古事記(額田王)と日本書紀(中臣大嶋)の考察

撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉

「訓読:帝紀を撰録(せんろく)し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実を定めて、後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ」というのが『古事記 序文』である。

 

先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷

「以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」(『続日本紀』)とあるのが『日本書紀』なのだが、ここには天武以外にも、学者中臣大嶋の想いがあり、その遺志を継ごうとしたのが額田王である。

古事記は、現存する日本最古の書物で歴史書であり、その序によれば、和銅5年(712年)に太安万侶(723逝去)が編纂し、元明天皇に献上されたことで成立する。

また『日本書紀』も、奈良時代に成立した日本の歴史書であり、『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる。

 

太安万侶についての記述は、文武朝の大宝4年(704年)正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵する。

和銅4年(711年)4月に正五位上に昇進し、同年9月に元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、「翌和銅5年(712年)1月に『古事記』として天皇に献上した」とある。

元明朝末の和銅8年(715年)従四位下に至り、 元正朝の霊亀2年(716年)太氏(多氏)の氏長となり、またこの間、養老4年(720年)に完成した『日本書紀』の編纂にも加わったとされ、元正朝末の養老7年(723年)7月6日卒去とあり、最終官位は民部卿従四位下となっている。 

 

ところが、稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっておらず、同時代の『日本書紀』にも、この時代の事を記した『続日本紀』にも記載はない。

『古事記』の序文によれば、天武天皇に舎人として仕えており、28歳のとき、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。

 

この舎人についてだが、天武天皇の673年(白鳳2年)に大舎人寮に仕官希望者を配属させる制度を定めて本格的整備が始まる。

律令制の成立後、公的な舎人制度として内舎人(定員90人)・大舎人(同左右各800人、計1600人)・東宮舎人(同600人、うち30人が帯刀舎人)・中宮舎人(同400人)などが設置された。

原則的に三位以上の公卿の子弟は21歳になると内舎人として出仕し、同様に五位以上の貴族の子弟は中務省での選考の上、容姿・能力ともに優れた者は内舎人となり、それ以外は大舎人・東宮舎人・中宮舎人となった。

大舎人・東宮舎人・中宮舎人の不足分は六位以下の位子(いし)からも補われ、この他に兵衛なども舎人と同じような性格を有した他、令外官(りょうげのかん)的な舎人も存在した。

 

元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦するところを筆録し、『古事記』を編んだとされているのだが、この書の、【姓稗田、名阿禮、年是廿八】の一文を以って、稗田阿礼を額田王と推定するという危険を冒したのには理由がある。

もし阿礼が額田だとしたら、711年当時なら、額田は74歳の高齢であり、勅命を受けたとされる当時(681年:天武10年)においても44歳であれば、安万侶が28歳という年齢を引き出したのは、当時の太安万侶の年齢であるという遊び心だと思われ、すると安万侶の享年は40歳ということになる。

 

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 年七月六日卒之 

養老七年十二月十五日乙巳

 

1979年(昭和54年)1月23日、奈良県立橿原考古学研究所より、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され(北緯34度39分55.0秒 東経135度54分25.0秒)、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したと発表された。

墓誌の銘文は2行41字なのだが、左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等だったこと、養老7年7月6日に歿したことなど記載されている。

 

こうして、安万侶の素性の裏付けは取れたにしても、稗田阿礼については、明らかに緘口令(かんこうれい)が敷かれており、しかも舎人だけでは、それが女性とも男性とも断定できないのだ。

当時それだけの教養を身に着けていたのは、『日本書紀』には天文遁甲をよくする天武自身か、天武の妃であり、万葉歌人の額田王ぐらいしかおらず、その名前を軽々しく持ち出すわけにはいかなかった。

あるいは、本人の申し入れがあったかもしれないが、持統(645-703)・元明天皇(661-721)に対する配慮もあったのかもしれない。 

南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

 

南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王の都する所へは水行十日・陸行一月。官に伊支馬(いきま)があり、次を弥馬升(みましょう)と言い、次を弥馬獲支(みまかくき)と言い、次を奴佳鞮(なかてい)と言う。

 

「正史を目指す『日本紀』(『日本書紀』)には、『魏志倭人伝』のことを記しておかねばならない」と大嶋(693年逝去)は強い信念を持っていた。

 

 「邪馬壹國」と「邪馬臺国」

『邪』の字には少なくとも、邪(ヨ)・ 邪(ヤ)・ 邪(ジャ)・ 邪(シャ)・ 邪(よこしま)の5種の読み方が存在する。

『馬』の字には少なくとも、馬(モ)・ 馬(メ)・ 馬(マ)・ 馬(ボ)・ 馬(バ)・ 馬(ま)・ 馬(うま)の7種の読み方が存在する。

『國』の字には少なくとも、國(コク)・ 國(くに)の2種の読み方が存在する。

『国』の字には少なくとも、国(コク)・ 国(くに)の2種の読み方が存在する。

『壹』の字には少なくとも、壹(イン)・ 壹(イツ)・ 壹(イチ)・ 壹つ(ひとつ)の4種の読み方が存在する。

 『臺』の字には少なくとも、臺(ダイ)・ 臺(タイ)・ 臺(コ)・ 臺(グ)・ 臺(しもべ)・ 臺(うてな)の6種の読み方が存在する。 

 

なお、古田武彦は、三国志などの使用例を鑑みれば、「邪」(神秘的な)、「馬」(家畜のようになついている)、「壹」(二心なく天子に敬意を尽くす)のような好感を持ったニュアンスを含めて漢字を割り当てたと理解できるとしている。

 

ところが三国志より後に編纂された5世紀の後漢書、唐代の梁書、隋書、北史においては壹の字は使われず、【臺・堆】(たい)に変わっているのだ。

 

それでは(やまとこく)にはならず、もう一つ、別の字が必要だった所へ、人麻呂(660-724)が「草冠ですね」と言った。

 

『薹』の字には少なくとも、薹(ダイ)・ 薹(タイ)・ 薹(とう)・ 薹(あぶらな)の4種の読み方が存在する。

邪馬薹国】なら、万葉仮名として(やまとこく)と訓むこともでき、それこそまさに倭訓の話である。

201年 神功皇后摂政元年

 

239年 神功皇后摂政39年 ・卑弥呼、魏に遣使を送る。 

魏志云「明帝景初三年六月 倭女王 遣大夫難斗米等 詣郡 求詣天子朝獻 太守鄧夏 遣吏將送詣京都也」 (訳:魏志によると明帝の景初3年6月、倭の女王は大夫の難升米等を郡(帯方郡)に遣わし天子への朝獻を求め、太守の劉夏は吏將をつけて都に送った)

 

240年 神功皇后摂政40年

魏志云「正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭国也」 (訳:魏志によると正始元年、建中校尉の梯儁らを遺わして倭國に詔書・印綬を与えた)

 

243年神功皇后摂政43年

魏志云「正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻」 (訳:魏志によると正始4年、倭王はまた大夫の伊聲耆・掖邪狗たち8人を遣わして朝貢した)

 

248年 神功皇后摂政48年 ・卑弥呼死去

 

266年 神功皇后摂政66年

是年 晋武帝泰初二年晋起居注云「武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻」 (訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した)

 

269年 神功皇后摂政69年4月、皇后崩御。享年は100歳(『古事記』も同じ)

卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 247年)は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物である。

魏志倭人伝によると、倭人の国は多くの男王が統治していた小国に分かれていたが、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れたが、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定した。

「卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。生涯夫をもたず、政治は弟の補佐によって行なわれた」と記されている。

諱(いみな)も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王と記され、247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢(こうどう)を贈り励ましている。

 

古代の日本で記述された『古事記』『日本書紀』には卑弥呼は登場しないため、日本国内では別の名前で呼ばれていたともいうが、おそらく、伏せられていたのである。

つまり、その卑弥呼という人物が、神功皇后であるからで、しかも、その後継者でもあるという二役、否、本人との三役を早変わりをしていたのである。

  

臺與(台与、とよ)(235年 - 没年不明)、あるいは壹與(壱与、いよ)は、日本の弥生時代3世紀に、『三国志 (歴史書)・魏志倭人伝』中の邪馬台国を都とした倭の女王卑弥呼の宗女(そうじょ)である。

卑弥呼の後継の男王(名は不明)の次に、13歳で女王になり倭をまとめたとされ、魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。

 

神功はこの二役を使い分け、見事にこなしたというべきかもしれないが、【大后息長帶日賣命者、當時歸神】 「皇后である息長帯比売(おきながたらしひめ)は、神がかりになられた」【『古事記』仲哀・神功記】とあり、【時有神、託皇后而誨曰】「時に、神があって皇后に託し神託を垂れる」【『日本書紀』仲哀紀】ともあるからだ。

 

まさに、神功皇后において、卑弥呼における鬼道を暗示しており、(やまと)も表音されることはあっても、【邪馬】が見当たらないのは、【邪】(よこしま)を忌み嫌ったのであろうか?

 

【『万葉集』やまと表音)】:夜麻登・山常・也麻等・夜末等・夜万登・八間跡

【『古事記』やまと表音】:山跡

【『日本書紀』やまと表音】:野麻登・椰麽等・夜麻苔

 

【やまとたけるのみこと 】:倭建命 『古事記』・日本武尊『日本書紀』

 

(倭建は)到能煩野之時(能煩野に着いた時)、思國以歌曰(故郷の大和国を偲んで歌った)場所:尾張国

夜麻登波(やまアとは)久爾能麻本呂婆(くにのまほろば)多多那豆久(たたなづく)阿袁加岐夜麻(あおがきやまに)碁母禮流(こもれるも)夜麻登志(やまとのこころ)宇流波斯(うるはしきかな)(31)

又歌曰(また歌った)、

伊能知能(いのちよく)麻多祁牟比登波(またけむひとは)多多美許母(たたみこも)幣具理能夜麻能(へぐりのやまの)久麻加志賀(くまがしの)波袁宇受爾佐勢(はをうずにさせ)曾能古(かつてよきふる)(32) 此歌者思國歌也(この二首は国思歌である)。

又歌曰(また詠んだ歌がある)、

波斯祁夜斯(はしけやし)和岐幣能迦多用(わきへのかたよ)久毛韋多知久母(くもいたちくも)(33) 此者片歌也(これは片歌である)。

片歌(かたうた)は、記紀歌謡などの古代歌謡の一種で、五七七音の3句(計19音)で構成され、多くは問答体の歌である。【『古事記』景行記】

 

(天皇は)陟野中大石(野中の大石に登って)、憶京都而歌之曰(都を偲んで歌を読まれた)場所:日向国

 

『日本書紀』は、『古事記』では片歌になるであろう、「波辭枳豫辭(はしきよし)和藝幣能伽多由(わぎへのかたゆ)區毛位多知區暮(くもいたちくも)」から始めている。

 

『苔』の字には少なくとも、苔(ダイ)・ 苔(タイ)・ 苔(こけ)の3種の読み方が存在し、『倍』の字には少なくとも、倍(バイ)・ 倍(ハイ)・ 倍す(ます)・ 倍く(そむく)の4種の読み方が存在する。

 

夜摩苔波(やまたいは)區珥能摩倍邏摩(くにのまはらま)多々儺豆久(たたなづく)阿烏伽枳夜摩(あをがきやまに)許莽例屢(こもれるも)夜摩苔之(やまたいへゆく)于屢破試(うるはしきかな)

 

すなわち、ここに(やまたい)が初めて出てきたのであるが、これが(やまと)にならなければ大島の望みは果たせない。

 

異能知能(いのちよく)摩曾祁務比苔破(まそけむひとは)多々瀰許莽(たたみこも)幣愚利能夜摩能(へぐりのやまの)志邏伽之餓(しらかしが)延塢于受珥左勢(えをうずにさせ)許能固(もとのかたまり)【『日本書紀』景行紀】

 

ここで【苔】を(と)として使用したのであるが、【臺】の異体字が【台】だからと言って、草冠をつけても、【薹】とは別物だから(と)にはならないけど、さすが人麻呂であった。

 

『古事記』は、額田王と安万侶の編纂によるものだが、その歌謡は額田に割り当てられたけれど、大嶋の想いを表出することは叶わなかったというのも、大嶋亡きあと、藤原不比等(659-720)が立ちはだかったからである。

しかし、万侶と人麻呂はそのことを知らされており、『日本書紀』において、安万侶は『魏志』について触れ(『日本書紀 神功紀』)、柿本人麻呂(660-724)は、歌謡において、(やまたい)国を記した(『日本書紀 景行紀』)のである。

 

 人麻呂は、額田の歌を以って似て非なるものとして、【苔】(たい)を(と)に化かして、(やまたい)の(やまと)への読み替えを後世に託したのかもしれない。 

かろうじて、『日本書紀 神功紀』に『魏志』を記載してもらうことができたのは、学者大嶋が、史書としての『書紀』を裏付ける必要があったからで「、必死の思いだったに違いない。

しかし、【卑彌呼と壹與】、【邪馬壹國と邪馬臺国】について明らかにしなかったのは、【万世一系の天皇】が崩れるからに他ならないからだが、このことを額田が見届けたかどうかはわからない。