旅人と妻女郎女

聖武天皇は神亀4年(727年)11月に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。

なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加しておらず、前代未聞の生後1ヶ月余りでの立太子を不満とし、反対の姿勢を明確に示した様子が窺われる。

神亀5年(728年)頃大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任することになるが、60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であり、この任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事だとされており、それを知ってのことか、『懐風藻』に旅人の漢詩が一首記されている。

五言 初春侍宴「初春 宴に侍る」大伴旅人

 

寛政情既遠「寛政(かんせい)の情は既に遠く」 

迪古道惟新「迪古(てきこ)の道は惟(これ)あらたし」

穆々四門客「穆々(ぼくぼく)たる四門の客」

済々三徳人「済々(せいせい)たる三徳の人」

梅雪乱残岸「梅雪(ばいせつ)残岸に乱れ」

烟霞接早春「烟霞(えんか)早春に接す」

共遊聖主澤「共に遊ぶ聖主の澤(たく)」

同賀撃壌仁「同じく賀す撃壌(げきじょう)の仁」

 

寛政:寛大な政治

迪古:古を踏襲すること

穆々:恭しいこと

四門客:優れた王の噂を聞いて、諸国から使いが来るのである。

三徳人:正直.剛毅・柔軟などの徳を備えた人

乱残菊:池の崩れた岸辺に散っている

澤:天野の恩恵を言う

同賀:同じく言祝ぐこと

撃壌仁:老人が楽器の壌を打って平和を喜んだ故事がある。

 

寛大な政治は昔から続いているが

 それを踏襲する道は、常に新しい

 恭しくも、諸国から人があつまり

 多くの、徳のある人がやってくる

 梅は雪のごとく乱れ、岸に残りし

 立ち込めた霞が、早春に連なりて

 共に遊ぶのも 聖主の恩恵である 

  同じく賀して、撃壌の仁になるや 

赴任して間もなく、旅人は妻大伴郎女を亡くし、その歌が万葉集にあるが、このショックは大きかったようではあるが、子はなしていない。

04 0553 丹生女王贈大宰帥大伴卿歌二首[丹生女王の大宰帥大伴卿に贈れる歌二首]

04 0553 天雲乃(あまくもの)遠隔乃極(とおきのきはみ)遠鷄跡裳(とほけども)情志行者(こころしゆくも)戀流物可聞(こふるものかも)

 

『遠』の字には少なくとも、遠(オン)・ 遠(エン)・ 遠い(とおい)・ 遠(おち)の4種の読み方が存在する。

『隔』の字には少なくとも、隔(ケキ) 隔(キャク)・ 隔(カク)・ 隔てる(へだてる)・ 隔たるへだたるの5種の読み方が存在する。

こ・ふ 【乞ふ・請ふ】:(神仏に)祈り願う。祈り求める。

ものかも:軽い疑問の気持をこめた詠嘆を表わす。

 

04 0554 古人乃(ふるひとの)令食有(よきしょくありし)吉備能酒(きびのさけ)病者為便無(やみもすべなし)貫簀賜牟(ぬきすたまはむ)

 

『令』の字には少なくとも、令(レイ)・ 令(リョウ)・ 令い(よい)・ 令(おさ)・ 令(いいつけ)の5種の読み方が存在する。

ぬき-す 【貫簀】:手を洗うとき、水が飛び散らないように、たらいの上などに置いた。

 

この歌を相聞歌にしているけれど、そうではなく、旅人の妻の死にお悔やみを述べ、次に、酒で気を紛らして飲みすぎなさらないように、体をいたわってくださいよと、その身を心配しているのだ。

 

というのも、次のような歌がつづいており、旅人の酒好きは世間に知れ渡っていたことだろう。

04 0555 大宰帥大伴卿贈大貳丹比縣守卿遷任民部卿歌一首(729)[大宰帥大伴卿の大弐丹比県守卿の民部卿に遷任するに贈れる歌一首

 

04 0555 為君(きみがため)醸之待酒(かみしまちさけ)安野尓(やすののに)獨哉将飲(ひとりやのまむ)友無二思手(ともなしにして)

08 1472 式部大輔石上堅魚朝臣歌一首

08 1472 霍公鳥(ほととぎす)来鳴令響(きなきとよもす)宇乃花能(うのはなの)共也来之登(ともにやこしと)問麻思物乎(とはましものを)

 

きなき-とよも・す 【来鳴き響もす】:やって来て鳴き声をひびかせる。

 

08 1472 右神龜五年戊辰大宰帥大伴卿之妻大伴郎女遇病長逝焉 于時 勅使式部大輔石上朝臣堅魚遣大宰府弔喪并賜物也 其事既畢驛使及府諸卿大夫等共登記夷城而望遊之日乃作此歌[右は神亀五年戊辰に大宰府の長官大伴旅人卿の妻の大伴郎女が病を得て身まかった。 その時朝廷は使者、式部大輔の石上朝臣堅魚を大宰府に派遣して弔問し旅人に物を与えた。 その事がすんで、駅使や大宰府の官人らがいっしょに記夷の城に登って眺望を楽しんだ日に、この歌を作った

 

08 1473 大宰帥大伴卿和歌一首[大宰帥大伴卿の和へたる歌一首]

08 1473 橘之(たちばなの)花散里乃(はなちるさとの)霍公鳥(ほととぎす)片戀為乍(かたこひしつつ)鳴日四曽多寸(なくひしぞおほき)

08 1474 大伴坂上郎女思筑紫大城山歌一首[大伴坂上郎女の筑紫の大城の山を偲へる歌一首]

08 1474 今毛可聞(いまもかも)大城乃山尓(おほきのやまに)霍公鳥(ほととぎす)鳴令響良武(なきとよむらむ)吾無礼杼毛(われなけれども)

08 1475 大伴坂上郎女霍公鳥歌一首[大伴坂上郎女の霍公鳥の歌一首]

08 1475 何奇毛(なにしかも )幾許戀流(ここだくこふる)霍公鳥(ほととぎす)鳴音聞者(なくこゑきけば)戀許曽益礼(こひこそまされ)

 

ここ-だ 【幾許】:こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。

妻を亡くした旅人のもとへ、異母妹の大伴坂上郎女が赴き、子息の家持(10)・書持(ふみもち)を養育したに違いない。

 

08 1484 大伴坂上郎女歌一首[大伴坂上郎女の歌一首]

08 1484 霍公鳥(ほととぎす)痛莫鳴( いたくななきそ)獨居而(ひとりゐて)寐乃不所宿(いのねらえぬに)聞者苦毛(きけばくるしも)

 

い-の-ね-らえ-ぬ-に 【寝の寝らえぬに】:眠れないときに。寝ることができないでいると。

03 0438 神龜五年戊辰大宰帥大伴卿思戀故人歌三首[神亀五年戊辰。大宰帥大伴卿の故人を思恋へる歌三首]

03 0438 愛(いとしきは)人之纒而師(ひとのまきてし)敷細之(しきたへの)吾手枕乎(わがたまくらを)纒人将有哉(まとひあらむや)

 

『愛』の字には少なくとも、愛(エ)・ 愛(アイ)・ 愛でる(めでる)・ 愛(まな)・ 愛しい(かなしい)・ 愛しむ(おしむ)・ 愛い(うい)・ 愛しい(いとしい)の8種の読み方が存在する。

『纒』の字には少なくとも、纒(テン)・ 纒(まとい)・ 纒める(まとめる)・ 纒う(まとう)・ 纒わる(まつわる)・ 纒る(まつる)の6種の読み方が存在する。

『人』の字には少なくとも、人(ニン)・ 人(ジン)・ 人(ひと)の3種の読み方が存在する。 纒(まとい)+ 人(ひと)=(まとひ)

将:[音】ソウ(呉)ショウ(漢)[訓]たか、すすむ、かつり、もって、ひきい-る、まさ、はた、まさ-に、ゆき、む(表外)

03 0438 右一首別去而経數旬作歌[右の一首は、別去にて数旬を経て作れる歌なり]

 

03 0439 應還(かへるべく)時者成来(ときはなりけり)京師尓而(みやこにて)誰手本乎可(たがたもとをか)吾将枕(わがまくらかむ)

 

まくらく:枕として使う。

 

03 0440 在京(みやこなる)荒有家尓(あれたるいへに)一宿者(ひとりねば)益旅而(たびにまさりて)可辛苦(くるしかるべし)

 03 0440 右二首臨近向京之時作歌[右の二首は、近く京に向ひし時に臨みて作れる歌なり]とあり、二首は帰途の日(729年11月)が近づくにあたり歌ったというが、【万438】には常日頃の想いがつたわってくる。

03 0300 長屋王駐馬寧樂山作歌二首[長屋王の馬を寧楽山に駐めて作れる歌二首

03 0300 佐保過而(さほすぎて)寧樂乃手祭尓(ならのたましき)置幣者(おくぬさも)妹乎目不離(いもをめかれず)相見染跡衣(あひみしころも)

03 0301 磐金之(いはがねの)凝敷山乎(こごしきやまを)超不勝而(こしたえず)哭者泣友(なくもなけども)色尓将出八方(いろにでむやも)

 

長屋王が、旅人を大宰府への赴任を許可した経緯はわからないが、房前と同じくらいの信頼があったはずである。

しかもその任地で、旅人の妻女がなくなったとすれば、当然のようにそのお悔やみを述べてもおかしくないはずなのだ。

 

この二首は、何の説明もなければ、長屋王自身の歌かもしれないが、佐保の近くに旅人の屋敷があり、作宝楼にも顔を出し親しく付き合っていたことをおもうと、妻女への挽歌であっても不思議ではないのだ。

ところで、ここでどうしても疑問が浮かばざるを得ないことは、旅人の妻女である大伴郎女の歌がないことである。

ただ、【京職藤原大夫贈大伴郎女歌三首(522~524)卿諱曰麻呂也】とあり、【大伴郎女和歌四首(525~528)】が続き、【又大伴坂上郎女歌一首(529)】が載せられている。

この中の一首が旅人の妻女、大伴郎女の歌としてこの章の最後を飾っておく。

 

 将来云毛(こむいふも)不来時有乎(こぬときあるを)不来云乎(こずいふを)将来常者不待(こむとはまたず)不来云物乎(こずいふものを)

 

将:[音] ソウ(呉) ショウ(漢)[訓] たか、すすむ、かつり、もって、ひきい-る、まさ、はた、まさ-に、ゆき、む(表外 )

乎:[音] オ・ゴ(呉)コ(漢)[訓] か、ああ、かな、や、よ、を

『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在するが、「じ」のよみはないが、「じ」は、「む」の打消の推量・意志であり、万葉仮名は【不】を用いてる。

不:漢文の否定表現は、「~せず」と読み、 送り仮名が「レバ」のときは「~ざれば」と読みます。

また、「ぬ」の基本的な意味は完了だが、否定(打消)の「ぬ」というのは「ず」という打消の助動詞の連体形だからややこしい。

とはいえ、こんなにウィットにとんだ歌だからこそ、旅人が選んだ妻女と言えるのだが、坂上郎女だからこそともいえるのだ。

ところがこの言い回しに似た歌が憶良の【筑前國志賀白水郎歌十首】の中にあり、その歌を下記に記す。

 

16 3861 荒雄良乎(あらをらを)将来可不来可等(こむかこじかと)飯盛而(いひもりて)門尓出立(かどにいでたち)雖待来不座(まてどきまさず)

 

将来可不来可等】なんだけれど、あまり参考にはならないかもしれないが、もしこの言い回しが一般化されてのこだとしても、旅人と妻女の仲睦まじさが想像できるってもんだ。