漢皇子と大海人皇子

舒明二年(630)春一月十二日、宝皇女(たからのひめみこ:594-661)を立てて皇后とし、皇后は二男一女をお生みになった。

第一は葛城皇子(かづらきのみこ:626-672)、第二は、間人皇女(はしひとのひめみこ:?-665)、第三は大海皇子(おおあまのみこ:?-686)である。『日本書紀 舒明紀』

 

これだけなら、何も気がかりなことはないのだが、『日本書紀 斉明紀』には、「天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと:宝皇女)は、初めは用明天皇(?-587)の孫高向王(たかむこのおおきみ:生没年不詳)に嫁して、漢皇子(あやのみこ:生没年不詳)をお生みになった」とあるのだ。

 

さらに、「(天武)天皇は初め鏡王(かがみのおおきみ:生没年不詳)の娘、額田姫王(ぬかたのおおきみ:生没年不詳)を召して十市皇女(とおちのひめみこ)をお生みになった」『日本書紀 天武紀下』とある。

 

というのも、『懐風藻』における大友皇子(648-672)・(十市皇女:653?-678)・(池辺王)・葛野王(669-706)・(淡海三船:722-785)について述べるにあたり、どうしても十市(とおち)の父母のことから始めなくてはならないと思ったからである。

 

ところが、万葉歌人として著名な額田王なのだが、『日本書紀』に登場するのは前(さき)の一行だけで、生没年不詳なのだ。

 

さらに、大海人にいたっては、「皇太子は皇極上皇(こうぎょくじょうこう)、間人皇后(はしひとのきさき)、大海人皇子(おおあまのみこ)らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮(あすかかわべのかりみや)にお入りになった」『日本書紀 孝徳紀(653)』が最初の出自である。

 

額田王の生年は不詳であるが、まず孫の葛野王が669年(天智天皇8年)の生まれであることは確実であり、このことから、娘の十市皇女の生年は、648年(大化4年)から653年(白雉4年)頃の間の可能性が高い。

更に遡ると、額田王は631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定されるとしているが、十市皇女653年生、額田王637年生と仮定する。

 

諸史料が示す天智・天武の生年と事件時年齢(数え年)

史料    天智天皇の生年  宝皇女の年齢 天武天皇の生年  乙巳の変   

日本書紀     626年    32歳・     不明     天智20 天武 --

一代要記     619年    25歳・28歳   622年    天智27 天武24

仁寿鏡      614年    20歳・     不明     天智32 天武--

興福寺略年代記 631年     37歳・46歳   640年   天智15 天武6

神皇正統記   614年    20歳・20歳   614年    天智32 天武32

本朝皇胤紹運録  614年    20歳・28歳   622年   天智32 天武24

皇年代略記    614年    20歳・29歳   623年    天智32 天武23

 

『興福寺略年代記』では、宝皇女は高齢出産になるし、『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)では、漢皇子と大海人が双子になってしまうので除外する。

 

乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年に中大兄皇子・中臣鎌足(614-669)らが蘇我入鹿(611?-645)を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変である。

仮に、『日本書紀』の中大兄皇子の生年を信じるなら、間人皇女のあとに大海人を生むことになり、現代ならいざ知らず、宝皇女はこの場合も高齢出産になるのだ。

 

即ち、大海人は中大兄の異父兄の漢皇子であり、その父は、用明天皇の孫である、高向王であると推定するのである。

 

『本朝皇胤紹運録』(1426)によると、高向王(たかむくのおおきみ:生没年不詳)は用明天皇(?-587)の皇子とされており、この場合は聖徳太子の兄弟となるが、太子関連の記録にはその名前は見えないのだけれども、以下が用明天皇の皇子たちである。

 

第一皇子:田目皇子(生没年不詳):母は蘇我石寸名(蘇我稲目の娘)、子に男子一人

    (一説では高向王『史略名称訓義. 上』1879)と佐富女王がいる。

第二皇子:厩戸皇子(574-622):母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(560?-622)であ 

     る。

第三皇子:当麻皇子(576?-不詳):母は葛城広子(葛城磐村の娘)。

第四皇子:来目皇子(576?-603):聖徳太子の同母弟、

第五皇子:殖栗皇子(578?生没年不詳):聖徳太子の同母弟、

第六皇子:茨田皇子(579-643):聖徳太子の同母弟、上宮王家襲撃事件で山背大兄王   

     (?-643)らとともに自害したとされる。

 

田目皇子が最も有力なのだが、なんと、聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(?-622)と再縁になるのだ。

用明天皇が亡くなって殯(587年)に1年を要するとしたら、遅くとも590年には田目皇子と再縁し、結婚してることになる。

その生誕は不明だが、590年だとしたら18才であり、生まれた高向王は聖徳太子の異父弟になるのだ。

 

そしてこの590年誕生の高向王こそ、高向玄理(くろまろ:?-654)であり、遣隋使・小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安や旻らと共に隋へ留学しているのだ。

 

つまり、聖徳太子(574-622)が摂政の折、すなわち、推古天皇(554-628)の時代なのだが、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶため、隋に派遣した朝貢使は、600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されているのだ。

 

600年(推古8年)第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使し 

   た。(『隋書』俀國伝)

607年(推古15年) - 608年(推古16年)第2回遣隋使、小野妹子らを遣わし、「日出処の天

   子……」の国書を持参したのだが、小野妹子は、裴世清らとともに住吉津に着き、帰国す

   る。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)

 608年(推古16年) - 609年(推古17年)第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成など隋に遣わさ

   れ、この時、学生として倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明

  (ならのおさえみょう)高向漢人玄理(たかむくのあやひとくろまろ)・新漢人大圀(いま

  きのあやひとだいこく)・学問僧として僧旻・南淵請安・志賀漢人慧隠(しがのあやひとえ

  おん)ら8人、隋へ留学する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)

610年(推古18年) - ? 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)

614年(推古22年) - 615年(推古23年)第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わ

   す。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)

 618年(推古26年)隋滅ぶ。

 

高向が隋の国へ向かったのが、『書紀』通りの608年(高向18・宝14)ではなく、『随書』の610年だとしたら、高向20・宝16の似合いのカップルであり、当時の適齢期かどうかはわからないが、漢皇子が生まれていても不思議ではない。

 

 なお、宝皇女が田村皇子(593-641)と再縁し、葛城皇子(中大兄)を生むのが626年としているので、漢皇子と中大兄の年齢差は16歳にもなるのだが、その間、どこに潜伏していたのであろう?

 

実は、宝皇女は隋に追われた漢王族の血筋をひいており、聖徳太子の妃として渡来してきたのを、茅渟王の養女として育てられたのだ。

ところが、推古天皇の長女である菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ、生没年未詳)が、太子の妃となったため、高向王に嫁ぐことになった経緯があるのだ。

 

つまり、高向王と宝皇女の婚姻には、漢皇子の異父兄にあたる聖徳太子だけでなく、推古天皇にもかかわりがあり、この二人の保護のもとに、漢皇子もまた茅渟王のもとで育てられたと思う。

 

茅渟王(ちぬのおおきみ / ちぬのみこ、生没年不詳)のWikipediaには、「押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の第一皇子)の王子で、母は漢王の妹の大俣王(おおまたのみこ)とあり、異母弟には舒明天皇がおり、桜井皇子(推古天皇の同母弟)の女の吉備姫王(吉備島皇祖母命)を妃として、宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)を儲けた」とある。

 

それでは漢皇子から大海人皇子への変換はどのようにして行われたのか、そこを探る必要があるのだが、 名の「大海人」(おおあま)は、幼少期に養育を受けた凡海(おおしあま)氏にちなみ、『日本書紀』に直接そのように記した箇所はないが、天武天皇の殯に凡海麁鎌(おおあまのあらかま)が壬生(養育)のことを誄(しのびごと)したことから推測されている。

 

凡海氏は、摂津国を本拠にした氏族とされ、大海人(おおあま)皇子の名は、凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたもので、凡海氏が大海人皇子の養育にあたったものと推定されているのだ。