文武、そして元明・元正と記紀

文武天皇元年(697)

 倭根子(やまとねこ:持統)天皇が、命(みこと)をお授けになられたことは、「貴く高く広く厚い大命を承り恐れかしこみ、このお治めになる天下を、調(ととの)え平らげ、天下の公民を恵み撫で慈しもうとなされる、(文武)天皇の大命を皆よく承れ」と仰せられる。

 

それ以来、おそらく思い悩んでいたであろう文武天皇の漢詩があるが、いつ頃の作詩であるかはわからない。

 

述懐(懐を述べる)

 

年雖足載冕(年は載冕に足ると雖も) 智不敢埀裳(智は敢えて裳を垂れず)

朕常夙夜念(朕常に夙夜おもうに)  何以拙心匡(何を以ってか拙心をたださん)

猶不師往古(猶往古を師とせずは)  何救元首望(何ぞ元首の望みを救わんと)

三絶務(然も三絶の務めなくも) 且欲臨短章(しばらく短章に臨まんと欲す)

 

載冕(たいかん):冠を頂く年齢

夙夜(しゅくや):早朝から夜まで

『毋』の字には少なくとも、毋(ム)・ 毋(ボウ)・ 毋(ブ)・ 毋れ(なかれ)・ 毋い(ない)の5種の読み方が存在する。(注:【母】ではない)

三絶:何度も繰り返し書物を読むこと

 

「年齢は冠を頂くのに十分ではあるけれど、知識は天下を治めるほどもなく

 わたしがいつも朝から夜まで思うことは、何を以ってこの拙い心を正そうや

 やはり昔の教えを先生としなければ、どうして国家の元首としての希望をかなえられよう

  しかし読書の努力が至らなくても、ともかく短い詩文にでも親しもうと思う」 

たしかにその文武には、漢詩は三首あるのだが、万葉集にも1首、吉野宮行幸の際の歌(1-74)が伝わる。

【大宝元年(701)】六月二十九日、太上天皇(持統)が吉野離宮に行幸され、秋七月十日吉野から帰還されたとある。

01 0074 大行天皇幸于吉野宮時歌

大行天皇(たいこうてんのう)とは、天皇が崩御した後、追号が贈られるまでの呼称であるが、『万葉集』の後書きには、【右一首或云 天皇御製歌】と記されており、この歌は持統ではなく文武天皇である。

 

01 0074 見吉野乃(みよしのの)山下風之(やまのあらしの)寒久尓(さむけくに)為當也今夜毛(はたやこよひも)我獨宿牟(あがひとりねむ)

 

この歌が、文武天皇の御心だとしたら、その不安な気持ちが、漢詩『述懐』とも合わさるような気がする。

 

因みに長屋王(676-729)の歌もあるので並べておくが、文武の【我獨宿牟】は、妹毛有勿久尓】を歌ったものではないように思う。

 

01 0075 宇治間山(うぢまやま)朝風寒之(あさかぜさむし)旅尓師手(たびにして)衣應借(ころもかすべき)妹毛有勿久尓 (いももあらなくに)

01 0075 右一首長屋王 宇治間山は、吉野の千股地区の周辺にあった山のことで、現代でははっきりとどの山なのかは分からないと言う。

 

うぢまやま あさかぜさむし たびにして ころもかすべき いもあらなくに 

 

ついでに追補しておくと、『続日本紀』には、文武天皇が妃や皇后を持った記録は無く、即位直後の文武天皇元年8月20日(697年9月10日)に夫人(ぶにん)とした藤原不比等の娘・藤原宮子が、妻の中で一番上位であったが、他に、同日嬪となった石川刀子娘と紀竈門娘がいる。

そして吉野から帰還する頃には、心も落ち着き、漢詩【詠月】を作るまでになっていたのであろう。

 

詠月(月を詠む)

 

月舟移霧渚(月舟霧渚に移り)   楓檝泛霞浜(楓檝霞浜に泛ぶ)
臺上澄流耀(台上流耀澄み)    酒中沈去輪(酒中去輪沈む)
水下斜陰砕(水下斜陰砕く)    樹除秌光新(樹除秌光新たにし)
独以星間鏡(独り星間の鏡を以て) 還浮雲漢津(還りて雲漢の津に浮かぶ)

 

霧渚(むしょ):霧の立ち込めた渚

楓檝(ふうしゅ):楓の期で作った舵。楓は月にあるという伝説の桂に似せている

霞浜(かひん):霞のかかった浜辺

流耀(りゅうよう):月の光が空から流れ来て輝く様子

沈去輪:移り行く月が酒杯に浮かんでいること

斜陰;斜めにてらす光

樹除:間伐のような状態だろうか?

秌光新:秋のひかりを初めて感じ取ったこと

雲漢:天雲のたなびく天の川

 

「月の舟は、霧の渚に移り、梶は霞の浜にうかんでいる。 

 卓上は月光に照らされ、酒杯には月輪が沈んでいる。

 水の流れは飛沫となり、樹除は秋月に照らされている

 月は星々の鏡のようで、今は還りて天の川に留まる」 

『続日本紀』の慶雲三年(706)十一月三日に次のような記事があり、それが漢詩『詠雪』へと導かれたのではないだろうか?

 

「朕は才うすきにもかかわらず、誤って大いなる恵みを受け、皇位にあるが、昔の女媧(じょか)のように、石を練って天を支える才能もなく、徒に鏡を握って天下を統べる任についているのは、愧ずべきことである。

日が暮れても、食事をとることも忘れ、恭しく慎む気持ちはますます積もるも、夜半まで寝につかず、恐れ危ぶむ気持ちはいよいよ深い。

願うところは、天は万物を覆い、地が万物を載せるような、広い仁徳を天下に及ぼすことである」

詠雪(雪を詠む)

 

雲羅嚢珠起(雲羅珠をつつんで起こり) 雪花含彩新(雪花彩を含んで新たし)

林中若柳絮(林中柳絮のごとく)    梁上似歌塵(梁上歌塵に似たり)

代火暉霄篆(火に代わり霄篆を暉かせ) 遂風廻洛濱(風を遂いて洛濱を廻る)

園裏看花李(園裏の花李を看るに)   冬條尚帯春(冬條尚春を帯びる)

 

雲羅(うんら):雲が薄絹のようであること

梁上歌塵(りょうじょうかじん):梁の上の塵が美しい歌声に舞う

霄篆(しょうてん):瑞気により現れた雲の様子

洛濱(らくひん):洛陽を流れる川の岸辺

園裏(えんり):庭園の中

花李(かり):花の咲いた李の木

冬條(とうじょう):冬の枝

帯春:春の萌え

 

「薄絹のような雲は珠を包んで昇り、花のような雪は彩を含んで鮮やかである。

 林の中の雪は柳の花のように飛び、梁の上で歌舞する精霊に似ている。

 灯火に代わって瑞気の雲を輝かせ、風を追い洛水の浜辺を廻る

 庭園の李の木を見ると、冬の枝にも間もなく春が来るであろう」  

しかし、慶雲4年6月15日(707年7月18日)、文武天皇が崩御(25歳)し、あとに残された首皇子(のちの聖武天皇)は数えで7つと幼かったことから、天皇の生母・阿陪皇女(天智天皇皇女)が皇位を預かる形で即位した(元明天皇)。 

『続日本紀』によれば、慶雲四年秋七月十七日に、元明天皇は詔(みことのり)を下した。

「去年十二月、畏れ多いことであるが、わが大王であり、わが子どもでもある天皇が、仰せられるのは、『自分は病んでいるので、暇を得て治療をしたいゆえ、この天津日嗣(ひつぎ)の位は、大命(おおみこと)に従って、母上が天皇としてお継になり、お治めになるべきである』と、お譲りになられる言葉を承り、答え申し上げたことは、「わたしはその任に耐えられません」と辞退しているうちに、たび重ねてお譲りになるので、お気の毒でもあり畏れ多いので、今年の六月十五日、ご命令をお受けしますと申し上げ、その通りにこの重大な位を継ぐのである」 

そして和銅四年(711)九月十八日に、元明天皇は臣安万侶に詔が下されたと記されているのが『古事記 序』である。(安万侶28歳・額田王74歳)

「謹んで思いますに、天皇陛下は帝位におつきになって、その聖徳は天下に満ち渡り、万民万物を化育(かいく)しています。

皇居におられても、その御徳は、遠く馬の蹄の止まる地の果てまで、また船の舳先(へさき)の止まる海原の果てまでも及んでおられます。

太陽が空にあって光を重ねる瑞样・雲でもない煙でもない、めでたい瑞祥・連理の枝や一本の茎に多くの穂の出る瑞样など、書記官は絶えず記録し、一方で、次々に狼煙(のろし)をあげて知らせるような遠い国から、幾度も通訳を重ねるような遠い国から齎(もたら)される貢物は、いつも宮廷の倉に満ちて、空になる月はない状態です。

このような聖徳の高い天皇のお名前は、夏(か)の禹王(うおう)や、殷(いん)の湯王(とうおう)にも勝っていると申すべきでしょう。

こうして、【和銅五年(712)】正月二十八日に献上されたのである」と『古事記 序』に至る。

さらに霊亀元年(715)九月二日、元明天皇は位を氷高内内親(元明の娘で、文武の姉)に譲られたのである。

「今、イキイキとした若さも次第に衰え、年老いて政事にも倦み、静かでのどかな境地を求めて、風や雲のような囚われない世界に、身を任せたいと思う。

様々なかかわりを捨て履物を脱ぎ捨てるように俗を離れたいが、皇位の神器を皇太子に譲りたく思うが、まだ年幼くて(十五歳)奥深い宮殿を離れることができないが、政務は多端で、一日に処理せねばならぬことは無数にある。

一品(ぽん)の氷高内親王は、若いうちからめでたいめぐりあわせに逢い、早くから良い評判が世に知られている。

心広くあわれみ深い性質を天から授かっており、物静かで若く美く、天下の人々はこの内親王を戴き、仰ぎほめたたえることを知るであろう。

今皇帝の位を内親王に譲るのであるが、公卿(くぎょう)百官はことごとくこの詔を慎み奉戴し朕の心に叶うようにせよ」

そしてここに、【養老四年(720)】五月二十一日、一品の舎人親王は、勅を受けて『日本紀』の編纂に従っていたが、この度それが完成し、紀三十巻と系図一巻を元正天皇に奏上した。

同年八月、不比等が薨去すると舎人親王を知太政官事に任命し、翌年には長屋王を右大臣に、藤原房前を内臣に任命する。