萬葉集Ⅰ(1-53)②天智・天武、そして持統

01 0016 近江大津宮御宇天皇代 天命開別天皇謚曰天智天皇

01 0016 天皇詔内大臣藤原朝臣競憐春山萬花之艶秋山千葉之彩時額田王以歌判之歌

01 0016 冬木成(ふゆこもり)春去来者(はるさりくれば)不喧有之(なかざりし)鳥毛来鳴奴(とりもきなきぬ)不開有之(さかざりし)花毛佐家礼杼(はなもさけれど)山乎茂(やまやしげ)入而毛不取(いりてもとらず)草深(くさふかみ)執手母不見(とりてもみざる)秋山乃(あきやまの)木葉乎見而者(このはをみては)黄葉乎婆(もみぢをば)取而曽思努布(とりてぞしのふ)青乎者(あをきをば)置而曽歎久(おきてぞなげく)曽許(そのもとは)之恨之(これぞうらめし)秋山吾者(あきやまわれは)

 

額田王のこの歌は、【不喧】(なかず)と【不開】(さかず)の冬ごもりから、春・夏を経て、秋へ移り行く映像は、墨絵の漢詩を彩色の倭(やまと)歌に変えたようである。

01 0017 額田王下近江國時作歌井戸王即和歌

01 0017 味酒(うまざけの)三輪乃山(みわのやまなり)青丹吉(あをによし)奈良能山乃(ならよきやまの)山際(やまぎはに)伊隠萬代(いかくるまでに)道隈(みちのくま)伊積流萬代尓(いつもるまでに)委曲毛(つばらにも)見管行武雄(みつつゆかむを)數〃毛(しばしばも)見放武八萬雄(みさけむやまを)情無(こころなく)雲乃(くもはすなはち)隠障倍之也(かくさふべしや)

 

01 0018 反歌

01 0018 三輪山乎(みわやまを)然毛隠賀(しかもかくすか)雲谷裳(くもだにも)情有南畝(こころあらなも)可苦佐布倍思哉(かくさふべしや)

01 0018 右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰 遷都近江國時 御覧三輪山御歌焉 日本書紀曰 六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江

 

01 0019 綜麻形乃(そまかたの)林始乃(はやしのさきの)狭野榛能(さのはりの)衣尓著成(きぬにつくなす)目尓都久和我勢 (めにつくわがせ )

01 0019 右一首歌今案不似和歌 但舊本載于此次 故以猶載焉

 

井戸王 の歌とされているのだが、母とともに近江京へ行く光景は、十市皇女にしてみれば、恰も輿入れするような心境だったろうと思う歌意ではなかろうか?

01 0020 天皇遊獵蒲生野時額田王作歌

01 0020 茜草指(あかねさす)武良前野逝(むらさきのゆき)標野行(しめのゆき)野守者不見哉(のもりはみずや)君之袖布流 (きみがそでふる)

01 0021 皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇

01 0021 紫草能(むらさきの)尓保敝類妹乎(にほへるいもを)尓苦久有者(にくくうし)人嬬故尓(ひとづまゆゑに)吾戀目八方 (あれこひめやも)

01 0021 紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦於獵蒲生野 于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉

 

もちろん、恋歌ではなくざれ歌であるが、このことを編者達もわかっていたかのようにここへ持ってきたのであろう。

というのも、この最初の1巻は【雑歌】だが、ここから壬申の乱を経て、時代が天智から天武へと移るにあたり、配分にも苦慮したのかもしれない。

01 0022 明日香清御原宮天皇代 天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇

01 0022 十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巖吹芡刀自作歌

01 0022 河上乃(かはのべの)湯都盤村二(ゆついはむらに)草武左受(くさむさず)常丹毛冀名(つねにもがもな)常處女煮手(とこをとめにて)

01 0022 吹芡刀自未詳也 但紀曰 天皇四年乙亥春二月乙亥朔丁亥十市皇女阿閇皇女参赴於伊勢神宮

 

根拠はないのだが、この吹黄刀自 (ふきのとじ)は十市皇女だと思い、歌意をくみ取ったのは、大友が亡くなり早4年の月日が経ち、幸せだったころを懐かしみ、【常処女】を願ったように思える。

01 0023 麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌

01 0023 打麻乎(うつあさや)麻續王(をみのおほきみ)白水郎有哉(あまありや)射等篭荷四間乃(いらこのしまの)珠藻苅麻須(たまもかります)【万23】

01 0024 麻續王聞之感傷和歌

01 0024 空蝉之(うつせみの)命乎惜美(いのちををしみ)浪尓所濕(なみにとふ)伊良虞能嶋之(いらごのしまの)玉藻苅食 (たまもかりはむ)

01 0024 右案日本紀曰 天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯 三位麻續王有罪流于因幡 一子流伊豆嶋 一子流血鹿嶋也 是云配于伊勢國伊良虞嶋者 

 

麻續王(生没年不詳)は、美努王(橘諸兄の父:?-708)だという説があり、離婚した妻:橘 三千代(665?- 733)は、再婚して藤原不比等の妻になるのだ。

恐らく、天武4年4月17日(675年5月19日)には狩猟・漁獲の方法を制限し、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止しており、それに触れたものであろう。

とはいえ、天武天皇10年(681年)には、天皇の命令を受けて川島皇子らとともに『帝紀』及び上古における事柄の記録・校定に従事している。(『日本書紀』には三野王)

後に完成した『日本書紀』(中臣大嶋)編纂事業の開始なのだが、稗田阿礼(額田王)にも帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせて、後に筆録されて『古事記』となったのである。

01 0025 天皇御製歌

01 0025 三吉野之(みよしのの)耳我嶺尓(みわたすみねに)時無曽(ときなしぞ)雪者落家留(ゆきはおちける)間無曽(まなしだぞ)雨者零計類(あめもふりける)其雪乃(そのゆきの)時無如(ときなしがごと)其雨乃(そのあめの)間無如(まもなしがごと)隈毛不落(くもおちず)念乍叙来(おもひなしくる)其山道乎(そのやまみちを)

 

01 0026 或本歌

01 0026 三芳野之(みよしのの)耳我山尓(みわたすやまに)時自久曽(ときじくぞ)雪者落等言(ゆきはおつとい)無間曽(むげんとぞ)雨者落等言(あめもおつとい)其雪(そのゆきの)不時如(ふじなるごとく)其雨(そのあめの)無間如(むげんのごとく)隈毛不堕(くもおちず)思乍叙来(おもひなしくる)其山道乎(そのやまみちを)

01 0026 右句〃相換 因此重載焉

 

【万25・26】は、天智天皇10年(671年) 重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移った時の歌だが、大意は同じで推敲されたのが、わかりやすい【万25】のかもしれない。

 

01 0027 天皇幸于吉野宮時御製歌

01 0027 淑人乃(よきひとの)良跡吉見而(よしとよくみて)好常言師(よしといし)芳野吉見与(よしのよくみよ)良人四来三(よきひとよくみ)

01 0027 紀曰 八年己卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮

 

これは、天武天皇8年(679年) 吉野に行幸し、皇后・草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせた、「吉野の盟約」の時の歌であろう。

『万葉集』は、天智の時代は、引き続き額田が中心だったとおもうが、恐らく、倭姫王(やまとひめのおおきみ、生没年不詳)も加わっていたように思う。

とはいえ、編集を任されたのではなく、宝皇女の遺志を受け継いでいたもので、天武の時代になって、それを広く知らしめて整理させたのである。

 

天武天皇4年(675年)2月9日には畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、4月23日に彼ら才芸者に禄を与えた。

さらに、10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出し、後に完成した『日本書紀』編纂事業の開始と言われている。

このとき、、稗田阿礼(額田王)に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせており、これが、後に筆録されて『古事記』となるのである。

この時点で、歌の収集および整理は、鸕野讚良(うののさらら、持統天皇)に受け継がれ、政策の一環としても、文化の興隆に励んだに違いない。

 天武14年(685年)9月15日には、優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、15年(686年)1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えている。

01 0028 藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇 元年丁亥十一年譲位軽太子 尊号曰太上天皇 01 0028 天皇御製歌

01 0028 春過而(はるすぎて)夏来良之(なつきたるらし)白妙能(しろたへの)衣乾有(ころもほしたり)天之香来山(あめのかぐやま)

 

この歌は『万葉集』の中でも、美しく優れていると思い、訓む限りにおいt、「大津の事件」をたくらんだ人とは思えない。

『日本書紀』は、持統天皇を「深沈で大度(たいど:こころがひろいこと)」・「礼を好み節倹(せっけん:質素であること)」・「母の徳あり」などとしている。

確実に持統天皇作と言えるのは、「春過ぎて…」(1-28)、及び天武天皇崩時の挽歌三首(2-159/160/161)、あわせて四首であるが、2-162もほぼ持統御製とされて動かない。

 

02 0159 天皇崩之時大后御作歌一首

02 0159 八隅知之(やすみしし)我大王之(わごおほきみの)暮去者(ゆふされば)召賜良(めしたまふらし)明来者(あけくれば)問賜良志(とひたまふらし)神岳乃(かむをかの)山之黄葉乎(やまのもみちを)今日毛鴨(けふもかも)問給麻思(とひたまはまし)明日毛鴨(あすもかも)召賜萬旨(めしたまはまし)其山乎(そのやまを)振放見乍(ふりさけみつつ)暮去者(ゆふされば)綾哀(あやにかなしみ)明来者(あけくれば)裏佐備晩(うらさびくらし)荒妙乃(あらたへの)衣之袖者(ころものそでは)乾時文無(ほすときもなし)

 

02 0160 一書曰 天皇崩之時太上天皇御製歌二首

02 0160 燃火物(もゆるほも)取而褁而(とりてつつみて)福路庭(ふくろには)入澄不言八(いるといはずや)面智男雲(つらさになくも)    

 

02 0161 向南山(むなしさに)陳雲之(つらなるくもの)青雲之(あをくもの)星離去(ほしならびゆく)月矣離而 (つきいならびて)

 

おそらくこの二首(万160・161)は、額田王の挽歌であるように思えるのだが、「青空が、星空になり月夜になっていく」のが伺えるのだ。

 

02 0162 天皇崩之後八年九月九日奉為御齋會之夜夢裏習賜御歌一首 古歌集中出

02 0162 明日香能(あすかよき)清御原乃(きよみがはらの)宮尓(みやなりき)天下(あめがくだると)所知食之(しらしめゆ)八隅知之(やすみしれし)吾大王(わごおおの)高照日之皇子(たかしひのみこ)何方尓所(かくしとこ)念食可(おもひはべらし)神風乃(かむかぜの)伊勢能國者(いせのくにには)奥津藻毛(おきつもも)靡足波尓(なびたるなみに)塩氣能味(しおけのみ)香乎礼流國尓(かをれるくにき)味凝(あぢこごる)文尓乏寸(あやにともしき)高照日之御子(たかしひのみこ) 

 

天武天皇は、15年(686年)5月24日に病気になり、仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ね、9月9日に病死した。

殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、持統天皇2年(688年)11月21日に大内陵に葬った。

ところが、持統天皇3年(689年)3月13日に草壁皇子が死んだため、皇后が即位(690年)したのである。

なお題字は、「天皇の崩りまししの後八年、九月九日の奉為の御齋会の夜、夢の裏に習ひたまう」

即位の後、大赦を行い、持統は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。

ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになったのだが、 持統天皇の治世は、天武天皇の政策を引き継ぎ、完成させるものであり、飛鳥浄御原令の制定と藤原京の造営が大きな二本柱であったという。