万葉集Ⅱ『風土考』(くろひと)

元明天皇の詔により、各令制国の国庁が編纂し、主に漢文体で書かれたものなのだが、律令制度を整備し、全国を統一した朝廷は、各国の事情を知る必要があったため、『風土記』を編纂させ、地方統治の指針としたのである。

その一端を高市黒人が担ったと思える節があり、その足跡は、大和・山城・摂津・近江の畿内に加え、尾張・三河・越中の諸国にまで及んでいるのである。

持統・文武朝頃からの歌人である高市黒人は、県主(あがたぬし)氏族の一つで、古来大和国高市県(今の奈良県高市郡・橿原市の一部)を管掌した。

大宝元年(701)の太上天皇吉野宮行幸、同二年の参河国行幸に従駕して歌を詠んでおり、すべての歌が旅先での作と思われる。

下級の地方官人であったとみる説が有力だが、万葉集に十八首収められた作は、すべて短歌である。

 

01 0032 高市古人感傷近江舊堵作歌 或書云高市連黒人

01 0032 古人尓(ふるひとに)和礼有哉(われはありしや)樂浪乃(さざなみの)故京乎(ふるきみやこを)見者悲寸(みるもかなしき)

 

故地名】楽浪の旧き都 (さきなみのふるきみやこ )【故地説明】(旧堵<きうと>)近江の大津の宮のこと。    

 

01 0033 樂浪乃(さざなみの)國都美神乃(くにつみかみの)浦佐備而(うらさびて)荒有京(あれたるみやこ)見者悲毛 (みるもかなしも)

 

【故地名】楽浪(ささなみ)【故地説明】琵琶湖西南部一帯の地の総称。おおむね滋賀県大津市にあたる

 

01 0070 太上天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌

01 0070 倭尓者(やまとにも)鳴而歟来良武(なきてかくらむ)呼兒鳥(よぶこどり)象乃中山(きさのなかやま)呼曽越奈流 (よぶぞこゑなる)

 

【故地名】象の中山(きさのなかやま)【故地説明】象山のこと。(喜佐谷入口西側の山。宮滝から吉野川を隔てて南正面の山)

 

03 0305 高市連黒人近江舊都歌一首

03 0305 如是故尓(にょぜゆえに)不見跡云物乎(みずとふものを)樂浪乃(ささなみの)舊都乎(ふるきみやこを)令見乍本名(よみつもとのな)

 

にょ‐ぜ【如是】: かくのごとく、このように、の意。経典の冒頭に記される語。

『云』の字には少なくとも、云ウン・ 云ういうの2種の読み方が存在する。

ささなみ-の 【細波の・楽浪の】:琵琶(びわ)湖南西沿岸一帯を楽浪(ささなみ)といったことから、地名「大津」「志賀(しが)」「長等(ながら)」「比良(ひら)」などにかかる。 『舊』の字には少なくとも、舊(グ)・ 舊(ク)・ 舊(キュウ)・ 舊(もと)・ 舊びる(ふるびる)・ 舊い(ふるい)・ 舊る(ふる)の7種の読み方が存在する。

『令』の字には少なくとも、令(レイ)・ 令(リョウ)・ 令い(よい)・ 令(おさ)・ 令(いいつけ)の5種の読み方が存在する。

『見』の字には少なくとも、見(ゲン)・ 見(ケン)・ 見(カン)・ 見る(みる)・ 見せる(みせる・ 見える(みえる)・ 見える(まみえる)・ 見れる(あらわれる)の8種の読み方が存在する。

乍:[音]ジャ(呉) サ(漢)[訓]なが-ら・たちま-ち・な-す・つつ  

 

03 0305 右歌或本曰少辨作也 未審此少弁者也

 【故地名】近江の旧き都(おおみのふるきみやこ)【故地説明】(旧堵<きうと>)近江の大津の宮のこと

 

01 0058 何所尓可(いづくにか)船泊為良武(ふなはてすらむ)安礼乃埼(あれのさき)榜多味行之(こぎたみゆきし)棚無小舟(たななしをぶね)</strong>

01 0058 右一首高市連黒人

【故地名】安礼の崎(あれのさき)【故地説明】所在未詳。(1)愛知県豊川市御津町大字御馬字梅田の地、音羽川の旧河口の崎。(2)静岡県湖西市新居町の浜名湖西岸の出崎。(3)愛知県蒲郡市西浦町

 

03 0270 高市連黒人羈旅歌八首

つまり、ここからの八首になるのだが、高市氏は(高市県主・高市連)天津彦根の曾孫・彦伊賀都の後裔とされる天孫系氏族で、本拠地は大和国高市県(現在の奈良県高市郡および橿原市の一部)とされ、その首長として管掌(かんしょう)しており、天武天皇12年(683年)に連姓に改姓している。

一方、高市皇子(654?-696)は、天武天皇の皇子(長男)であり、生没年不詳の黒人と接触があったかどうかはわからないが、その息子である長屋王(676・684?-729)とは、どの時点でかわからないが交流があったように思う。

 

03 0270 客為而(かのために)物戀敷尓(ものがこひしき)山下(やまくだる)赤乃曽保船(あけのそほぶね)奥榜所見(おきこぐとみゆ)

 

03 0271 櫻田部(さくらだへ)鶴鳴渡(たづなきわたる)年魚市方(あゆちがた)塩干二家良之(しほひにけらし)鶴鳴渡(たづなきわたる)

 

【故地名】年魚市潟(あゆちがた)【故地説明】名古屋市熱田区・南区の西方一帯の低地帯。当時入り海で潟をなしていたところ

 

03 0272 四極山(よきやまの)打越見者(うちこえみれば)笠縫之(かさぬひの)嶋榜隠(しまこぎかくる)棚無小船 (たななしをぶね)

 

【故地名】笠縫の島(かさぬいのしま)【故地説明】所在未詳。大阪市東成区深江北・同南、生野区小路、東大阪市足代など一帯(往古、沼沢地、菅を産し笠縫氏の本居であったか)の地の一島か。東成区深江南3丁目には府史跡の摂津笠縫邑跡を有する深江稲荷(笠縫神社)がある。一説に愛知県渥美湾中の前島

 

03 0273 未詳

03 0273 礒前(いそのさき)榜手廻行者(こぎたゑゆけば)近江海(あふみのみ)八十之湊尓(やそのみなとに)鵠佐波二鳴 (こふさはになく)

 

【故地名】近江の海(おおみのうみ)【故地説明】琵琶湖

 

03 0274 吾船者(わがふねは)枚乃湖尓(ひらのみなとに)榜将泊(こぎはてむ)奥部莫避(おきへなさかり)左夜深去来 (さよふけにけり)

 

【故地名】比良の湊(ひらのみなと)【故地説明】位置未詳。比良川河口付近か

 

03 0275 何處(いづくにか)吾将宿(われはやどらむ)高嶋乃(たかしまの)勝野原尓(かちののはらに)此日暮去者 (このひくれなば)

 

【故地名】勝野の原(かちののはら)【故地説明】勝野から北の安曇川町にかけての平野

 

03 0276 妹母我母(いももわも)一有加母(ひとあるきかも)三河有(みかわゆは)二見自道(ふたみしみちの)別不勝鶴(わかれにたへず)

 

【故地名】二見の道(ふたみのみち)【故地説明】愛知県豊川市御油町と同市国府町との境で、東海道の本道と、県境の本坂峠を越えて浜名湖北岸をゆく姫街道との分岐点。一説に愛知県豊川市御津町大字広石

 

一本云 水河乃(みかはなる)二見之自道(ふたみのよみち)別者(わかれるも)吾勢毛吾文(わがせもわれも)獨可文将去(ひとりかゆかむ)

 

【故地名】三河(みかわ)【故地説明】国名。愛知県の東部。

 

03 0277 速来而母(はやきても)見手益物乎(みてましものを)山背(やましろの)高槻村(たかのつきむら)散去奚留鴨 (ちりにけるかも)

 

【故地名】高(たか)【故地説明】京都府綴喜郡井手町大字多賀の地。木津川東岸。小字天王山に高神社がある

 

03 0279 高市連黒人歌二首

03 0279 吾妹兒二(わぎもこに)猪名野者令見都(ゐなのもみせつ)名次山(なすきやま)角松原(つののまつばら)何時可将示(いつかしめさむ)

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【故地名】角の松原(つののまつばら)【故地説明】兵庫県西宮市津門の地。もとの武庫川の河口付近にあたり津門川町、津門西口町など津門のつく町名や松原町(松原神社がある)などの名がのこる

 

03 0280 去来兒等(ゆくこらは)倭部早(やまとへはやむ)白菅乃(しらすげの)真野乃榛原(まののはりはら)手折而将歸 (たをりてかえす)     

 

【故地名】大和(やまと)【故地説明】(倭・日本)大和朝延の勢力のおよんだ範囲をあらわす語で、奈良県天理市大和(大和神社がある)あたりの地方名から起こり、大和中央平原部、奈良県全体、近畿一帯から日本全国の総名へと発展したという。集中の歌は大和中央平原部・大和国(奈良県全体)・日本国の総名など種々に用いている

 

03 0281 黒人妻答歌一首

03 0281 白菅乃(しらすげの)真野之榛原(まののはりはら)徃左来左(ゆくさくさ)君社見良目(きみしはあらめ)真野乃榛原(まののはりはら)

 

【地名】真野【現在地名】神戸市長田区東尻池町、西尻池町、真野町などの一帯

 

この黒人の妻の歌をそのまま読み取れば、随分と皮肉にも聞こえるのだが、どうも憂さ晴らしのように、妻ではなく、自分自身で答えたものではないだろうか?

 

03 0283 高市連黒人歌一首

03 0283 墨吉乃(すみのえの)得名津尓立而(えなつにたちて)見渡者( みわたせば)六兒乃泊従(むこのとまりゆ)出流船人 (いづるふなびと)

 

【故地名】得名津(えなつ)【故地説明】大阪市住之江区の南部、住之江・西住之江・安立および住吉区墨江あたりから堺市の北部、浅香山町・遠里小野町にかけての当時の住吉浦にあった津、位置未詳

和銅6年(713年)には『風土記』の編纂と好字二字令(「諸国郡郷名著好字令」)を詔勅し、 晩年は、幼い首皇子の子孫に皇統が安泰して継承されるために手を打った。

和銅6年(713年)11月には、首皇子の異母兄弟たちを臣籍降下させ、首皇子が文武天皇の唯一の皇子となる。

そして、和銅7年(714年)正月、娘の氷高内親王に、将来の皇位継承を見越して、食封を1000戸に加増(内親王は二品で、令制では300戸が相当であった)され、同年6月、首皇子が立太子になる。

霊亀元年(715年)1月には、氷高内親王を一品に昇叙させ、翌2月、もう一人の皇女である吉備内親王を妃に迎えていた長屋王家を取り立て、吉備内親王所生の男女については、三世王でありながら、皇孫(二世)の待遇とすることとした。

これによって、長屋王は一世親王の待遇を得ることになり、草壁直系の皇統に対する「藩屏(はんぺい)」としての役割(皇室の守護)を果たすようになった。

 

皇太子となった首皇子であったが、当時の天皇は、皇太子として天皇の治世を補佐する期間を一定程度経ることが慣例として求められており、また皇太子は数え15歳で、天皇としては若年であったことから、715年9月2日、皇位を預かる後継者として、氷高内親王(元正天皇)に皇位を譲って、同日太上天皇となった。