長屋王 挽歌

03 0420 石田王卒之時丹生王作歌一首[石田王の卒(おわ)りし時に、丹生王の作れる歌一首](729年) 并短歌

03 0420 名湯竹乃(なゆたけの)十縁皇子(とをよるみこの)狭丹頬相(さにつらふ)吾大王者(わごおほきみは)隠久乃(こもりくの)始瀬乃山尓(はつせのやまに)神左備尓(かむさびに)伊都伎坐等(いつきいますと)玉梓乃(たまづさの)人曽言鶴(ひとぞいひつる)於余頭礼可(およづれか)吾聞都流(われはききつる)狂言加(たはことか)我聞都流母(わがききつるも)天地尓(あめつちに)悔事乃(くやしきことの)世間乃(よのなかの)悔言者(くやしきことは)天雲乃(あまくもの)曽久敝能極(そくへのきはみ)天地乃(あめつちの)至流左右二(いたれるまでに)杖策毛(つゑつきも)不衝毛去而(つかずもゆきて)夕衢占問(ゆふけとひ)石卜以而(いしうらもちて)吾屋戸尓(わがやどに)御諸乎立而(みもろをたてて)枕邊尓(まくらへに)齋戸乎居(いはひべをすゑ)竹玉乎(たかたまを)無間貫垂(まなくぬきたれ)木綿手次(ゆふだすき)可比奈尓懸而(かひなにかけて)天有(あまにある)左佐羅能小野之(ささらのをのの)七相菅(ななふすげ)手取持而(てにとりもちて)久堅乃(ひさかたの)天川原尓(あまのかはらに)出立而(いでたちて)潔身而麻之乎(みそぎてましを)高山乃(たかやまの)石穂乃上尓(いはほのうへに)伊座都類香物 (いませつるかも)

 

なよ-たけ 【弱竹】:細くしなやかな若竹。「なよだけ」「なゆたけ」とも。

とを-よ・る 【撓寄る】:しなやかにたわむ。

さに-つら・ふ 【さ丹頰ふ】:(赤みを帯びて)美しく映えている。ほの赤い。

いつき 【斎】:身心を清めて、神に仕えること。また、その場所。

たま-づさ 【玉梓・玉章】:使者。使い。

およづれ 【妖・逆言】:「妖言(およづれごと)」の略。人をまどわすことば。

そき-へ 【退き方】:遠く離れたほう。遠方。果て。「そくへ」とも。

み-もろ 【御諸・三諸・御室】:神が降臨して宿る神聖な所。磐座(いわくら)(=神の御座所)のある山や、森・岩窟(がんくつ)など。

たか‐だま【竹玉】:細い竹を輪切りにして、緒を通したもの。神事に用いる。

ささら 【簓・編竹・編木】:民俗芸能の楽器の一つ。

ななふ‐すげ【七節菅】: (「ふ」は節の意) 節が七つもあるような長いスゲ。

 

この歌を初めて訓み従ったとき、あまりにも衝撃を受け、万葉歌人にもロック歌手がいたのだと思ったが、丹生女王 (にうのおおきみ)だという。

天平十一年(739)正月、従四位下より従四位上に昇叙され、天平勝宝二年(750)八月、正四位上とあるが、この歌にはもっと大きなものが渦巻いている。

この万葉集の編集においては、石田王を長屋王の仮名とした場合、丹生王もしかりであり、長王の妃:安倍大刀自 (阿倍広庭の娘)だと思う。 

 

03 0421 反歌

03 0421 逆言之(およづれの)狂言等可聞(たはこととかも)高山之(たかやまの)石穂乃上尓(いはほのうへに)君之臥有(きみがこやせる )

 

およづれ 【妖・逆言】:「妖言(およづれごと)」の略。人をまどわすことば。

『逆』の字には少なくとも、逆(ゲキ)・ 逆(ギャク)・ 逆える(むかえる)・ 逆らう(さからう)・ 逆(さか)・ 逆め(あらかじめ)の6種しかなく、(さかごと)と訓。

こや・す【臥やす】:死者が横たわっていることについて、婉曲にいったもの。

 

 03 0422 石上(いそのかみ)振乃山有(ふるのやまなる)杉村乃(すぎむらの)思過倍吉(おもひすぐべき)君尓有名國 (きみにあらなくに) 

03 0423 同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首[同じ石田王の卒りし時に、山前王の哀傷びて作れる歌一首](729?)

山前王(やまくまおう/やまくまのおおきみ、生年不詳 - 723)は、忍壁皇子の子であり、石田王は兄弟だというのだが、この挽歌は長屋王のことであり、もちろん歌人は山前王ではなく、別の人物である。

 

03 0423 角障経(つのさはふ)石村之道乎(いはれのみちを)朝不離(あさからず)将歸人乃(おくらむひとの)念乍(おもひつつ)通計萬口波(かよひけまくは)霍公鳥(ほととぎす)鳴五月者(なくさつきにも)菖蒲(あやめぐさ)花橘乎(はなたちばなを)玉尓貫(たまにぬき)一云貫交(ぬきまじへ)蘰尓将為登(かづらにせむと)九月能(ながつきの)四具礼能時者(しぐれのときは)黄葉乎(もみちばを)折挿頭跡(をりかざさむと)延葛乃(はふくずの)弥遠永(いやとほながく)一云田葛根乃(たくずねの) 弥遠長尓(いやとほながに)萬世尓(よろづよに)不絶等念而(たえずとねんじ)一云大舟之(おほぶねの)念憑而(おもひたのみて)将通(かよひけむ)君乎婆明日従(きみをばあすゆ)一云 君乎従明日者(きみをあすゆも)外尓可聞見牟 (ほかにかもみむ)

 

 つのさはふ:「いは(岩・石)」「石見(いはみ)」「磐余(いはれ)」などにかかる。 あれ(村):ふれ。 石(いは)+村(あれ)=(いはれ)

「石村」は地名「いはれ(磐余)」の借訓であるが、「村」に「あれ」のあった証拠としているが、・・・。

『歸』の字には少なくとも、歸(ギ)・ 歸(キ)・ 歸ぐ(とつぐ)・ 歸る(かえる)・ 歸す(かえす)・ 歸る(おくる)の6種の読み方が存在する。

けま-く:…したであろうこと。

『而』の字には少なくとも、而(ノウ)・ 而(ニ)・ 而(ドウ)・ 而(ジ)・ 而(なんじ)・ 而れども(しかれども)・ 而るに(しかるに’・ 而も(しかも)・ 而してしかしての9種の読み方が存在する。

『憑』の字には少なくとも、憑(ボウ)・ 憑(ビョウ)・ 憑(ヒョウ)・ 憑る(よる)・ 憑く(つく)・ 憑む(たのむ)・ 憑る(かかる)の7種の読み方が存在する。

『外』の字には少なくとも、外(ゲ)・ 外(ガツ)・ 外(ガチ)・ 外(ガイ)・ 外(ウイ)・ 外(ほか)・ 外れる(はずれる)・ 外す(はずす)・ 外(と)・ 外(そと)の10種の読み方が存在する。

 03 0423 右一首或云柿本朝臣人麻呂(660-724)作

 

もちろん、山前王でも人麻呂でもなく、誰あろう、藤原房前その人しかいないように思えるのだ。

03 0441 神龜六年己巳左大臣長屋王賜死之後倉橋部女王作歌一首[神亀六年己巳(きし)。左大臣長屋王に死を賜ひし後に倉橋部女王の作れる歌一首

03 0441 大皇之(おほきみの)命恐(みことかしこみ)大荒城乃(あらきなる)時尓波不有跡(ときにはあらず)雲隠座(くもがくりまし)

 

『大』の字には少なくとも、大(ダイ)・ 大(ダ)・ 大(タイ)・ 大(タ)・ 大きい(おおきい)・ 大いに(おおいに)・ 大(おお)の7種の読み方が存在するのは確かだが、(おお‐あらき おほ‥)【大荒城・大殯】では、畏れ多くて訓読みせずに(あらき)と訓み、この【大】の置き字には憤懣が感じ取れる。

荒城(アラキ):貴人の本葬の前に仮に遺体を納めて祀ること。

『乃』の字には少なくとも、乃(ノ)・ 乃(ナイ)・ 乃(ダイ)・ 乃(アイ)・ 乃(の)・ 乃(なんじ)・ 乃ち(すなわち)の7種の読み方が存在する。

『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。

『有』の字には少なくとも、有(ユウ)・ 有(ウ)・ 有つ(もつ)・ 有る(ある)の4種の読み方が存在する。

『跡』の字には少なくとも、跡(セキ)・ 跡(シャク)・ 跡(あと)の3種の読み方が存在する。

有る(ある)+ 跡(あと)=(ある)

『座』の字には少なくとも、座(ザ)・ 座(サ)・ 座る(すわる)・ 座す(います)の4種の読み方が存在する。

 

この倉橋部女王と王の関係は不明だというのだが、まるで皇尊がなくなったような挽歌であれば、この歌は元正太上天皇その人のように思う。

 

03 0442 悲傷膳部王歌一首[膳部王を悲傷める歌一首

03 0442 世間者(よのなかは)空物跡(むなしきものと)将有登曽(あらむとぞ)此照月者(このてるつきは)満闕為家流(みちかけしける)

03 0442 右一首作者未詳

 

膳夫王(かしわでおう、皇位継承者)は、膳部王とも記されるが、左大臣・長屋王の変で、吉備内親王や弟たちとともに縊死したのである。

神亀6年(729年)の長屋王の変で父長屋王が自殺したとき、円方(まどかた)女王には罪が及ばなかったとあり、ひょっとしたら、作者未詳も倉橋部女王 (くらはしべのじょおう)もこの人なのかもしれないが、どちらも元正と見た方がすんなりする。

04 0529 又大伴坂上郎女歌一首[また、大伴坂上郎女の歌一首

04 0529 佐保河乃(さほがはの)涯之官能(きしのつかさの)少歴木莫苅焉(しばなかりそね)在乍毛(ありつつも)張之来者(はるしきたらば)立隠金(たちかくるがね)

 

きし【岸】 の 司(つかさ):岸の高くなっている所。

 

この「又は」とあるけれども、【万0525 大伴郎女和歌四首】の後に続くのだが、この歌だけは、2月に亡くなった長屋王を春になったら元気な姿をお見せくださいと歌っており、明らかに挽歌である。

05 0864 宜(吉田宜)啓 伏奉四月六日賜書 跪開封函 拜讀芳藻 心神開朗 似懐泰初之月 鄙懐除袪 若披樂廣之天 至若羈旅邊城 懐古舊而傷志 年矢不停 憶平生而落涙 但達人安排 君子無悶 伏冀 朝宣懐翟之化 暮存放龜之術 架張趙於百代 追松喬於千齡耳 兼奉垂示 梅苑芳席 群英摛藻 松浦玉潭 仙媛贈答 類杏壇各言之作 疑衡皐税駕之篇 耽讀吟諷 感謝歡怡 宜戀主之誠 誠逾犬馬 仰徳之心 心同葵藿 而碧海分地 白雲隔天 徒積傾延 何慰勞緒 孟秋膺節 伏願 萬祐日新 今因相撲部領使 謹付片紙 宜謹啓 不次 奉和諸人梅花歌一首[宜啓す。伏して四月六日の賜書を奉る。跪きて封函を開き、拝みて芳藻(ほうそう)を読む。心神は開朗にして、泰初が月を懐きしに似、鄙懐除袪(ひかいじょきょ)して、楽広(がくこう)が天を披きしが若し。 「辺城に羈旅し、古旧を懐ひて志を傷ましめ、年矢停らず、平生を憶ひて涙を落すが若きに至る」は、ただ達人の排に安みし、君子の悶(うれい)無きのみ。 伏して冀(ねが)はくは、朝には翟(きじ)を懐(なつ)けし化を宣べ、暮には亀を放ちし術を存し、張・趙を百代に架し、松・喬を千齢に追はむを。 兼ねて垂示を奉るに、梅苑の芳席に、群英の藻を摛(の)べ、松浦の玉潭に、仙媛(やまひめ)の贈答せるは、杏壇(きょうだん)各言の作に類ひ、衡皐税駕(こうこうぜいが)の篇に疑ふ。 耽読吟諷し、戚謝歡怡(せきしゃかんい)す。 宜の主を恋ふ誠は、誠、犬馬に逾え、徳を仰ぐ心は、心葵藿(きかく)に同じ。而も碧海は地を分ち、白雲は天を隔て、徒らに傾延を積む。 何に労緒を慰めむ。孟秋、節に膺れり。伏して願はくは万祐の日に新たならむを。 今相撲(すまひ)部領使(ことりづかい)に因りて、謹みて片紙を付く。宜、謹みて啓す。不次(ふじ) 諸人の梅花の歌に和へ奉れる一首]

 

05 0864 於久礼為天(おくれゐて)那我古飛世殊波(ながこひせずは)弥曽能不乃(みそのふの)于梅能波奈尓忘(うめのはなにも)奈良麻之母能乎 (ならましものを)

05 0865 和松浦仙媛歌一首[松浦の仙媛の歌に和へたる一首]

05 0865 伎弥乎麻都(きみをまつ)〃〃良乃于良能(まつらのうらの)越等賣良波(をとめらは)等己与能久尓能(とこよのくにの)阿麻越等賣可忘 (あまをとめかも)

05 0866 思君未盡重題二首[君を思ふこと尽きずして、重ねて題せる歌二首]

05 0866 波漏〃〃尓(はろはろに)於忘方由流可母(おもはゆるかも)志良久毛能(しらくもの)知弊仁邊多天留(ちへにへだてる)都久紫能君仁波(つくしのくには)

05 0867 枳美可由伎(きみがゆき)氣那我久奈理奴(けながくなりぬ)奈良遅那留(ならぢなる)志満乃己太知母(しまのこだちも)可牟佐飛仁家里(かむさびにけり)

05 0867 天平二年(730)七月十日

 

吉田宜(よしだよろし:生没年不詳)百済系の帰化渡来人 もとは僧で恵俊と称したが,文武天皇4(700)年8月20日勅命により還俗,姓を吉,名を宜と賜った。 和銅7(714)年正月,正六位下より従五位下へ,養老5(721)年1月27日には従五位上にあって医師師範としての功により賞賜を加えられた。

神亀1(724)年正月には吉田連の姓を賜り,天平2(730)年3月,学生に伝業し,同5年12月に図書頭,同9年9月に正五位下,同10年閏7月には典薬頭へと進んだ。

漢詩二首『五言 秋日於長王宅宴新羅客 賦得秋字』『五言 従駕吉野宮』あり、ここにも長王との接点がある。

この梅の花は、長屋王のことを訴えているようにも思え、それはまさに、主を失ったことを旅人と分かち合っている一連の歌なのであるが、とりわけ、万867には挽歌と言えるのじゃないかなぁ。

03 0370 安倍廣庭卿歌一首(729)

03 0370 雨不零(あめふらず)殿雲流夜之(とのぐもるよの)潤濕跡(うるおいし)戀乍居寸(こひつつをりき)君待香光(きみをまちこひ)

 

との-ぐも・る 【との曇る】:空一面に曇る。

『潤』の字には少なくとも、潤(ニン)・ 潤(ジュン)・ 潤びる(ほとびる)・ 潤す(うるおす)・ 潤う(うるおう)・ 潤む(うるむ)の6種の読み方が存在する。

『濕』の字には少なくとも、濕(トウ)・ 濕(ショウ)・ 濕(シュウ)・ 濕(シツ)・ 濕(ゴウ)・ 濕る(しめる)・ 濕す(しめす)・ 濕す(うるおす)・ 濕い(うるおい)の9種の読み方が存在する。

潤う(うるおう)+濕い(うるおい)=(うるおい)

『跡』の字には少なくとも、跡(セキ)・ 跡(シャク)・ 跡(あと)の3種の読み方が存在する。 

 

06 0975 中納言安倍廣庭卿歌一首

06 0975 如是為管(かくしつつ)在久乎好叙(あらくをよみぞ)霊剋(たまきはる)短命乎(みじかいのちを)長欲為流(ながくほっする)

 

08 1423 中納言阿倍廣庭卿歌一首

08 1423 去年春(こぞのはる) 伊許自而殖之(いこじてうゑし) 吾屋外之(わがやどの) 若樹梅者(わかきのうめは)花咲尓家里(はなさきにけり) 

 

これらの歌にも、長屋王がありありと浮かんでくるのだが、公言することはできないし、集まって語り合うようなことがあれば、犯罪とみなされるのだ。

 

阿倍 広庭(659-732):神亀元年(724年)聖武天皇の即位の前後に従三位に叙せられ[注釈 1]、神亀4年(727年)中納言に任ぜられる。

長屋王政権下では極端に議政官の移動が少ない中、広庭は非常に順調に昇進を果たしており、長屋王との関係が良好であったと見られる。

漢詩二首『五言春日侍宴』『五言秋日於長王宅宴新羅客』

 

神亀6年(729年)に発生した長屋王の変では、議政官が長屋王糾問に参画する中で広庭と藤原房前の二人のみがこれに加わらなかった。