人麻呂挽歌

ここで人麻呂の挽歌からピックアップできるのは、明日香皇女(?-700)【万Ⅱ-196~198】・泣血哀慟の妻(生没年不詳)【万Ⅱ-207-212・216】・吉備津釆女(生没年不詳)【万Ⅱ-217-219】・土形娘子(生没年不明)【万Ⅲ-428】・出雲娘子(生没年不詳)【万Ⅲ-429・430】の5人になるが、妻は除外しても良いのかもしれない。

02 0196 明日香皇女木缻殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌

02 0196 飛鳥(とぶとりの)明日香乃河之(あすかのかはの)上瀬(かみつせの)石橋渡(いはばしわたり)一云石浪(いしなみわたり)下瀬(しもつせの)打橋渡(うちはしわたり)石橋(いはばしに)一云石浪(いしなみに)生靡留(おひしなびける)玉藻毛叙(たまももし)絶者生流(たゆるもはえる)打橋(うちはしに)生乎為礼流(せいをつくれる)川藻毛叙(かはももし)干者波由流(かかるもはゆる)何然毛(なにしかも)吾王能(わごおほきみの)立者(たたしむも)玉藻之母許呂(たまものもころ)臥者’ふさしむも)川藻之如久(かはものごとく)靡相之(なびかひし)宜君之(よろしききみが)朝宮乎(あさみやを)忘賜哉(わすれたまふや)夕宮乎(ゆふみやを)背賜哉(そむきたまふや)宇都曽臣跡(うつそみと)念之時(おもひしときぞ)春部者(はるべにも)花折挿頭(はなをりかざし)秋立者(あきたつも)黄葉挿頭(もみぢばかざし)敷妙之(しきたへの)袖携(そでたづさはり)鏡成(かがみなす)雖見不猒(みれどもあかず)三五月之(もちづきの)益目頬染(まめにほほそむ)所念之(とおもひし)君与時〃(きみよときどき)幸而(さいはいに)遊賜之(あそびたまひし)御食向(みけむかふ)木缻之宮乎(きのへのみやを)常宮跡(とこみやと)定賜(さだめたまひて)味澤相(あじさはふ)目辞毛絶奴(めこともたえぬ)然有鴨(しかりかも)一云所己乎之毛(とこをしも)綾尓憐(あやにかなしみ)宿兄鳥之(やどりして)片戀嬬(かたこひづまの)一云 為乍(かたこひしつつ)朝鳥(あさとりの)一云朝霧(あさぎりの)徃来為君之(ゆききすきみが)夏草乃(なつくさの)念之萎而(おもひしなえて)夕星之(ゆふつつの)彼徃此去(かゆきかくゆき)大船(おほぶねの)猶預不定見者(なよきまらずも)遣悶流(けもだえる)情毛不在(こころもあらず)其故(それゆゑに)為便知之也(すべしこれなり)音耳母(おとのみも)名耳毛不絶(なのみもたへず)天地之(あめつちの)弥遠長久(いやとほながく)思将徃(おもひはゆ)御名尓懸世流(みなにかかせる)明日香河(あすかがわ)及万代(およびよろずよ)早布屋師(はしきやし)吾王乃(わがおほきみの)形見何此焉(かたみかここを)

 

02 0197 短歌二首

02 0197 明日香川(あすかがわ)四我良美渡之(しがらみわたし)塞益者(せかませば)進留水母(すすめるみずも)能杼尓賀有萬思(のどにかうまし)一云水乃(すすめるみずの)与杼尓加有益(よどにかうまし)

    

02 0198 明日香川(あすかがは)明日谷将見等(あすだにみむと)一云左倍(あすさへみむと)念八方(おもへやも)一云念香毛(おもへかも)吾王(わごおほきみの)御名忘世奴(みなわすれせぬ)一云御名不所忘(みなわすらえぬ) 

明日香皇女(あすかのひめみこ:?-700)は、天智天皇皇女で、忍壁皇子(おさかべ の みこ:?-705)の妻とする説がある。

持統天皇(645-703)6年(692年)8月17日に持統天皇が明日香皇女の田荘(別荘)に行幸した。

持統天皇8年(694年)8月17日に明日香皇女の病気平癒のために沙門104人を出家させたが、文武天皇4年(700年)、浄広肆の位で4月4日に死去し、文武天皇は使いを遣わして弔ったとあり、殯の折に柿本人麻呂が、夫との夫婦仲の良さを詠んだ挽歌を捧げたという。

02 0217 吉備津采女死時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌

02 0217 秋山(あきやまの)下部留妹(したへるいもの)奈用竹乃(なよたけの)騰遠依子等者(とをよるこらも)何方尓(いづかたに)念居可(おもひいるべし)栲紲之(こうせつの)長命乎(ながきいのちを)露己曽婆(つゆこそは)朝尓置而(あしたにおきて)夕者(ゆふべにも)消等言(きゆるといへども)霧己曽婆(きりこそは)夕立而(ゆふべにたちて)明者(あしたにも)失等言(うせるといへど)梓弓(あづさゆみ)音聞吾母(おときくわれも)髣髴見之(ほのかみし)事悔敷乎(ことくやしきを)布栲乃(しきたへの)手枕纒而(たまくらまきて)劔刀(つるぎたち)身二副寐價牟(みにそへねけむ)若草(わかくさの)其嬬子者(そのつまのこも)不怜弥可(さびからず)念而寐良武(おもひてぬらむ)悔弥可(くやむべし)念戀良武(おもひこふらむ)時不在(ときあらず)過去(すごしてゆかむ)子等我(こらわれと)朝露乃如也(あさつゆのごと)夕霧乃如也(ゆふぎりのごと)

 

02 0218 短歌二首

02 0218 樂浪之(ささなみの)志我津子等何(しがつのこらが)一云 志我乃津之子我(しがのつのこが)罷道之(まかりぢの)川瀬道(かはせのみちを)見者不怜毛 (みるもぶしも)

 

02 0219 天數(あまのかわ)凡津子之(およそつのこの)相日(あひしひは)於保尓見敷者(おほきけしきも)今叙悔(いましくやしき)

 

吉備津采女(きびつの-うねめ:生没年不詳):飛鳥(あすか)時代の女官で、 吉備国津郡出身の采女という。

近江(おうみ)朝廷につかえ,ゆるされない結婚をしたため罰せられ,自殺したとされるのだが、この伝説の采女を歌にしたのである。

03 0428 土形娘子火葬泊瀬山時柿本朝臣人麻呂作歌一首

03 0428 隠口能(こもりくの)泊瀬山之(はつせのやまの)山際尓(やまあいに)伊佐夜歴雲者(いさやへるくも)妹鴨有牟(いもかもあらむ)

 

こもりく-の 【隠り口の】:大和の国の初瀬(はつせ)の地は、四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから、地名の「初(=泊)瀬」にかかる。

『際』の字には少なくとも、際(セイ)・ 際(サイ)・ 際わる(まじわる)・ 際(きわ)・ 際(あい)の5種の読み方が存在する。

やま-あひ 【山間】:山と山との間。山間(さんかん)。

『尓』の字には少なくとも、尓(ジ)・ 尓(シ)・ 尓(ギ)・ 尓(キ)の4種の読み方が存在するが、その異体字が、【爾】([音]ジ(漢)ニ(呉)[訓]なんじ・それ・その)

いさ-や:さあ、ねえ。そうですねえ。

へる【経る/▽歴る】 :その場所を通る。通過する。経由する。

『雲』の字には少なくとも、雲(ウン)・ 雲(くも)の2種の読み方が存在する。

『者』の字には少なくとも、者(シャ)・ 者(もの)の2種の読み方が存在する。

雲(くも)+者(もの)=(くも)

 

土形娘子 (ひじかたの-おとめ:生没年不詳) 奈良時代の女性。 土形氏の女性とも,遠江(とおとうみ)(静岡県)城飼(きこう)郡土形出身の采女(うねめ)ともいわれ、死後大和(やまと)(奈良県)の泊瀬(はつせ)の山で火葬にされたのだが、これを持統の挽歌にするには物足りない。

03 0429 溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌二首

03 0429 山際従(やまきわゆ)出雲兒等者(いづものこらも)霧有哉(きらふかな)吉野山(よしののやまの)嶺霏霺(みねにひびなり)

 

従:[音]ジュ(呉)ショウ(漢)ジュウ(慣)[訓]したが-う・したが-える(表内)より・よ-る・ゆ(表外)

『霧』の字には少なくとも、霧(モ)・ 霧(ム)・ 霧(ボウ)・ 霧(ブ)・ 霧(きり)の5種の読み方が存在する。

『有』の字には少なくとも、有(ユウ)・ 有(ウ)・ 有つ(もつ)・ 有る(ある)の4種の読み方が存在する。

霧(きり)+ 有る(ある)=(きらふ)

きら・ふ 【霧らふ】:(霧・霞などが)辺り一面に立ちこめる。

人麻呂があえて用いた【霏霺】は、(たなびく)ではなく、(ひび)と訓むべきではないだろうか? 霏霺:細かいものが飛び散るさま

 

03 0430 八雲刺(やくもさす)出雲子等(いづものこらの)黒髪者(くろかみも)吉野川(よしののかはの)奥名豆颯(おきになづさふ)

 

こ-ら 【子等・児等】:特に若い女性を親しんで呼び、「ら」は親愛の気持ちを表す接尾語。 おき 【熾・燠】:赤くおこった炭火。

おき 【沖】:(海・湖・川などの)岸から遠く離れた所。

なづさ・ふ:水にもまれている。水に浮かび漂っている。

人麻呂のなかでは、この二重の(おき)を重ねて、(なづさふ)ていたということであろうかと思ってみたりする。

 

始め、吉野と出雲をイメージさせたこの歌を持統の挽歌に想起していたけれど、どうみてもこの歌には異様さが感じられ、まるで怨念を鎮めようとしてるかのようでふさわしくないように思うと、どうしても明日香皇女の挽歌に持統を見出してしまう。

殯宮(もがりのみや)は、仮埋葬の期間に行われる喪儀(殯)の宮だが、天武天皇の喪儀は2年2か月に及び、持統天皇の場合は1年、文武天皇の例では5か月、元明(げんめい)天皇は6日となっており、その期間には長短がある。

 

 とぶとりの あすかのかはの かみつせの いはばしわたり しもつせの うちはしわたり いはばしに おひしなびける たまももし たゆるもはえり うちはしに いのちつくれる かはももし かかるもはえる (たゆるもはえり)【万196】

 

このように終わっていたかもしれない、皇女の挽歌だが、この後に持統への思いが綴られるのである。

 

なにしかも わごおほきみの たたしむも たまものもころ ふさしむも かはものごとく なびかひし よろしききみが あさみやを わすれたまふや ゆふみやを そむきたまふや うつそみと おもひしときぞ はるべにも はなをりかざし あきたつも もみぢばかざし しきたへの そでたづさはり かがみなす みれどもあかず もちづきの まめにほほそむ とおもひし きみよときどき さいはいに あそびたまひし 【万196】

 

なにしか【何しか】 も:どうしてまた(…なのか)。なぜまた(…するのか)。

おほ-きみ 【大君】は、「親王・内親王・王・王女の尊敬語」ではあるけれど、ここでは持統天皇を歌ったものである。

さい-はひ 【幸ひ】:運よく。折よく。ちょうど。

あそび 【遊び】:神前での歌舞や音楽。神遊び。神楽(かぐら)。

 

みけむかふ きのへのみやを とこみやと さだめたまひて あじさはふ めこともたえぬ しかりかも あやにかなしみ やどりして かたこひづまの  あさとりの ゆききすきみが なつくさの おもひしなえて ゆふつつの かゆきかくゆき おほぶねの なよきまらずも けもだえる こころもあらず それゆゑに すべしこれなり おとのみも なのみもたへず あめつちの いやとほながく おもひはゆ みなにかかせる あすかがわ およびよろずよ 【万196】

 

あぢ-さはふ:「目」にかかる。語義・かかる理由未詳。

め‐ごと【目言】:《古くは「めこと」とも》会って直接話すこと。

ゆき‐き【行(き)来/往き来】:行ったり来たりすること。

かたこい‐づま【片恋夫・片恋妻】は、「亡くなった配偶者を恋い慕っている」わけだけれど、そのお相手は天武天皇ということになる。

かゆき‐かくゆき【彼行き此く行き】:あっちへ行ったり、こっちへ行ったりして。

 

はしきやし わごおほきみの かたみかここを 【万196】

 

はしき-やし 【愛しきやし】:ああ、いとおしい。なつかしい。いたわしい。

かた‐み【形見】 : 過去を思い出させるもの。

 

1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇陵に合葬されたが、その陵は、野口王墓(のぐちのおうのはか)であり、奈良県高市郡明日香村にある古墳である。

宮内庁により「檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)」として第40代天武天皇・第41代持統天皇の陵に治定されている。

とはいうものの、明日香皇女(?-700)の殯期間が3年も経つはずはないので、持統天皇(645-703)との期間が空きすぎることになる。 

ところが、【03  雜歌】の【万235】中に人麻呂と忍壁皇子の歌が、重なっておかれているのに気づいたのである。

 

03 0235 天皇御遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首

03 0235 皇者(おうといふ)神二四座者(かみはすはりし)天雲之(あまくもの)雷之上尓(いかづちのへに)廬為流鴨(いほりつくるか)【万235-Ⅰ】

 

王(おうといふ)神座者(かみはいますも)雲隠(くもがくる)伊加土山尓(いかづちやまに)宮敷座(みやしきいます)【万235-Ⅱ】

03 0235 右或本云獻忍壁皇子也 其歌曰

 

つまり、【万235-Ⅰ】が人麻呂の持統天皇への挽歌であり、【万235-Ⅱ】は忍壁皇子の持統に対する挽歌なのである。

 

持統天皇は柿本人麻呂に、天皇を賛仰(さんぎょう)する歌を作らせ、彼女が死ぬまで「宮廷詩人」として勤め上げたが、その後は地方官僚に転じたとある。

一方の忍壁皇子は、持統天皇10年(696年)高市皇子が没すと、天武天皇の諸皇子の中で最年長となり皇族の代表的存在となったのである。

ところが、持統朝において彼の事績は伝わらないことから、持統天皇に嫌われて不遇をかこっていたところを、藤原不比等の入知恵で甥の文武天皇擁立を支持し、ようやく政界復帰したとする主張がある(黒岩重吾)けれど、妃明日香皇女と持統天皇の関係を見ればそうとは思えない。

文武朝(697年)に入り、文武天皇4年(700年)6月に藤原不比等らと大宝律令の選定を命じられ、翌大宝元年(701年)8月に完成させた。

またこの時に大宝令による位階制の導入により三品に叙せられており、大宝2年(702年)12月に持統上皇が崩御(703年)すると、若い文武天皇の補佐を目的に、大宝3年(703年)正月に忍壁親王は知太政官事に就任して太政官の統括者となったところを見ると、上皇として君臨していた持統に恩義を感じていたと思われるのだ。