旅人 挽歌

しかしここで忘れてはならないのが、旅人と房前の宿題『梧桐の日本琴一面』ではないだろうか?

天平2年(730年)9月には大納言・多治比池守が薨去と大官が次々と没したことから、旅人は太政官において臣下最高位となり(太政官の首班は知太政官事・舎人親王)、同年11月に大納言に任ぜられて帰京したのだ。

 

長屋王の変直後・[藤原武智麻呂首班体制]

 知太政官事  舎人親王  

 大納言    藤原武智麻呂   

  〃     大伴旅人  

 中納言    阿倍広庭  

 参議     藤原房前  

 権参議    多治比県守   

  〃     石川石足   

  〃     大伴道足

 

もちろん、元正にも房前とも会っているはずであるが、長屋王の真相について語られたかどうかはわからない。 

旅人は、翌天平3年(731年)正月に従二位に昇進するが、まもなく病を得て7月25日に薨去(享年67)した。

03 0454 天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨之時歌六首[天平三年(731)辛未。秋七月に、大納言大伴卿の薨りし時の歌六首]

03 0454 愛八師(はしきやし)榮之君乃(さかえしきみの)伊座勢婆(いましせば)昨日毛今日毛(きのふもけふも)吾乎召麻之乎(わをめさましを)

03 0455 如是耳(かくのみに)有家類物乎(ありけるものを)芽子花(はぎのはな)咲而有哉跡(さきてありやと)問之君波母(とひしきみはも )

03 0456 君尓戀(きみにこひ)痛毛為便奈美(いたもすべなみ)蘆鶴之(あしたづの)哭耳所泣(ねのみしなかゆ)朝夕四天(あさよひにして)

03 0457 遠長(とほながく)将仕物常(つかへむものと)念有之(おもへりし)君師不座者(きみしまさねば)心神毛奈思(こころどもなし)

03 0458 若子乃(みどりこの)匍匐多毛登保里(はひたもとほり)朝夕(あさよひに)哭耳曽吾泣(ねのみぞあなく)君無二四天(きみなしにして)

03 0458 右五首資人(しじん:つかいびと)余明軍不勝犬馬之慕心中感緒作歌[右の五首は資人の余明軍(よみょうぐん)が犬馬のように旅人を慕い、心の悲嘆を歌ったものである]

 

03 0459 見礼杼不飽(みれどあじ)伊座之君我(いまししきみが)黄葉乃(もみちばの)移伊去者(うつりいゆけば)悲喪有香(かなしみもよし)

 

『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在するが、万葉仮名の(じ)と訓。

『飽』の字には少なくとも、飽(ホウ)・ 飽きる(あきる)・ 飽かす(あかす)の3種の読み方が存在する。

不レ飽→飽きる(あきる)+不(じ)=(あじ)

あ-じ 【阿字】:梵語(ぼんご)の字母の一番目で、宇宙の根元は本来空(くう)で不生不滅であることを表すとされる。

『喪』の字には少なくとも、喪(ソウ)・ 喪(も)・ 喪ぼす(ほろぼす)・ 喪びる(ほろびる)・ 喪う(うしなう)の5種の読み方が存在する。

『有』の字には少なくとも、有(ユウ)・ 有(ウ)・ 有つ(もつ)・ 有る(ある)の4種の読み方が存在する。

喪(も)+有つ(もつ)=(も)

香:[音]コウ(呉)キョウ(漢)[訓]か、かお-り、かお-る(表内)こお、よし(表外)

 

03 0459 右一首勅内礼正縣犬養宿祢人上使撿護卿病 而醫藥無驗逝水不留 因斯悲慟即作此歌[右の一首は、朝廷が内礼正県犬養宿禰人上(ひとかみ)に命じて旅人の病気を看護させたが、薬効なく旅人は薨去した。そこで人上が、悲しんでこの歌を作った]

05 0884 大伴君熊凝歌二首 大典麻田陽春作(731)

陽春が詠んだ漢詩(五言詩)1首『懐風藻』:『和藤江守詠稗叡山先考之旧線禅処柳樹之作』

05 0884 國遠伎(くにとほき)路乃長手遠(みちのながてを)意保〃斯久(おほほしく)計布夜須疑南(けふやすぎなむ)己等騰比母奈久(ことどひもなく)

05 0885 朝露乃(あさつゆの)既夜須伎我身(けやすきあがみ)比等國尓(ひとくにに)須疑加弖奴可母(すぎかてぬかも)意夜能目遠保利(おやのめをほり)

05 0886 敬和為熊凝述其志歌六首[敬みて熊凝の為に其の志を述べたる歌に和へたる六首]并序〔并せて序〕 筑前國守山上憶良

 

大伴 熊凝(おおとも の くまごり、714 - 731年)は、奈良時代の地方官吏で、肥後国益城郡(熊本県上益城郡・下益城郡などにあたる)の人。

天平3年6月27日(731年7月21日)、18歳の時、相撲使の官位名前不明の肥後国国司の従者になり、都に向かっているが、天運に幸を与えられずに、道中にあって疾病にかかり、そのまま安芸国佐伯郡高庭(現在の広島県廿日市市大野高畑と推定されている)の駅家にてみまかったと言い、 その長歌【万886】の後の5首を載せておく。

 

05 0887 多良知子能(たらちしの)波〃何目美受提(ははがめみずて)意保〃斯久(おほほしく)伊豆知武伎提可(いづちむきてか)阿我和可留良武(あがわかるらむ)

05 0888 都祢斯良農(つねしらぬ)道乃長手袁(みちのながてを)久礼〃〃等(くれくれと)伊可尓可由迦牟(いかにかゆかむ)可利弖波奈斯尓(かりてはなしに)一云 可例比波奈之尓(かれひはなしに)

05 0889 家尓阿利弖(けにありて)波〃何刀利美婆(ははがとりみば)奈具佐牟流(なぐさむる)許〃呂波阿良麻志(ころはあらまし)斯奈婆斯農等母(しなばしぬとも) 一云 能知波志奴等母(のちはしぬとも)

05 0890 出弖由伎斯(いてゆきし)日乎可俗閇都〃(ひをかぞへつつ)家布〃〃等(けふけふと)阿袁麻多周良武(あをまたすらむ)知〃波〃良波母(ちちははらはも)一云 波〃我迦奈斯佐(ははがかなしさ)

05 0891 一世尓波(ひとよには)二遍美延農(ふたたびみえぬ)知〃波〃袁(ちちははを)意伎弖夜奈何久(おきてやながく)阿我和加礼南(あがわかれなむ)一云 相別南(あひわかれなむ)

 

この歌がいつ頃の作成かわからないが、天平3年7月25日(731年8月31日)には、旅人が死去しており、その前後には、親しかった憶良のもとにも便りも届いていたことであろう。

5歳ほど年上の憶良にとって、その一刻一刻は胸に突き刺さる想いであったかもしれず、この歌は旅人への二重写しであるように思い、それこそ挽歌である。

09 1764 七夕歌一首 并短歌

09 1764 久堅乃(ひさかたの)天漢尓(てんかんしかり)上瀬尓(かみつせに)珠橋渡之(たまはしわたし)下湍尓(しもつせに)船浮居(ふねをうけすゑ)雨零而(あめふりて)風不吹登毛(かぜふかずとも)風吹而(かぜふきて)雨不落等物(あめふらずとも)裳不令濕(もぬらさず)不息来益常(やまずきませと)玉橋渡須(たまはしわたす)

 

天 漢(てんかん):銀河。天の川。

尓:[音] ニ(呉)ジ(漢)[訓]なんじ、しかり、その、のみ

 

09 1765 反歌

09 1765 天漢(あまのがは)霧立渡(きりたちわたる)且今日〃〃〃(けふけふと)吾待君之(あがまつきみし)船出為等霜(ふなですらしも)

09 1765 右件歌或云中衛大将藤原北卿宅作也[右の件(くだり)の歌は、或は云はく「中衛大将藤原北卿の宅の作なり」といへり]

 

この歌は七夕となっているが、もちろんそこには旅人と房前の姿があり、房前の想いが前面に出ており、挽歌と言ってもよいのではないかと思う。

 

裳不令濕(もぬらさず)不息来益常(やまずきませと)玉橋渡須(たまはしわたす)】は、どんな思いであったろう。

 

そしてまた、【吾待君之(あがまつきみし)船出為等霜(ふなですらしも)】には、すごい孤独感が伝わってくる。

06 0971 四年壬申藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連蟲麻呂作歌一首[天平四年(732)壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さえし時に、高橋連虫麻呂の作れる歌一首] 并短歌〔并せて短歌〕

06 0971 白雲乃(しらくもの)龍田山乃(たつたのやまの)露霜尓(つゆしもに)色附時丹(いろづくときに)打超而(うちこえて)客行公者(たびゆくきみは)五百隔山(いほへやま)伊去割見(いゆくさきみし)賊守(あたまもる)筑紫尓至(つくしにいたり)山乃曽伎(やまのそき)野之衣寸見世常(ののそきみよと)伴部乎(とものへを)班遣之(あかちつかはし)山彦乃(やまびこの)将應極(こたへむきはみ)谷潜乃(たにぐくの)狭渡極(さわたるきはみ)國方乎(くにかたを)見之賜而(みしたまわりて)冬木成(ふゆきなる)春去行者(はるさりゆかば)飛鳥乃(とぶとりの)早御来(はやくきまさね)龍田道之(たつたぢの)岳邊乃路尓(をかへのみちに)丹管士乃(につつじの)将薫時能(にほはむときの)櫻花(さくらばな)将開時尓(さきなむときに)山多頭能(やまたづの)迎参出六(むかへまゐでむ)公之来益者(きみしきまさば)

 

客:[字訓] まろうど・たびびと

あた 【仇・敵・賊】:敵。外敵。

そき【▽退き】:遠く離れた場所。遠隔の地。果て。

あか・つ 【頒つ・班つ】:分ける。分配する。分散させる。

 

06 0972 反歌一首

06 0972 千萬乃(ちよろづの)軍奈利友(いくさなりとも)言擧不為(ことあげず)取而可来(とりてきぬべき)男常曽念(をとこぞおもふ )

 

こと-あげ 【言挙げ】:言葉に出して特に言い立てること。

『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。

『為』の字には少なくとも、為(イ)・ 為る(なる)・ 為す(なす)・ 為る(つくる)・ 為(ため)・ 為る(する)の6種の読み方が存在する。

不(…ず)+為る(する)=(ず)

『男』の字には少なくとも、男(ナン)・ 男(ダン)・ 男(おのこ)・ 男(おとこ)の4種の読み方が存在する。

『常』の字には少なくとも、常(ジョウ)・ 常(ショウ)・ 常(とこ)・ 常(つね)の4種の読み方が存在する。

男(おとこ)+ 常(とこ)=(おとこ)

06 0972 右撿補任文八月十七日任東山〃陰西海節度使[右は補任の文書を参照すると、八月十七日に東山・山陰・西海の節度使を任命するとある]

『懐風藻』詩番号93   藤原宇合

五言 奉西海道節度使之作[西海道の節度使を奉ずるの作]

往歳東山役         往歳 東山の役(719)

今年西海行         今年 西海の行(732)

行人一生裏         行人 一生の裏

幾度倦邊兵         幾度か 邊兵に倦む

 

虫麻呂の歌は、背中を押しているのだけれど、宇合の漢詩は飽き飽きしており、この漢詩を旅人は知る由もないと思うのだが、とりわけ、四兄弟の中で、武智麻呂の政権を支えた 人物であり、地方軍備体制の基礎をも築いていった。

06 0973 天皇賜酒節度使卿等御歌一首[天皇の、酒を節度使の卿等に賜へる御歌一首] 并短歌〔并せて短歌〕

06 0973 食國(をすくにの)遠乃御朝庭尓(とほのみかどに)汝等之(いましらの)如是退去者(かくしりぞくも)平久(たひらけく)吾者将遊(われはあそばむ)手抱而(たむだきて)我者将御在(われはいまさむ)天皇朕(すめろきの)宇頭乃御手以(うづのみてもち)掻撫曽(かきなでぞ)祢宜賜(ねぎたまはむと)打撫曽(うちなでぞ)祢宜賜(ねぎたまはむと)将還来日(かへらむひ)相飲酒曽(あひのむさけぞ)此豊御酒者(このとよみきは)

 

を・す 【食す】:お召しになる。召し上がる。▽「飲む」「食ふ」「着る」「(身に)着く」の尊敬語。

朝庭は、朝堂とともに朝政などの政務と朝儀とよばれる儀式の場であった。

いまし 【汝】:あなた。▽対称の人称代名詞。親しんでいう語。

にょ‐ぜ【如是】: かくのごとく、このように、の意。

『退』の字には少なくとも、退(トン)・ 退(タイ)・ 退く(ひく)・ 退ける(のける)・ 退く(のく)・ 退る(すさる)・ 退ける(しりぞける)・ 退く(しりぞく)・ 退る(しさる)の9種の読み方が存在する。

『去』の字には少なくとも、去(コ)・ 去(ク)・ 去(キョ)・ 去く(ゆく)・ 去く(のぞく)・ 去る(さる)の6種の読み方が存在する。

退く(しりぞく)+ 去(ク)=(しりぞく)

たひら-け・し 【平らけし】:穏やかだ。無事だ。

た-むだ・く 【拱く・手抱く】:両手を組む。何もしないで腕組みをする。

『朕』の字には少なくとも、朕(チン)・ 朕(ジン)・ 朕(われ)・ 朕し(きざし)の4種の読み方が存在する。

天皇(すめろき)+朕し(きざし)=(すめろき)

「すめろき」と「すめらぎ」は、皇祖もしくは皇祖から続く皇統を意味し、古より続く皇統の連続性を含んだ文脈で用いられる。

かき‐なで【×掻き×撫で】:うわべだけで、その本質にまでは至っていないこと。通り一遍。ひとわたり。

 

06 0974 反歌一首

06 0974 大夫之(ますらをの)去跡云道曽(ゆくあというぞ)凡可尓(おほろかに)念而行勿(おもひてゆくな)大夫之伴(ますらをのとも)

 

ますら‐お〔‐を〕【▽益▽荒▽男/丈=夫】: りっぱな男。勇気のある強い男。ますらたけお。ますらおのこ。

『道』の字には少なくとも、道(ドウ)・ 道(トウ)・ 道(みち)・ 道う(いう)の4種の読み方が存在する。

凡:[音]ボン(呉)ハン(漢)[訓]なみ、つね、およ-そ、おおよ-そ、すべ-て、ひろ-い、みな(表外)

『可』の字には少なくとも、可(コク)・ 可(カ)・ 可い(よい)・ 可し(べし)の4種の読み方が存在する。

06 0974 右御歌者或云太上天皇御製也[右の御歌は、或は云はく、太上天皇の御製なりといへり]

 

06 0975 中納言安倍廣庭卿歌一首

06 0975 如是為管(かくしつつ)在久乎好叙(あらくをよみぞ)霊剋(たまきめる)短命乎(みじかきいのちを)長欲為流(ながくほりする)

 

『剋』の字には少なくとも、剋(コク)・ 剋しい(きびしい)・ 剋む(きざむ)・ 剋める(きめる)・ 剋つ(かつ)の5種の読み方が存在する。   

 

この【万973・974】【万975】は、宇合にではなく、神亀5年(728年)大宰府に赴任したころの歌のような気がする。

そして奇しくも、ここに編集されたことによって、ちょっとした時代の錯誤かもしれないが、元正と広庭による、旅人への挽歌のように思えるのである。