長屋王の変

『続日本紀』の記述によると、神亀6年(729年)2月10日、左京の住人である従七位下の漆部君足(ぬりべのきみたり)と、無位の中臣宮処東人(みやこのあづまひと)が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告した。

天皇はその夜、使を派遣して三関(不破関・鈴鹿関・愛発関)を固守させ、それをうけて藤原宇合らが六衛府の軍勢を率いて、平城京左京三条二坊の長屋王の邸宅を包囲させた。

この密告の対象となる具体的な内容は、前年に夭折した基王を呪い殺したことであったものと見られる。

なお、『兵防令』差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力動員にあたっては、事前に聖武天皇の許可を得ていたことがわかる。

つまり、素性の殆ど明らかでない者たちを密告者の仕立て上げ、天皇と藤原兄弟が仕組んだ計画であることは明らかである。

翌日、大宰大弐正四位上多治比真人県守・左大弁正四位上石川朝臣石足・弾正尹従四位下大伴宿禰道足をかりに参議とし、巳時(午前十時頃)、一品舎人親王・新田部親王・大納言従二位多治比真人池守・中納言正三位藤原武智麻呂。右中弁小野朝臣牛養・少納言外従五位下巨勢朝臣宿奈麻呂らを長屋王宅に派遣し、王の罪を糾問したとある。

その時にどのようなやりとりがあったのかは伝わってはいないが、翌12日、長屋王を自殺させたとあり、およびその妻で二品(ほん)の吉備内親王と所生の諸王らも首をくくって死んだと記されている。

『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。

 

従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。 

旅人が危惧していたであろうことが起こったにもかかわらず、かつての恋人であり、実の妹を、なぜ元正太上天皇は救うことができなかったのであろう?

おそらく、元正にも、その不穏な動きはわかっていたはずであるのだが、その信用を裏切った人者がいたとしか言いようがない。

それが聖武天皇であり、何よりも、藤原房前そのひとであったかもしれないが、すべてが後の祭りでしかなかったのであろう。

しかし、『万葉集』はその事実を訴えるかのように、長屋王の無念を歌で、訴えている人たちがいるのだ。

16 3836 謗椄人歌一首[佞人を謗れる歌一首]

16 3836 奈良山乃(ならやまの)兒手柏之(このてがしはの)兩面尓(ふたおもに)左毛右毛(かにもかくにも)椄人之友(つぐひとのとも)

 

『謗』の字には少なくとも、謗(ボウ)・ 謗(ホウ)・ 謗る(そしる)・ 謗り(そしり)の4種の読み方が存在する。

このて-かしは 【側柏・児の手柏】:木の名。葉は表裏の区別がなく、小枝は手のひらを広げたような形状をしている。

『椄』の字には少なくとも、椄(セツ)・ 椄(ジョウ)・ 椄(ショウ)・ 椄ぐ(つぐ)の4種の読み方が存在する。

ところがほかの文献では、【椄人】ではなく、【佞人】にしており、『佞』の字には少なくとも、佞(ネイ)・ 佞(デイ)・ 佞(よこしま)・ 佞う(へつらう)・ 佞る(おもねる)の5種の読み方が存在する。

ねい‐じん【佞人】:口先巧みにへつらう、心のよこしまな人。佞者。 

 

16 3836 右歌一首博士背奈行文大夫作之[右の歌一首は、博士背奈行文大夫作れり]

高句麗系渡来人を集めて霊亀2年(716年)に新設された、武蔵国高麗郡に居住していた背奈 行文(せな の ゆきふみ:生没年不詳享年62歳)は、上洛して学問を生かして朝廷に仕えた。

養老5年(721年)正七位上・明経第二博士のとき、学業優秀として賞され、神亀4年(727年)正六位上から従五位下に昇叙される。

『懐風藻』に五言詩を2首『秋日於長王宅宴新羅客』(賦得風字)719年・『上巳禊飲応詔』(じょうしのけいいんにみことのりにおうず)を残している。 

 

禊飲(読み)けいいん:三月上巳の日、みそぎして飲宴する。 上巳(じょうし、じょうみ)とは、五節句の一つで、旧暦の3月3日は桃の花が咲く季節であることから、桃の節句(もものせっく)とも呼ばれる。   

 

  上巳禊飲応詔  背奈 行文

皇慈被萬國      天皇の地合いはすべての国に行き渡り

帝道沾群生      帝王の政治はすべての人々に恵みを垂れる

竹葉禊庭滿      竹の葉は禊の庭に満ちて

桃花曲浦輕      桃の花は池の岸辺に軽やかに咲いている 

雲浮天裏麗      めでたい雲は溝きょに浮かんで麗しく

樹茂苑中榮      樹々は茂って紫苑の中に繁茂している

自顧試庸短      自ら顧みて庸短(ようたん)を試みる

何能繼叡情      何ぞよく叡情(えいじょう)を継がん

 

てい‐どう ‥ダウ【帝道】:天子が国家・人民を治める正しい道。

上巳は3月3日の行事だが、天皇をほめたたえてはいるけれど、その最後には「大きく広い心を継ぐことができようか!」というのであり、まるで長屋王の政治を引き継げるのか!と問いただしているようだ。

03 0313 土理宣令歌一首

刀利 宣令(とり の せんりょう/みのり/のぶよし、生没年不詳):養老5年(721年)元正天皇の詔により佐為王・紀男人・日下部老(?-732)・山田三方・山上憶良・紀清人・越智広江・山口田主・楽浪河内・土師百村・塩屋吉麻呂らとともに、退朝後に教育係として皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍することを命じられている

 

03 0313 見吉野之(みよしのの)瀧乃白浪(たぎのしらなみ)雖不知(しらねども)語之告者(かたりしつげば)古所念(ふるきとおもふ)

08 1470 刀理宣令歌一首

08 1470 物部乃(もののふの)石瀬之社乃(いはせのもりの)霍公鳥(ほととぎす)今毛鳴奴香(いまもなかぬか)山之常影尓(やまのとかげに)

 

岩瀬の森:歌枕(うたまくら)。今の奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町竜田(たつた)の森。紅葉、呼ぶ子鳥、ほととぎすの名所として多く歌に詠み込まれた。

やま【山】 の 常影(とかげ):いつも山のかげになっていて日の当たらない所。

 

『懐風藻』には長屋王との親交を示す『秋日於長王宅宴新羅客』(賦得風字)719年・『賀五八年』と題する五言律詩が収録されている。 

「五八」は、年齢四〇のお祝い事だが、もし長屋王の40歳を祝ったものであるなら、生誕 が天武天皇5年(676年)か13年(684年)とあり、716年と724年にあたる。

しかし、『懐風藻』には宣令の享年を59歳と記してあり、彼自身が58歳を感慨深く詠ったものであると思われ、因みに長屋王は46歳か54歳で自殺させられており、その年なら越えてはいるのだが・・・。

そして万葉集も、いつ頃のことかはっきりしないが、【語之告者 古所念】は意味深であるが、ことに万1470の、(いまもなかぬか)に、長屋王の無念さを思わずにはいられない。

 

   賀五八年  土理宣令

縦賞青春日     思い切り楽しんだ青春時代

相期白髪年     その時に白髪の年まで長生きしようと約束した  

清生百万聖     清水は百万年にひとりの聖人を生み

岳出半千賢     岳土は五百人に一人の賢人を生むという

下宴当時宅     宴を下す当時の宅

披雲楽広天     雲を披く広楽の天

茲時尽清素     この時ことごとく清楚

何用子雲玄     何ぞ用いん子雲の玄                   

        

子雲は、中国前漢時代末期の文人・博学多才の学者。

玄とは、老荘の説いた哲理で、奥深い道理

広楽や子雲のように清廉潔白なことを詠っており、古人を引き合いに出して長屋王を称えているのである。  

ところで、『懐風藻』にはもう一つ、伊吉 古麻呂(いき の こまろ)作の五言詩『賀五八宴』があるけれど、その履歴には聖武朝の天平元年(729年)長屋王の変後に行われた叙位にて従五位上に、天平4年(732年)下野守に叙任されたとあるが、その詩は長屋王とは関係ないように思えるが、宣令に同調して詠われたのかもしれない。

 

  賀五八宴   伊吉 古麻呂

 晩秋長貴戚     万秋貴戚に長らえ

五八表遐年     五八の過年を表す

真率無前後     真率(しんそつ)前後なく

鳴求一愚賢     鳴求賢愚を一にす

令節調黄地     令節黄地(こうち)を調え

寒風変碧天     寒風碧天に変わる

已応螽斯徴     已に螽斯(しゅうし)の微に応じ

何須顧太玄     何ぞ須らく太玄を顧みん                           

しん‐そつ【真率】:まじめで飾りけがないこと。また、そのさま。

しゅう‐し【螽斯】:キリギリス・イナゴの類で、子孫繁栄 しかしここは【螽斯の微】ではなく、【螽斯の徴】とした文献が意味をなすかも。 

08 1637 太上天皇 御製歌一首

08 1637 波太須珠寸(はだすすき)尾花逆葺(をばなさかふき)黒木用(くろきもち)造有室者(つくれるむろは)迄萬代(よろづよまでに)

08 1638 天皇 御製歌一首

08 1638 青丹吉(あをによし)奈良乃山有(ならのやまなる)黒木用(くろきもち)造有室者(つくれるむろは)雖居座不飽可聞(いませあかずも)

 

『雖』の字には少なくとも、雖(ユイ)・ 雖(スイ)・ 雖(イ)・ 雖も(いえども)の4種の読み方が存在する。

『居』の字には少なくとも、居(コ)・ 居(キョ)・ 居(キ)・ 居る(おる)・ 居く(おく)・ 居る(いる)の6種の読み方が存在する。

『座』の字には少なくとも、座(ザ)・ 座(サ)・ 座る(すわる)・ 座す(います)の4種の読み方が存在する。

雖(イ)+ 居る(いる)+座す(います)=(います)

『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。

『飽』の字には少なくとも、飽(ホウ)・ 飽きる(あきる)・ 飽かす(あかす)の3種の読み方が存在する。

『可』の字には少なくとも、可(コク)・ 可(カ)・ 可い(よい)・ 可し(べし)の4種の読み方が存在する。

『聞』の字には少なくとも、聞(モン)・ 聞(ブン)・ 聞こえる(きこえる)・ 聞く(きく)の4種の読み方が存在する。

不(…ず)+ 飽かす(あかす)+可(カ)=(あかず)

 

08 1638 右聞之御在左大臣長屋王佐保宅肆宴 御製[右は、聞かく「左大臣長屋王の佐保の宅に御在せる肆宴(とよのあかり)のきこしめす御製なり」といへり]とあるが、天皇はいざ知らず、太上は長屋王一家を偲んでいるように思えるのだ。

つまり、元正は、主なき屋敷へ、聖武を連れて行き、ともに挽歌を捧げることにしたように思えてならない。 

ただここで振り返ってみるに、前章での太上天皇の歌【万4437】には、だれであろうと故人への想いは同じになるのかもしれないけれど、長屋王・吉備内親王一家の無念さが、【安乎祢之奈久母(あをねしなくも)】に刻まれているような気がより一層してくる。