中臣(藤原)大嶋

天武8年(679年)5月5日に天武天皇(69)・鸕野讚良皇后(34)・6人の皇子(草壁皇子17・大津皇子17・高市皇子25・河嶋皇子22・忍壁皇子?・芝基皇子?)は吉野へ行幸した。

6日、天武天皇は草壁皇子を次期天皇とし、異母兄弟同士互いに助けて相争わないことを誓わせたのである。

 

天武10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅(しょうちょく)がを出ており、後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われる。

また、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせたとあり、後に筆録されて『古事記』となる。 

 

天武10年(681)十七日、天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子(かわしまのみこ:657-691)、忍壁皇子(おさかべのみこ:?-705)、広瀬王(ひろせのおおきみ:?-722)、竹田王(たけだのおおきみ:?-715)、桑田王(くわたのおおきみ:?-729)、三野王(みののおおきみ:?-708)、大錦下の上毛野君三千(かみつけのきみみちぢ:?-681)、小錦中の忌部連首(いんべのむらじおびと:?-719)、小錦下の阿曇連稲敷(あずみのむらじいなしき:生没年不詳)、難波連大形(なにわのむらじおおかた:生没年不詳)、大山上の中臣連大嶋(なかとみのむらじおおしま:?-693)、大山下の平群臣子首(へぐりのおみこびと:生没年不詳)に詔(みことのり)して、帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。 大嶋・子首が自ら筆をとって記した。(額田44)

そして、686年九月九日、天皇の病ついに癒えず、正宮で崩御(天武76)され、直大肆の藤原朝臣大嶋(ふじわらのあそんおおしま)が兵政官のことを誄(しのびごと)した。 

 

ここに、持統天皇の挽歌が四首あり、それを記すと、

02 0159 天皇崩之時大后御作歌一首

02 0159 八隅知之(やすみしし)我大王之(わごおほきみの)暮去者(ゆふされば)召賜良之(めしたまふらし)明来者(あけくれば)問賜良志(とひたまふらし)神岳乃(かむをかの)山之黄葉乎(やまのもみちを)今日毛鴨(けふもかも)問給麻思(とひたまはまし)明日毛鴨(あすもかも)召賜萬旨(めしたまはまし)其山乎(そのやまを)振放見乍(ふりさけみつつ)暮去者(ゆふされば)綾哀(あやにかなしみ)明来者(あけくれば)裏佐備晩(うらさびくらし)荒妙乃(あらたへの)衣之袖者(ころものそでは)乾時文無(ほすときもなし)

 

02 0160 一書曰 天皇崩之時太上天皇御製歌二首

02 0160 燃火物(もゆるひも)取而褁而(とりてつつみて)福路庭(ふくろには)入澄不言八面(いるといはずやも)智男雲

 

『燃』の字には少なくとも、燃(ネン)・ 燃(ゼン)・ 燃やす(もやす)・ 燃す(もす)・ 燃える(もえる)の5種の読み方が存在する。

も・ゆ 【燃ゆ】:火が燃える。陽炎(かげろう)が立ちのぼることや、蛍が光を放つことなどを見立てていうこともある。

『火』の字には少なくとも、火(コ)・ 火(カ)・ 火(ほ)・ 火(ひ)の4種の読み方が存在する。

『物』の字には少なくとも、物(モツ)・ 物(モチ)・ 物(ブツ)・ 物(もの)の4種の読み方が存在する。

『取』の字には少なくとも、取(ソウ)・ 取(シュウ)・ 取(シュ)・ 取る(とる)の4種の読み方が存在する。 ひ-を-と・る 【日を取る】:日を選ぶ。日程を定める。 『而』の字には少なくとも、而(ノウ)・ 而(ニ)・ 而(ドウ)・ 而(ジ)・ 而(なんじ)・ 而れども(しかれども)・ 而るに(しかるに)・ 而も(しかも)・ 而して(しかして)の9種の読み方が存在する。

『福』の字には少なくとも、福フク・ 福フウ・ 福フ・ 福いさいわいの4種の読み方が存在する。

『路』の字には少なくとも、路ロ・ 路ラク・ 路みち・ 路じ・ 路くるまの5種の読み方が存在する。 『庭』の字には少なくとも、庭テイ・ 庭にわの2種の読み方が存在する。 意味

『褁』:[音]カ[訓]たから・つつ(み)・つつ(む)・まと(う)

『入』の字には少なくとも、入(ニュウ)・ 入(ジュウ)・ 入(ジュ)・ 入る(はいる)・ 入(しお)・ 入れる(いれる)・ 入る(いる)の7種の読み方が存在する。

『澄』の字には少なくとも、澄(ドウ)・ 澄(トウ)・ 澄(チョウ)・ 澄(ジョウ)・ 澄む(すむ)・ 澄ます(すます)の6種の読み方が存在する。

『面』の字には少なくとも、面(メン)・ 面(ベン)・ 面(も)・ 面(つら)・ 面(おもて)・ 面(おも)の6種の読み方が存在する。

『智』の字には少なくとも、智(チ)・ 智(ちえ)・ 智い(さとい)の3種の読み方が存在する。

『男』の字には少なくとも、男(ナン)・ 男(ダン)・ 男(おのこ)・ 男(おとこ)の4種の読み方が存在する。

『雲』の字には少なくとも、雲(ウン)・ 雲(くも)の2種の読み方が存在する

 

もゆるほも とりてつつみて ふくろには いれどいはずや つらさになくも

 

他にも、ふくろ【復路】(帰りの道やコースを意味する表現)や、ゐる 【率る】(身につけて持つ。携帯する。携える)などの意味もある。

 

ただし、天武は、15年(686年)5月24日に病気になり、仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。

7月20日に元号を定めて朱鳥(しゅちょう)とし、合わせて、宮殿の名前も「飛鳥浄御原宮」と命名した。

朱鳥は道教の発想で生命を充実させ、衰えた生命を蘇らせる存在とされており、また、浄御原という宮名も病魔を祓い浄めることを願ったものであるとされている。

いずれも、天皇の病気平癒の願いを込めた応急措置的な発想であったと考えられており、その後も神仏に祈らせたが、9月9日に病死した。

これを、額田王(49)による挽歌だとする根拠はないのだが、もし一首もなければ、歌ったであろうと思われるのも、【ほ】とは「蛍」のことで、未だ天武病中のことだと思うからだ。

 

02 0161 向南山(きたやまに)陳雲之(たなびくくもの)青雲之(あをくもの)星離去(ほしさかりゆく)月矣離而(つきをはなれて)

 

『向』の字には少なくとも、向(ショウ)・ 向(コウ)・ 向(キョウ)・ 向こう(むこう)・ 向ける(むける)・ 向く(むく)・ 向かう(むかう)・ 向に(さきに)の8種の読み方が存在する。

『南』の字には少なくとも、南(ナン)・ 南(ナ)・ 南(ダン)・ 南(みなみ)の4種の読み方が存在する。

『山』の字には少なくとも、山(セン)・ 山(サン)・ 山(やま)の3種の読み方が存在する。 向南山:むナ(し)サ(に)

『陳』の字には少なくとも、陳(チン)・ 陳(ジン)・ 陳い(ふるい)・ 陳ねる(ひねる)・ 陳べる(のべる)・ 陳ねる(つらねる)の6種の読み方が存在する。

陳雲之:つら(なる)くもの

『離』の字には少なくとも、離(レイ)・ 離(リ)・ 離(ライ)・ 離(チ)・ 離れる(はなれる)・ 離す(はなす)・ 離ぶ(ならぶ)・ 離く(つく)・ 離る(かかる)・ 離る(かる)の10種の読み方が存在する。

なら(ぶ)の用法に、離坐(リザ)「二人並んで座ること(礼記・曲礼上)や離立(リリツ)「並び立つ(礼記・曲礼上)」がある。 

『去』の字には少なくとも、去(コ)・ 去(ク)・ 去(キョ)・ 去く(ゆく)・ 去く(のぞく)・ 去る(さる)の6種の読み方が存在する。

星離去:ほしはなれゆく 『矣』の字には少なくとも、矣(イ)の1種の読み方が存在する。

い:《接続》体言や活用語の連体形に付く。〔強調〕(…こそ。とくにその)とか、終助詞《接続》種々の語に付く。〔念押し〕…よ。

 

むなしさに つらなるくもの あをくもの ほしならびゆく つきいならびて

 

「青空が、星空になり月夜になっていく様子が伺える」のだが、この歌も亦、額田王の歌なのかもしれない。

 

02 0162 天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜(天皇の崩りまししの後八年、九月九日の奉為の御齋会の夜、夢の裏に習ひたまう)御歌一首 古歌集中出

 

02 0162 明日香能(あすかの)清御原乃宮尓(きよみのみやに)天下(あめのした)所知食之(しらしめしし)八隅知之(やすみしし)吾大王(わごおほきみ)高照(たかてらす)日之皇子(ひのみこ)何方尓(いかさまに)所念食可(おもほしめせか)神風乃(かむかぜの)伊勢能國者(いせのくには)奥津藻毛(おきつもも)靡足波尓(なみたるなみに)塩氣能味(しほけのみ)香乎礼流國尓(かをれるくにに)味凝(うまこり)文尓乏寸(あやにともしき)高照(たかてらす)日之御子(ひのみこ)

 

『能』の字には少なくとも、能(ノウ)・ 能(ナイ)・ 能(ドウ)・ 能(ダイ)・ 能(タイ)・ 能(グ)・ 能(キュウ)・ 能くする(よくする)・ 能く(よく)・ 能き(はたらき)・ 能う(あたう)の11種の読み方が存在する。

『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在する。

【何】:[音]カ(漢)[訓]なに・なん・いずれ・なんぞ

『方』の字には少なくとも、方(モウ)・ 方(ボウ)・ 方(ホウ)・ 方に(まさに)・ 方しい(ただしい)・ 方(かた)・ 方(かく)の7種の読み方が存在する。

【何】(か)+【方】(かく)=【何方】(かく)

『靡』の字には少なくとも、靡(メ)・ 靡(ミ)・ 靡(マ)・ 靡(ビ)・ 靡(ヒ)・ 靡(バ)・ 靡く(なびく)・ 靡かす(なびかす)・ 靡れる(ただれる)・ 靡る(おごる)の10種の読み方が存在する。

しほ-け 【潮気】:潮風の湿り気や香り。

あぢ 【䳑】:水鳥の名。秋に飛来し、春帰る小形の鴨(かも)。

こ・る 【凝る】:寄り集まって固まる。密集する。

ともし-さ 【羨しさ】:うらやましいこと。

『寸』の字には少なくとも、寸(ソン)・ 寸(スン)・ 寸か(わずか)・ 寸(き)の4種の読み方が存在する。

 

あすかよき きよみがはらの みやなりき あめがくだると しらしめゆ やすみしれし わごおほの たかしひのみこ かくしとこ おもひはべらし かむかぜの いせのくにには おきつもも なびたるなみに しおけのみ かをれるくにき あぢこごる あやにともしき たかしひのみこ 

 

天武天皇は、15年(686年)5月24日に病気になり、仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ね、9月9日に病死した。

殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。

ところが、持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位(690年)したのである。

翌持統天皇元年(687年)8月に持統天皇の命令を受けて、黄書大伴(きふみのおおとも:?-710)と共に300名の高僧を飛鳥寺に招集し、天武天皇の衣服で縫製した袈裟を与えている。

その後、藤原不比等(659-720)の立身に伴って、大島は藤原朝臣姓から中臣朝臣姓に復姓しており、持統天皇3年(689年)には、不比等が判事に任命されているのである。 

 

それはまた、草壁皇子(662-689)が亡くなった年でもあり、大嶋は『懐風藻』にその頃の漢詩を二首遺している。

詠孤(孤松を詠む)

 

隴上(ろうじょうノ)孤松(こしょう)翠(みどりニシテ)

凌雲(りょううんノ)心(こころ)本(もとヨリ)明(あきラカナリ)

餘根(よこんハ)堅厚地(こうちニかたく)

貞質(ちしつハ)指高天(こうてんヲさス)

弱枝(じゃくし)異萬草(ばんそうニことナリ)

茂葉(もよう)同桂榮(けいえいニおなジクスル)

孫楚(そんそハ)高貞節(ていせつヲたかクシ)

隠居(いんきょハ)悦登輕(とうけいヲよろこブ)

 

隴上: 岡の上。また、墳墓の上。墓のほとり。

凌雲:雲をしのぐほどに高いこと。俗世を超越していることにいう。

餘根:遠くまで伸ばした根

厚地:厚く覆う大地 貞質:正しい性質

弱枝:若々しい枝 桂榮:桂のごとき繁栄

孫楚:人物評は、「天才にして知識が広く、群を抜いて優れています」

貞節:正しい生き方

隠居:陶 弘景(とう こうけい)山林に隠棲し松風を愛した

登輕:仙人として昇天することが容易である 

 

「丘の上の一本松は、葉が青々としていて、雲をしのぐ心映えはもとより明らかである。

張り巡らされた根は、どっしりした大地に堅く延び、松の優れた性質は高い天をさしている。

若い枝は他のいかなる草とも性質を異にし、繁茂する葉はらが栄えるのと同じようである。

松を愛した孫楚は、正しい生き方を誇りとし、隠居もまた同じように、登仙になることを喜んでいるのだ」

 

とう‐せん【登仙】:天に登って仙人となること。貴人を敬って、その死去をいう語。特に、天皇の崩御をいう。

 

天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により連姓から朝臣姓に改姓し、その後時期は不明ながら藤原朝臣姓に改姓しているのだが、藤原不比等(659-720)の立身に伴って、大島(?-693)は藤原朝臣姓から中臣朝臣姓に復姓しているのだ。

文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。

不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。

 

万葉集にも下記の歌があり、これを大島の作歌とは言わないまでも、和歌にすればこのような心境かもしれない。

 

3047 神左備而(かむさびて)巖尓生(いはほにおふる)松根之(まつがねの)君心者(きみがこころは)忘不得毛(わすれかねつも)

 

かむさびて いはほにおふる まつがねの きみがこころは わすれゑずかも

山齋(さんさい)

 

宴飲(えんいんシテ)遊山齋(さんさいニあそビ)

遨遊(ごうゆうシテ)臨野池(やちニのぞム)

雲岸(うんがんノ)寒猨(かんえん)嘯(うそぶキ)

霧浦(むほノ)挹声(ゆうせい)悲(かなシ)

葉落(はハおチ)山逾(やまいよいよ)静(しずカニシテ)

風凉(かぜすずシク)琴益(ことますます)微(かすかナリ)

各(おのおの)得朝野趣(ちょうやノおもむきヲえタリ)

莫論攀桂期(はんけいノきヲろんズルコトなかレ)

 

さん‐さい【山斎】:山の中にある休息のための室。山荘。山亭。

えん-いん 【宴飲】:酒宴。

ごう‐ゆう ガウイウ【遨遊】: (「遨」は気ままにあそぶの意) さかんに遊ぶこと。

のぞ・む 【臨む】:向かい合う。面する。

野池:野の中にある池 雲岸:雲のかかった岸で、神仙境を暗示

かん‐えん ‥ヱン【寒猿・寒猨】:寒い季節の猿。冬の猿。

うそ‐ぶ・く【嘯く】:口をすぼめて息や声を出す。

霧浦:霧のかかった水辺で、神仙境 挹声:舟をこぐ音

かすか・なり【幽かなり・微かなり】:ひっそりしている。物さびしい。人目につかない。

ちょう‐や テウ‥【朝野】:朝廷と官民。世間。天下。全国。

【攀桂】ハンケイ:月の世界にはえている桂をとる。また、立身出世することのたとえ。

き【期】:そうなることを予定する。「期待/所期・予期」

 

「宴会で酒を飲んでは、別荘のあたりを散策し、さらに足を延ばして野の池に遊んだ。

雲がかった岸には、寒気の中で猿がピーッと啼き、霧がかった畔には舟を漕ぐ舵の音が悲しい。

木々の葉は散って、山はいよいよ静かになり、風は涼しく琴の音はかすかなり

各々に朝野の趣があり、立身出世の話など目じゃないってもんだ」

 

草壁皇子の東宮御所には、勾玉池(まがたまいけ)があり、その中に島を配置しており、その異国趣味の庭園が、山齋と呼ばれるものであった。

かつては、島大臣の異名を持った蘇我馬子の邸宅を継承したものであるが、おそらく須弥山を詩的イメージしたものであろう。

 

須弥山(しゅみせん):古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山

三神山(さんしんざん):中国古代において,海上にあると信じられた伝説上の3つの山。             蓬莱・方丈・瀛州 (えいしゅう)             

            三神山には仙人と不死の薬があり,宮殿は金銀造だといわれた。 

 

『万葉集』に、【日並皇子(草壁皇子)尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首(167) 并短歌(168・169)】のあとに、【或本歌一首(170)】とあり、それも大嶋の万葉歌のように思える。

柿本 人麻呂(660年頃 - 724年)には、日並(草壁:689去)・河嶋(691去)、そして高市皇子(696去)たちの挽歌があるのだが、この歌が大嶋なら、額田とも語り合ったことであろう。

 

02 0170 嶋宮(しまのみや)勾乃池之(まがりのいけの)放鳥(はなちどり)人目尓戀而(ひとめにこひて)池尓不潜(いけにかづかず)

天武天皇が亡くなった直後(686年10月1日)、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑(686年10月25日)になり、続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨御した。

そのため、それまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位して持統天皇になる。

この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子(654-696)は太政大臣に任命され、このときから薨御まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。

持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察している。

 

持統天皇4年(690年)持統天皇の即位の儀に際して、大嶋は神祇伯として天神寿詞を読み、また翌5年(691年)の大嘗祭でも天神寿詞を読んでいた。 

持統天皇7年(693年)3月11日に賻物を与えられており、この日に卒去した(額田56)という。  

持統年間(持統七年=693年五月)、吉野行幸の際、弓削皇子(673-699)より歌を贈られ、額田王はこれに和す」とあるが、おそらくこれは、弓削皇子(20)が額田王(56)への御悔やみであり、それに対する礼状のような気がする。

 

0111 幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首

02 0111 古尓(いにしへに)戀流鳥鴨(こふるとりかも)弓絃葉乃(ゆづるはの)三井能上従(みゐのうへより)鳴濟遊久(なきわたりゆく)

 

ゆづる-は 【譲る葉・交譲葉】:新しい葉が出てから古い葉が落ちるのだが、自然の摂理。

 

0112 額田王奉和歌一首 従倭京進入

02 0112 古尓(いにしへに)戀良武鳥者(こふらむとりは)霍公鳥(ほととぎす)盖哉鳴之(けだしやなきし)吾念流碁騰(あがもへるごと)

 

けだし 【蓋し】:〔下に疑問の語を伴って〕ひょっとすると。あるいは。

 

弓削皇子御歌一首 08 1467 霍公鳥(ほととぎす)無流國尓毛(なかるくににも)去而師香(ゆきてしか)其鳴音乎(そのなくこゑを)聞者辛苦母(きけばくるしも)

 

0113 従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首

02 0113 三吉野乃(みよしのの)玉松之枝者(たままつがえは)波思吉香聞(はしきかも)君之御言乎(きみがみことを)持而加欲波久(もちてかよはく) 

 

玉松が枝:この「玉」は、「魂(たま)」と同根で、霊力を持つものであることを示す  が、美      称で、常緑・長寿の樹である松は、生命を守る精霊の憑代(よりしろ)と考えれ、      弓削皇子は額田王の長寿を願って松の枝を贈ったのである。

 

はしき-やし 【愛しきやし】:ああ、いとおしい。なつかしい。いたわしい。

ところが、大嶋の宿題はまだ残されており、その想いはまだまだ先のことであり、額田ひとりで、どうにかなる問題でもなかった。