萬葉集Ⅰ(1-53)①斉明・額田

01 0001 雜歌

01 0001 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇

01 0001 天皇御製歌

01 0001 篭毛與(こもあたへ)美篭母乳(みこももち)布久思毛與(ふくしもよ)美夫君志持(みぶくしをもち)此岳尓(このをかに)菜採須兒(なをとりまつこ)家告閑(いへをつげ)名告紗根(なをつげさせね)虚見津(そらにみつ)山跡乃國者(やまとのくには)押奈戸手(おしなべて)吾許曽居(われこそはをり)師吉名倍手(しきなべて)吾己曽座(われこそすわる)我許背齒(われこそは)告目(つげるはかなめ)家呼毛名雄母(いへよもなをも)

 

巻頭を飾る第一首が、大泊瀬稚武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと:第21代雄略)が飾られているということは、当時の人々には、英雄伝説として伝わっていたのかもしれない。

 

そして『万葉集』にはもう一首あり、同じように、【雜歌 泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首】とあるが、最後に【右或本云崗本天皇御製 不審正指 因以累載】「右、或る本に云はく、崗本天皇の御製と。正指を審(つばひ)らかにせず、因りて累(かさ)ね載す」とある。

 

09 1664 暮去者(ゆふされば)小椋山尓(をぐらのやまに)臥鹿之(ふすしかは)今夜者不鳴(こよひはなかず)寐家良霜(いねにけらしも)

 

ところが、「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指すのだが、その歌が下記というわけ。

 

08 1511 暮去者(ゆふされば)小倉乃山尓(をぐらのやまに)鳴鹿者(なくしかは)今夜波不鳴(こよひはなかず)寐宿家良思母(いねにけらしも)

そして第二首目に、【高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと:第34代舒明)】の歌があるのだ。

 

01 0002 天皇登香具山望國之時御製歌

01 0002 山常庭(やまとには)村山有等(むらやまあれど)取與呂布(とりよろふ)天乃香具山(あめのかぐやま)騰立(のぼりたち)國見乎為者(くにみをすれば)國原波(くにはらは)煙立龍(けぶりたちたり)海原波(うなはらは)加萬目立多都(かまめたつたつ)怜憾國(さといくに)曽蜻嶋(そのあきづしま)八間跡能國者(やまとのくには)

         

これが象徴的な国見の歌になるのだが、ここで歌われている、【曽蜻嶋】の謂れが、『古事記 雄略記』の【歌謡97】に記されており、その部分を映す。 

美延斯怒能(みえしぬの) 袁牟漏賀多氣爾(おむろがたけに)志斯布須登(ししふすと)多禮曾意富麻幣(たれぞいふまへ)爾麻袁須(ながまをす)夜須美斯志和賀(やすみししわが)淤富岐美能(おほきみの)斯志麻都登(ししまつのぼり)阿具良爾伊(あぐらにゐ)麻志斯漏多閇能(まししろたへの)蘇弖岐蘇那(そできそな)布多古牟良爾(ふたのこむらに)阿牟加岐都(あむかきつ)岐曾能阿牟袁(きそよきあむを)阿岐豆波夜(あきつはや)具比加久能碁登(くひかくのごと)那爾淤波(なにおひし)牟登(むさぼりのぼり)蘇良美都(そらのみつ)夜麻登能久爾袁(やまとのくにを)阿岐豆志麻登布(あきつしまとし)

ところが、(あきづしま)については、(『古事記』国生み)の項に、八嶋国(淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島・本州)とともに記されている。

 

次生(つぎなるは)大倭豐(おおやまととよ)秋津嶋(あきつしま)、亦名(またのなは)謂天御虛空豐秋津根別(あまみこくうとよあきづねわけといふ)。故(ゆゑ)、因此(これより)八嶋先所生(やしまがさきになり)、謂大八嶋國(おおやしまのくにという)

『日本書紀 神代上』(国生み)は、【大日本豐秋津洲】は決定事項ながら、【大八洲國】を挙げるが、内容は若干違う。(対馬・壱岐を欠き、越洲・吉備子洲が加わる)

 

同宮共住而生兒(おなじみやともにすみてうまれしこ)、號大日本豐秋津洲(よびなをやまととよあきつしま)

それでも、「国生み」は、一書曰くがつづき、表現に苦労しているようであるが、その謂れは、『日本書紀 神武紀』で、改めて述べられているのだ。

 

「姸哉乎(うつくしきかや)、國之獲矣(くにこれえたり)。姸哉(うつくしきかな)、此云(これいふ)鞅奈珥夜(むながいいかんさしはさむや)。雖內(うちなるといえども)木錦之眞迮國(きなるにしきのまことたつくに)、猶如(なほのごと)蜻蛉之臀呫(せいれいのとなめ)焉(いずくんぞ)。」由是(これより)、始有(はじめにあり)秋津洲之號也(あきつしまのよびななり)。

『古事記』『日本書紀』の流れをどう訓(よむ)かは、人それぞれだが、稗田阿礼を額田王とし、『古事記』が太安万侶とのコンビで成した事業だとすると、『日本書紀』の意図にもその痕跡が窺われるかもしれない。

ここではその言及を避け、『万葉集』に絞って考えていくけれども、折に触れ、記紀歌謡が登場するのは避けきれないかもしれない。

『万葉集』の第三首目が、【天皇遊獵内野之時中皇命使間人連老獻歌】となっており、この中皇命 (なかつすめらみこと)が、宝皇女(594-661:皇極・斉明)なのである。

この皇極の時代(在位642-645)と斉明の時代(在位655-661)の間に、『万葉集』に取り組んだように思う。

彼女の歌とされるものは、『万葉集』が三首しかないが、もっと歌が残されていてもいいはずであり、新しい発見があるかもしれない。

ただ、『日本書紀』の歌謡では、孫の 建王(たけるのみこ:651-658)を悼んだ歌謡が六首ある。

04 0485 崗本天皇御製一首 并短歌

04 0485 神代従(かむよより)生継来者(おひつぎくれば)人多(ひとおほき)國尓波満而(くににはみちて)味村乃(あぢむらの)去来者行跡(きょらいもあとに)吾戀流(あがこふる)君尓之不有者(ききしあらねば)晝波(ひるのひは)日乃久流留麻弖(ひのくるるまで)夜者(よるなれば)夜之明流寸食(よのあくるきは)念乍(おもひつも)寐宿難尓(しんしゅくがたし)登のぼりゆく)阿可思通良久茂(あかしつらくも)長此夜乎 (ながきこのよか)

 

「神代より、生まれ継いで、人が増え、国は盛んになり、鴨が群れるような、往来のあとに、心残りを、聴いてもらえるなら、昼日中も、日が暮れるまで、夜になると、明ける間際に、考えあぐね、一睡もできず、陽が昇り、明けてしまっても、長き夜は続いている」

 

04 0486 反歌

04 0486 山羽尓(やまのはに)味村驂(あぢむらにそえ)去奈礼騰(ゆくなれど)吾者左夫思恵(われはさぶしけ)君二四不在者 (きにはしざるも)

 

「山の端に、鴨の群れが、飛んでいくけれど、われの寂し気を、気にもしないで」

 

斉明天皇元年(655年)、10月13日 - 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止になるも、冬 - 飛鳥板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に遷幸。

斉明天皇2年(656年・63歳)、 飛鳥の岡本に宮を造り始め、やがて宮室が建ち、そこに遷幸し後飛鳥岡本宮と名付けるが、岡本宮が火災に遭う。

それでも、宮のある飛鳥の開発工事は進み、香久山の西から石上山(いそのかみやま:天理市)まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。

さらに、 吉野宮を作り、 多武峰に両槻宮を作ったりし、 この時期、天皇主導での土木工事が相次ぎ、掘った溝は後世に「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」と揶揄されたが、飛鳥を華やかな都にするために、大開発に情熱を注いだ斉明女帝の決断であり、その頃の心情であろう。

 

ただし、三首並んだ最後の歌は【右今案 高市崗本宮後崗本宮二代二帝各有異焉 但偁崗本天皇未審其指】とあり、斉明天皇5年(659年・66歳) 3月3日 - 近江の平浦に行幸の時と思われるが、なぜこのような編集をしたのかわからない。

 

04 0487 淡海路乃(あふみぢの)鳥篭之山有(とこのやまなる)不知哉川(いさやがは)氣乃己呂其侶波(けのころごろは)戀乍裳将有(こひつもあらむ)

もし巻頭を飾るのなら、「神武」か「ヤマトタケル」の記紀歌謡だと思うのだが、「記紀」によれば反抗的な地方豪族を武力でねじ伏せて、帝権を飛躍的に拡大させ、強力な専制君主として君臨したとされる雄略は、養蚕の推奨、新羅への出兵、呉への遣使などの政策を積極的に実施し、倭の五王の一人として異国にも名高かったことを、編集者たちは聞き及んでいたのであろう。

第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。

代表的な歌人としては額田王がよく知られているけれど、ほかに天智天皇(626-672)・有間皇子(640-658)・鏡王女(姫王:?-683)・藤原鎌足(614-669)らの歌もある。

こうした歌人が用いた万葉仮名を参考にして編集をたどりたいと思うが、その筆頭にあげたいのが、下記の歌の中皇命であり、宝皇女のことである。

 

というのも、宝皇女(中皇命)は、渡来してきた王族の王女であり、とある経緯で茅渟王(ちぬのおおきみ /生没年不詳)の養女になったのである。

漢詩(五言・七言)についての素地もあり、倭歌にもすぐに親しんだものと思われ、舒明の皇后となった宝皇女の長歌と反歌を載せておく。

 

八隅知之(やすみしし)我大王乃(わがおほきみの)朝庭(あしたには)取撫賜(とりなでたまひ)夕庭(ゆふべには)伊縁立之(これよりたちし)御執乃(みとらしの)梓弓之(あづさのゆみの)奈加弭乃(なかはずの)音為奈利(おとがなるなり)朝獵尓(あさがりに)今立須良思(いまたたすらし)暮獵尓(ゆふがりに)今他田渚良之(いまたたすらし)御執能(みとらしの)梓弓之(あづさのゆみの) 奈(いかんせん)加弭乃(くわえるはずの)音為奈里(おとがするなり)【万1-3】

 

玉剋春(たまきはる)内乃大野尓(うちのおほのに)馬數而(うまかずに)朝布麻須等六(あさふますらむ)其草深野(そのくさふかの)【万Ⅰ-04】

 

あさ・ふ 【浅ふ】:思慮が浅い。浅はかである。

(狩りにでかけたあなたを、浅はかとお思いでしょうが、馬数も多く、草も深くて見分けがつきません)

 

さらに、『万葉集』巻一第五番、六番に「軍王」と称する人物が舒明天皇の行幸に供奉した際に作った和歌が収録されており、この「軍王」を「こにきしのおおきみ」と読み、豊璋のことではないかと見る説がある。

 

豊璋の渡来時期は、『日本書紀』によれば舒明天皇3年(631年)3月であるが、また、皇極天皇元年(642年)1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」とその家族および高官が島に放逐され、4月にその翹岐らが大使として倭国に来朝したとされており、翹岐=豊璋同一人物説においては当然、この時に倭国に渡来したとされている。

なお、『書紀』には既に孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席しているとある。

豊璋は日本と百済の主従関係を担保する人質ではあるものの、倭国側は多蒋敷(おおのこもしき:太安万侶の祖父)の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は決して悪くはなかった。

 

編集者たちが、ここに軍王の歌を置いたのは、孝徳の時代を【雑歌】として挿入したかったのかもしれない。

 

そして次に額田王が登場してくるのだが、その歌は難訓であり惑わされることも多いが読み下してみる。(斉明天皇5年3月3日 - 近江の平浦に行幸:(659年・宝66歳。額田22))

 

金野乃(きんののの)美草苅葺(みくさかりふき)屋杼礼里之(やどれりし)兎道乃宮子能(とみのみやこの)借五百磯所念(かりほきおもゆ)【万07】

熟田津尓(にきたつに)船乗世武登(ふなのりせむと)月待者(つきまてば)潮毛可奈比沼(しほもかなひぬ)今者許藝乞菜(いまはこぎけな)【万08】

 

「斉明天皇7年(661年・68歳)1月14日 - 伊予の熟田津の石湯行宮に泊まるとあり、この時額田は24歳であろうか?」

 

莫囂圓隣之(まごおりし)大相七兄爪謁氣(おそなへそへき)吾瀬子之(わがせこが)射立為兼(いたちせりけむ)五可新何本(いつかしがもと)【万09】

 

「斉明天皇4年(658年・65歳)5月 - 皇孫の建王が8歳で薨去し、天皇は甚だ哀しみ、10月15日 - 紀温湯に行き、この歌は、額田が21歳の頃だと思われ、大海人48・十市5歳の頃と推量するが、宝皇女には(まご)は【真子】でなく【孫】と聞こえたに違いない」

 

次の題辞には、【中皇命の紀の温泉に徃(い)ませる時の御歌】があり、その(三首)うちの一首が次の歌である。

 

01 0010 君之齒母(きみがよも)吾代毛所知哉(わがよもしるや)磐代乃(いはしろの)岡之草根乎(をかのくさねを)去来結手名(いざむすびてな)

 

まさにこの歌は、皇孫の建王を哀悼している歌のように思えるが、万11・12については、倭姫王作だと思う。

01 0011 吾勢子波(わがせこは)借盧作良須(かりほつくらす)草無者(かやなくは)小松下乃(こまつがしたの)草乎苅核(かやをからさね)

 

01 0012 吾欲之(わがほりし)野嶋波見世追(のしまはみせつ)底深伎(そこふかき)阿胡根能浦乃(あごねのうらの)珠曽不拾(たまぞひろはず)

或頭云 吾欲(わがほりし)子嶋羽見遠(こしまはみしを)

 

【右撿山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌云〃】とあるけれど、この【万11・12】は、舒明天皇の孫であり、天智天皇の皇后になる倭姫王 (やまとのひめみこ)の歌なのである。

01 0013 中大兄近江宮御宇天皇三山歌

01 0013 高山波(たかやまは)雲根火雄男志等(うねびををしと)耳梨與(みみなしよ)相諍競伎(あひあらそひき)神代従(かむよより)如此尓有良之(かくにあるらし)古昔母(いにしへも)然尓有許曽(しかにあれこそ)虚蝉毛(うつせみも)嬬乎相(つまをさがしに)挌良思吉(うつろはしきよ)

 

01 0014 反歌

01 0014 高山与(たかやまよ)耳梨山与(みみなしやまよ)相之時(あひしとき)立見尓来之(たちみにきたし)伊奈美國波良(いなみくにはら)

 

以上の【万13・14】は皇太子の時の歌だが、次の【万15】は、近江京での歌であろうと思われる。

 

01 0015 渡津海乃(わたつみの)豊旗雲尓(とよはたくもに)伊理比紗之(いりひさし)今夜乃月夜(こよひのつきよ)清明己曽(さやにあけこそ)

 

つまり、時代は飛鳥から近江に富んでいることになるのだが、『日本書紀 斉明紀』にある皇子の挽歌を載せておく。

 

枳瀰我梅能(きみがうよ)姑裒之枳舸羅儞(こほしきからに)婆底々威底(はててヰて)舸矩野姑悲武謀(かくやくひたむ)枳瀰我梅弘報梨(きみがめぐほり)

 

 う【宇】:天下。天地四方。世界

よ 【世・代】:(人の)一生。生涯。時代。時分。時。御代。治世。政治。国政。

こほ・し 【恋ほし】:慕わしい。恋(こい)しい。懐かしい。

から-に:〔原因・理由〕…ために。ばかりに。

はて 【果て】:喪の終わり。そのときの仏事。四十九日や一周忌の法会。

かくや【斯くや】: その様子を こうだろうと想像することを表わす。

『姑』の字には少なくとも、姑(コ)・ 姑(ク)・ 姑(しゅうとめ)・ 姑(しゅうと)・ 姑く(しばらく)の5種の読み方が存在する。

(くひ)ではあるが、恐らく(くい )【悔い】(後悔。悔やむこと)のことだと思う。

『武』の字には少なくとも、武(ム)・ 武(ブ)・ 武(もののふ)・ 武し(たけし)の4種の読み方が存在する。

『謀』の字には少なくとも、謀(ム)・ 謀(ボウ)・ 謀(はかりごと)・ 謀る(はかる)の4種の読み方が存在する。

た・む 【溜む】:とどめておく。とめる。

 『弘』の字には少なくとも、弘(コウ)・ 弘(グ)・ 弘める(ひろめる)・ 弘い(ひろい)の4種の読み方が存在する。

めぐ・し 【愛し・愍し】いたわしい。かわいそうだ。

ほ・る 【惚る・恍る】:(放心して)ぼんやりする。茫然(ぼうぜん)となる。

 

「あなたの時代が恋しいばかりだが、法会もすみ、こうして今、悔やみの言葉も出てくる、今はあなたをいたわしく思い、気落ちしている」

 宝皇女は、生前から言っていることは、「国が破れ、人が追われても、漢詩だけは詠い続けられ、今に至っているのだ。

同じように5・7の倭歌も、文化と学問を広げ、多くの言葉を集めて、われらの証とすれば、われらの死後も後世に伝わっていくであろう」