経国集(三船と宅嗣)

『経国集』(けいこくしゅう)は、平安時代初期の天長4年(827年)、淳和天皇の命により編纂された勅撰漢詩集(全20巻)。良岑 安世(よしみね の やすよ:785-830)・菅原清公(すがわら の きよきみ:770-842)らが編纂し、作者は、淳和天皇(786-840)・石上宅嗣(729-781)・淡海三船(722-785)・空海(734-835)ら176人なのだが、ここで選ぶのは、三船と宅嗣である。

その【経国(けい‐こく)】とは、国家を経営すること、国を治めることであり、まさに、高野天皇への上告だと言えるかもしれない。

以下が晩年の、二人の履歴なのだが、『経国集』の由来は、魏王朝の最初の皇帝となった曹丕(文帝)の「典論―論文」、「文章は経国の大業、不朽の盛事なり(文学とは、国家を経営していくのに役立つ重要な仕事であり、永遠に伝えられていく盛大な事業である)」にある。

771~772の間に、三船は漢風諡号に取り掛かったと思うので、それ以降の履歴を記しておく。宝亀3年(772年) 4月20日:兼文章博士:50歳

宝亀8年(777年) 正月25日:大判事

宝亀9年(778年) 2月23日:大学頭

宝亀10年(779年)鑑真の伝記『唐大和上東征伝』

宝亀11年(780年) 2月27日:従四位下

天応元年(781年) 10月4日:大学頭。

         12月23日:御装束司(ごしょうぞくし:朝廷の儀式や天皇の行幸の際 に、 

              その衣装や設備の設営を担当する役人のこと)

延暦元年(782年) 8月25日:兼因幡守

延暦3年(784年) 4月2日:刑部卿

延暦4年(785年) 7月17日:卒去(刑部卿従四位下兼因幡守)63歳(満)

石上宅嗣の経歴(上記の三船の年代に合わす)

神護景雲4年(770年) 9月16日:兼大宰帥

宝亀2年(771年) 3月13日:兼式部卿。11月23日:中納言

宝亀6年(775年) 12月25日:石上朝臣から物部朝臣に改姓

宝亀8年(777年) a流。10月13日:兼中務卿

時期不詳:兼皇太子傅

宝亀10年(779年) 11月18日:物部朝臣から石上大朝臣に改姓

宝亀11年(780年) 2月1日:大納言

天応元年(781年) 4月15日:正三位。6月24日:薨去、贈正二位

そもそも、天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願し、孝謙上皇は同年10月重祚して称徳天皇となった。

 

翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建されたのだが、西大寺の創建当時は僧・道鏡が中央政界で大きな力を持っており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと推定される。

天平神護2年(766年)10月には海龍王寺で仏舎利が出現したとして、道鏡を法王としたが、称徳天皇=道鏡の二頭体制が確立され、宅嗣・三船にとっても憤慨していたに違いない。

七言。三月三日於(ニ)西大寺㈠。侍(レ)宴應(レ)詔。(高野天皇時代)石上宅嗣 すなわち、神護景雲元年(767年)三月三日、西大寺の法院に行幸して、文人を集めて曲水の宴で詩を作らせ、五位以上の者や文人に禄を賜った。

 

 

「西大寺」の寺名はいうまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、南都七大寺(他:興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・法隆寺)の1つに数えられる大寺院であった。

 

 三昇三月啓(ニ)三辰㈠    三日三陽應(ニ)三春㈠

鳳蓋凌(レ)雲臨(ニ)覺苑㈠  鸞興駕(レ)日對(ニ)禪津㈠

靑絲柳陌鶯歌足        紅蘂桃渓蝶舞新

幸屬(ニ)無爲㈠梵城賞     還知有截不(レ)離(レ)眞

 

「三月三」祭りとは中国の伝統節句で、毎年陰暦の三月三日です。

三月三は歴史上「上巳」と呼ばれ、黄帝を記念する節句です。

三辰:日月星

さん‐しゅん【三春】:春季の3か月。初春・仲春・晩春。陰暦の1・2・3月。

【鳳蓋】ホウカ゛イ:天子の乗る乗り物の上にかぶせるもの。転じて、天子の乗り物。

覺苑:西大寺のこと

らん‐よ【鸞輿】:天子の乗る輿 (こし) 。鳳輿 (ほうよ) 。

『駕』の字には少なくとも、駕(ケ)・ 駕(ガ)・ 駕(カ)・ 駕(のりもの)・ 駕る(のる)・ 駕ぐ(しのぐ)の6種の読み方が存在する。

禪津:西大寺のこと

せい‐し【青糸】: 新芽がふいて、青く垂れている細い柳の枝をたとえていう語。

【柳陌】リュウハク:柳のあるあぜみち。

む‐い 【無為】:自然にまかせて、作為するところのないこと。

梵城:仏教の城

 有截:等しく帰服すること

眞:仏法の教え

  

上巳の節句は光り輝き、       まさに三春に応えようとしている

天子の御輿は雲海を凌ぎ覺苑に臨み  その輿は日輪をのせ禅津にむかう

靑絲柳陌では鶯が囀り         紅蘂桃渓では蝶が舞い新たなり

幸は無為に属し梵城の賞なり     還知は有截、真を離れず  

五言。於(ニ)内道場㈠観(ニ)虚空蔵菩薩會㈠。(高野天皇時代)淡海三船

 

虚空蔵菩薩とは、仏教における信仰対象である菩薩の一尊であるが、「広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩」という意味である。

そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰され、知恵の菩薩として、人々に知恵を授けるともいわれている。

 

鳳闕留(ニ)仙影㈠ 龍墀演(ニ)法音㈠

是空神尚寂    即色理逾深

夕梵聞(ニ)雲嶺㈠ 朝鐘徹(ニ)霧林㈠

幸従(ニ)無漏界㈠ 長絶(ニ)有為心㈠

 

ほう‐けつ【鳳闕】:天子・皇帝の住居の門。

墀:[音]チ・ ジ[訓]きざはし・す 『演』の字には少なくとも、演(エン)・ 演(イン)・ 演べる(のべる)・ 演う(おこなう)の4種の読み方が存在する。

ほう‐おん【法音】:説法または読経の声。

かむ‐さ・ぶ【神さぶ】:神らしく振る舞う。神として行動する。

色(ルーパ)は、宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味

空(シューニャ)は、恒常な実体がないという意味。

せき‐ぼん【夕梵】:夕方の梵鐘の音。

雲嶺(うんれい)とは、中国西南部を横断する山脈である。

【朝鐘】ちようしよう: 夜明けを知らせる鐘の音。

無漏(むろ):煩悩がないこと

有為(うい)とは、因(直接条件)と縁(間接条件)が合わさって造作された無常なる現象

 

鳳闕は仙影に留まり  龍墀は昇り法音をおこなう

是空の神はなお寂なり 即色の理はいよいよ深し

夕梵は雲嶺に聞き   朝鍾は霧林にひびく

幸は無漏の世界に従い 長く有為の心を絶つ

五言。扈(ニ)従聖徳宮寺㈠(高野天皇時代)  淡海三船

神護景雲元年(767年)四月行幸

 

称徳天皇が行幸したと見える行宮の「飽波宮(あくなみのみや)」は、『大安寺伽藍縁起』に聖徳太子が晩年を過ごしたと見える「飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)」であり、この称徳は聖徳に通じるものがあり、この漢詩を献じたのであろう。

また、鑑真とともに来日した弟子の思託は、日本で天台宗と戒律を広めようとしており、聖徳太子は天台大師智顗の師である南岳慧思の生まれ変わりだと主張していました。

 

南獄留(ニ)禪影㈠    東州現(ニ)應身㈠

経(レ)生名不(レ)成    歷(レ)世道彌新 

尋(レ)智開(ニ)明智㈠  求(レ)仁得(ニ)至仁㈠

垂(レ)文傳(ニ)正法㈠   照(レ)武掃(ニ)凶臣㈠

茂實流(ニ)千載㈠     英聲暢(ニ)九垠㈠

我皇欽(ニ)佛果㈠     廻(レ)駕問(ニ)芳因㈠

寶地香花積        鈞天梵樂陳

方知聖興(レ)聖      玄徳永相隣

 

こ‐しょう【扈従】: 貴人につき従うこと。

『扈』の字には少なくとも、扈(ゴ)・ 扈(コ)・ 扈い(ひろい)・ 扈る(はびこる)・ 扈う(つきそう)・ 扈う(したがう)の6種の読み方が存在する。

聖徳宮寺:法隆寺

南嶽:南嶽大師慧思(515-577:天台始祖)転生したのが聖徳太子という伝説

おう‐じん【応身】:世の人を救うため、それぞれの素質に応じてこの世に姿を現した仏。

経生(きょうせい):抄写を職業とする

『生』の字には少なくとも、生(ソウ)・ 生(セイ)・ 生(ショウ)・ 生やす(はやす)・ 生える(はえる)・ 生(なま)・ 生る(なる)・ 生す(なす)・ 生(き)・ 生う(おう)・ 生(うぶ)・ 生む(うむ)・ 生まれる(うまれる)・ 生(いのち)・ 生ける(いける)・ 生きる(いきる)・ 生かす(いかす)の17種の読み方が存在する。

せ‐どう〔‐ダウ〕【世道】:世の中で人の守るべき道義。

めい‐ち【明智】:すぐれた知恵。

し‐じん【至仁】:この上なくめぐみ深いこと。

正法(しょうぼう、しょうほう)とは、仏教で、正しい法(教え)のこと。

凶臣:排仏派の物部守屋

茂實:成果

九垠(キウギン):.天地のはて。

寶地:伽藍

こう‐げ カウ‥【香花・香華】:香りのよい花。

きん‐てん【鈞天】:天上世界。

梵樂(ぼんがく):仏教音楽。

『陳』の字には少なくとも、陳(チン)・ 陳(ジン)・ 陳い(ふるい)・ 陳ねる(ひねる)・ 陳べる(のべる)・ 陳ねる(つらねる)の6種の読み方が存在する。

『方』の字には少なくとも、方(モウ)・ 方(ボウ)・ 方(ホウ)・ 方に(まさに)・ 方しい(ただしい)・ 方(かた)・ 方(かく)の7種の読み方が存在する。 日本では623年の年紀を持つ法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘には、聖徳太子の后や王子、諸臣ら「道を信じる知識」が太子の病気平癒を願って作られたことが知られている。

『與』の字には少なくとも、與(ヨ)・ 與(アイ)・ 與する(くみする)・ 與える(あたえる)・ 與る(あずかる)の5種の読み方が存在する。

 げん‐とく【玄徳】:奥深い、隠れた徳。また、深遠な功徳。

 

南嶽に禅影を留め        東州に応身が現れる

生を経ても名はならず      世道をへていよいよ新たなり

智を尋ね明智を開く       仁を求め至仁を得る

文を教え正法を伝え       武を照らし凶臣を掃う 

茂實は千載に流れ        英聲は九垠に伸びる

我皇は仏果を欽(うやま)い   輿に乗り芳因を問う

寶地の香華は積み        鈞天の梵樂は陳べる

ただしい知聖は聖を與(くみ)し 玄徳は永く相隣なり

宅嗣は、開基が孝謙上皇である、『西大寺』を引き合いに出し、【幸屬(ニ)無爲㈠梵城賞     還知有截不(レ)離(レ)眞】を示唆しているのだ。

 

そして三船においても、『虚空蔵菩薩』を借りて、【幸従(ニ)無漏界㈠ 長絶(ニ)有為心㈠】で、目を覚ませと言っている。

次に『聖徳宮寺』について漢詩が詠まれているが、夢殿に安置されている行信僧都坐像は、推定767年頃の造立と言われている。

行信(ぎょうしん、生没年不詳)は、奈良時代の僧で、738年(天平10年)律師に任じられ、この頃から法隆寺東院の復興に尽力し、748年(天平20年)大僧都として諸寺資財帳に署名している。

没後に完成した神護景雲元年(=767年)九月の跋(あとがき)を持つ「行信発願経」が、法隆寺に残されており、果たしてこの坐像と対峙していたかどうかはわからないが、【方知聖興(レ)聖 玄徳永相隣】と歌い終えている。

 

 なお、1月8日 - 14日法隆寺金堂修正会 は、768年(神護景雲2年)以来続く伝統行事で、国家安隠、万民豊楽等を祈るものだが、内容は吉祥悔過(きちじょうけが)、つまり吉祥天に過(あやま)ちを悔いて罪や汚れを許してもらう。

五言。聴(ニ)維摩経㈠     淡海三船

 

演(レ)化方文室    談(レ)玄不二門

已観心有(レ)種    旋覺理無(レ)言

地似(ニ)毗耶域㈠   人疑(ニ)妙徳尊㈠

誰知従(ニ)此會㈠   頓入(ニ)總持園㈠

 

『演』の字には少なくとも、演(エン)・ 演(イン)・ 演べる(のべる)・ 演う(おこなう)の4種の読み方が存在する。

【演化】えんか(くわ):教化を広める。

か〔クワ〕【化】:影響を他に及ぼすこと。

【談玄】だんげん:玄理を論ずる。

げん‐り【玄理】:奥深い道理。深遠な真理。

げん‐だん【玄談】:奥深い話。深遠な話。

に‐もん【二門】:仏教を教理の上で大きく二種類に分けた分類法。

聖道門は不二門。浄土門は不二の中の而二門である。

維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。

かん‐じん クヮン‥【観心】:自己の心の本性を観ずること。

わり‐な・い【理無】:分別がない。

『頓』の字には少なくとも、頓(ドン)・ 頓(トン)・ 頓(トツ)・ 頓(トチ)・ 頓(ひたぶる)・ 頓ずく(ぬかずく)・ 頓に(とみに)・ 頓まる(とどまる)・ 頓く(つまずく)・ 頓れる(つかれる)・ 頓しむ(くるしむ)の11種の読み方が存在する。

そう‐じ〔‐ヂ〕【総持】:悪法を捨てて善法を持する意で、仏の説くところをよく記憶して忘れないこと。 教化を広め方文の室なり 

 

「強化を広めることは方文の室 奥深い話は不二の門である

己の観心は首をもつ      施覺の理は言葉なし

その地は耶毘の域に似る    人は妙徳尊を疑う

誰が知りこの會に従う     額ずき総持園に入る 

 

『維摩経』 (ゆいまきょう)は、大乗仏教経典の一つで、 仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。 維摩が病気になったので、釈迦が舎利弗・目連・迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。

しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしないが、そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものであり、不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。

維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。

 

文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆し、 この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。