるから不思議だ」

「この(あづさ)にかかわる言葉は、武具のことではなく強兵のことのように思えるんよ」

「なるほど、慌ただしさが見えてきますね」

 

「阿礼は、忠実に誦したのかもしれないが、迂闊にも、勝手に省いてしまったのだ」

「それではほんとうの歌謡は?」

 

(ちはやひと)(うぢのわたりに)(わたりぜに)(たてるあづさの)(あづさゆみ)(あづさのまゆみ)(いきらむと)(こころはもへど)(いとらむと)(こころはもへど)(もとのへは)(きみをおもひて)(すゑのへは)(いもをおもひて)(いらなけく)(そこにおもひて)(かなしけく)(ここにおもひて)

(いきらじぞ)(くるあづさゆみ)(あづさのまゆみ)

 

あのタスキをかけた武者たちが、宇治川のあたりに、潜んでいるかもしれないから、浅瀬に立って、弓矢をもち、射つくすつもりで、捕らえるつもりで追い詰めろ!

もとはと言えば、天皇のことを思い、その果てには、妃のことなども考え、大げさにあれこれ悩み、悲しいことだが、ここに至ったのだ。

すると、「見つけたぞ(死んでいるぞ)!」と、口々に叫びながら兵士たちが集まってきた。

 

 《古事記 応神記にて》

「大山守は、山と海の部を管理しなさい。大雀(おおさざき)は、私の統治する国の政治を執行して奏上しなさい。宇遅能和紀は皇位を継承しなさい」とあるのだ。

ところが宇遅能和紀は早く世を去られた。

それで、大雀が天下を治めた。

 

一方、《日本書紀 応神紀では》

菟道稚郎子を立てて後嗣とされたその日、大山守命を山川林野を司る役目とされた。 大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)は太子の補佐として国事を任せた。

 

大山守皇子を見事打ち取った菟道稚郎子は、天皇になったことを、天下に知らしめたはずであり、『播磨国風土記』には、郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られ、応神天皇が自ら一年前に、継承宣言したばかりなのだから、地方の豪族たちにも周知のことであったように思える。

 

《日本書紀 仁徳紀にて》

太子は宮室(おおみや)を菟道に建ててお住みになったが、位を大鷦鷯尊に譲っておられるので長らく即位されなかった。 皇位は空いたままで三年になった。

「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きをして天下を煩わすのは忍びない」 と言って、ついに自殺をされた。

 

その理由が述べられているー「天下に君として万民を治める者は、 民を覆うこと天の如く、受け入れることは地の如くでなければならない。上に民を喜ぶ心があって国民を使えば、国民は欣然として天下は安らかである。私は弟です。また、そうした過去の記録も見られず、どうして兄を越えて位を継ぎ、天業を統べることができましょうか?」

 

「これって『論語』の写しではないのだろうか?」と思うほどよくできており、これ以後の王仁伝説はいまだよくわからない。

 

それはさておき、「応神十六年春二月、王仁(ワニ)がきた。 太子の菟道稚郎子はこれを師とされ、諸々の典籍を学ばれた。 全てによく通達していた」と、『日本書紀』にあり、まるで『古事記』がその伏線になっているのは確かである。

 

「もし百済に賢人がいたら奉るように」と言った。 そこで勅(みことのり)を受けて献(たてまつ)った人の名は和邇吉師(わにきし)という。 そして、ただちに『論語』を十巻、『千字文』を一巻、合わせて十一巻をこの人に託してすぐに献上した。『古事記』

 

この和邇氏が王仁なのであるが、時代考証は別にして、『古事記』と『日本書紀』を合わせることで辻褄が合うのだが、おそらくその3年間は、郎子が宇治天皇として天下を治めていたと思われる。