長屋王、漢詩と倭歌

霊亀2年(716年)には正三位に叙せられた長屋王は、霊亀3年(717年)左大臣・石上麻呂が薨去すると、翌養老2年(718年)、参議・中納言を経ずに一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣・藤原不比等に次ぐ地位を占める。

五言 元日宴応詔 長屋王(717)

年光泛仙籞 年光仙籞(せんぎょ)に泛(うか)び「年初の日の光りは仙境に輝き

月色照上春 月色上春に照る          月の光は新春に照り輝いている

玄圃梅已故 玄圃(げんぽ)梅已に故(ふ)り  玄圃の梅は既に古びてはいるが

紫庭桃欲新 紫庭桃新ならむと欲す       宮中の桃が新たにならむとする

柳糸入歌曲 柳糸歌曲に入り          柳枝は歌曲に混じるかのように

蘭香染舞巾 蘭香舞巾に染む          蘭香も舞巾より染み渡っていく

於焉三元節 焉(ここ)に三元の節       この三元の節に倣うかのように     

共悦望雲仁 共に悦ぶ望雲の仁         共に悦び望雲の仁になるだろう」

20 4293 幸行於山村之時歌二首 先太上天皇詔陪従王臣曰夫諸王卿等宜賦和歌而奏即御口号曰[山村に幸行しし時の歌二首、先の太上天皇、陪従の王臣に詔して曰はく「夫れ諸王卿等、宜しく和ふる歌を賦みて奏すべし」とのりたまひて、即ち御口号みまして曰はく](717年9月)

20 4293 安之比奇能(あしひきの)山行之可婆(やまゆきしかば)山人乃(やまびとの)和礼尓依志米之(われにえしめし)夜麻都刀曽許礼(やまつとぞこれ)

 

やま-つと 【山苞】:山からの土産物。山里の土産。「やまづと」とも。

 

20 4294 舎人親王應 詔奉和歌一首

20 4294 安之比奇能’あしひきの)山尓由伎家牟(やまにゆきけむ)夜麻妣等能(やまびとの)情母之良受(こころもしらず)山人夜多礼(やまびとやたれ)

 

霊亀3年(717)第44代元正天皇(女帝)は、不破郡に行幸されるに先だって、8月7日從五位下多治比真人広足を美濃国に派遣して行宮を造らせて、9月18日不破の行宮に着かれ、相模・信濃・越中より以西の附近諸国司の政情を聞かれました。

9月20日多芸郡に行幸して多度山の美泉をご覧になり、随員や美濃国司らを表彰され、また不破・多芸2郡の当年の田租も免ぜられました。

 

又、美泉が出たことは大変めでたいことだというので、年号を改めて霊亀3年を養老元年とされました。

717年第八(九)回遣唐使には、多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(藤原宇合)(副使)が使節ととして派遣されたが、留学生には、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成などがおり、6月~7月頃に入唐して、10月に長安に到着した。

その時、長屋王が唐に送った千着の袈裟に「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」(別の場所に暮らしていても、自然の風物はつながっている。この袈裟を仏弟子に喜捨し、共に来世での縁を結ぼう)と刺繍されており、これに心を動かされた鑑真は日本行きを決意したという。

 

因みに、鑑真の渡日は天平勝宝5年(753)12月7日、屋久島(多禰国)であるが、奈良の朝廷への到着は、翌年、天平勝宝6年(754)2月4日である。

03 0300 長屋王駐馬寧樂山作歌二首(718)

03 0300 佐保過而(さほすぎて)寧樂乃手祭尓(ならのたましき)置幣者(おくぬさも)妹乎目不離(いもをめかれず)相見染跡衣(あひみしころも)

03 0301 磐金之(いはがねの)凝敷山乎(こごしきやまを)超不勝而(こしたえず)哭者泣友(なけばなくとも)色尓将出八方(いろにでむやも)

霊亀3年(717年)左大臣・石上麻呂が薨去すると、翌養老2年(718年)長屋王は参議・中納言を経ずに一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣・藤原不比等に次ぐ地位を占めていた。

 

養老3年(719年)新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、9月には - 天下の民戸に陸田を給する。

 五言 於宝宅宴新羅客賦得烟字(719)

高旻開遠照 高旻(こうびん)遠照開き       「高旻遠照をひらき

遥嶺靄浮烟 遥嶺浮烟靄(もや)なり         遥嶺は浮烟靄がかかる

有愛金蘭賞 金蘭の賞を愛でてこそ有れ        金蘭の賞と愛でる

無疲風月筵 風月の筵に疲るること無し        風月にあって筵に疲れなし

桂山餘景下 桂山餘景下り              桂山の餘景が下り

菊浦落霞鮮 菊浦落霞鮮かなり            菊浦も霞がかかり鮮やかなり

莫謂滄波隔 謂ふこと莫れ滄波隔つと         滄波隔つと謂うことなかれ

長為壮思篇 長く為さむ壮思の篇            長くなさむ壮士を編む

大伴 旅人(おおとも の たびと:665-731)は、和銅3年(710年)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として副将軍・穂積老と共に騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した。

和銅4年(711年)従四位下、和銅8年(715年)従四位上・中務卿、養老2年(718年)中納言、養老3年(719年)正四位下と元明朝から元正朝にかけて順調に昇進しにしており、この時期に検税使をも務めたかも?

 

03 0299 大納言大伴卿歌一首 未詳(719)

03 0299 奥山之(おくやまの)菅葉淩(すがのはしのぎ)零雪乃(ふるゆきの)消者将惜(けすもをしまむ)雨莫零行年(あめなふりかね)

 

養老4年(720年)2月29日に大隅守・陽侯史麻呂(やこのまろ:?-720)の殺害に端を発した隼人の反乱の報告を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。

 

5月頃軍営を張り、6月中旬までには一定の成果を上げたが、8月3日に右大臣・藤原不比等が亡くなったことから、8月12日に旅人は京に戻るよう勅を受ける。

五言 初春於作宝楼置酒(721)

景麗金谷室 景は麗し金谷の室

年開積草春 年は開く積草の春

松烟双吐翠 松烟双びて翠を吐き

桜柳分含新 桜柳分きて新しきことを含む

嶺高闇雲路 嶺は高くして雲路闇く

魚驚乱藻浜 魚は驚きて藻浜乱る

激泉移舞袖 激泉は舞袖に移り

流声韵松筠 流声は松筠に韵く

養老2年(718年)一品に昇叙された舎人皇子は、翌養老3年には元正天皇より異母弟の二品・新田部親王とともに皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の補佐を命じられ、また皇室の年長者として褒賞されそれぞれ内舎人・大舎人・衛士・封戸を与えられた。

養老4年(720年)5月には、自らが編集を総裁した『日本書紀』(紀30巻・系図1巻)を奏上している。

養老4年(720年)8月に藤原不比等が薨去すると、翌養老5年(721年)正月に長屋王(676-729)は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。

 

なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂(むちまろ:680-737)と参議の房前(681-737)のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王(676-735)とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。

とはいえ、政権を握った長屋王だが、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出していた。

一方で、律令制支配の浸透によって蝦夷や隼人では反乱が頻発しており、長屋王は朝廷の最高責任者として機敏な対処を行い、速やかな反乱の鎮圧を実現している。

例えば養老4年(720年)9月には、蝦夷の反乱により陸奥按察使・上毛野広人が殺害されると、連絡を受けた翌日には鎮圧に向けて遠征させるために持節征夷将軍・多治比県守と持節鎮狄将軍・阿倍駿河らに節刀を授けていた。

 

09 1706 舎人皇子御歌一首(721)

09 1706 黒玉(くろたまの)夜霧立(よぎりはたちぬ)衣手(ころもでの)高屋於(たかやにおいて)霏霺麻天尓(たなびくまでに)

 

この高屋がどこを指しているのかわからないが、高屋【現在地名】奈良県桜井市【故地説明】奈良県桜井市高家(飛鳥の東方多式峰の中腹、飛鳥坐神社の北、八釣から2キロ余り登ったところ」と言われると、深読みができるかもしれない。

皇親体制の復活・強化を意図していた元明上皇・元正天皇であったが、房前を重視する姿勢を明確にするようになる。

 

翌養老5年(721年)正月に武智麻呂・房前兄弟は揃って従三位に昇進し二人の位階の差がなくなるが、房前は従四位上から三階の昇進によるものであったけれど、この時武智麻呂は参議を経ずに中納言に任官し、太政官の席次では武智麻呂が上位となる。

また同じ正月に、元正天皇の詔により、佐為王(?-737)・紀男人(682-738)・山田三方(生没年不明)らが、退朝後に教育係として皇太子・首皇子(20:聖武天皇)に侍することを命じられている。  

山田三方:『懐風藻』に大学頭在任時に作成した3首の漢詩作品『秋日於長王宅宴新羅客』(720)『七夕(しちせき)』『三月三日曲水宴』が採録されているが、『万葉集』には、房前の邸のことも歌っている。

 

19 4227 大殿之(おほとのの)此廻之(ここをめぐりし)雪莫踏祢(ゆきなふみ)數毛(しばしばも)不零雪曽(ふらざるゆきぞ)山耳尓(やまのみに)零之雪曽(ふりゆくゆきぞ)由米縁勿(ゆめよるな)人哉莫履祢(ひとやふみなき)雪者(そそぎたるもの)

 

廻:[音]エ(呉)カイ(漢)[訓]まわ-る・まわ-す・もとお-る・めぐ-る・めぐ-らす・じゃく・ざこ

『祢』の字には少なくとも、祢(ネ)・ 祢(ナイ)・ 祢(デイ)・ 祢(セン)・ 祢(みたまや)・ 祢(かたしろ)の6種の読み方が存在する。

『數』の字には少なくとも、數(ソク)・ 數(ソ)・ 數(スウ)・ 數(ス)・ 數(ショク)・ 數(ショ)・ 數(シュク)・ 數(シュ)・ 數(サク)・ 數(しばしば)・ 數える(かぞえる)・ 數(かず)の12種の読み方が存在する。

『零』の字には少なくとも、零(レン)・ 零(レイ)・ 零(リョウ)・ 零る(ふる)・ 零れる(こぼれる)・ 零ちる(おちる)・ 零り(あまり)の7種の読み方が存在する。

『耳』の字には少なくとも、耳(ニョウ)・ 耳(ニ)・ 耳(ジョウ)・ 耳(ジ)・ 耳(みみ)・ 耳(のみ)の6種の読み方が存在する。

『之』の字には少なくとも、之(シ)・ 之く(ゆく)・ 之(の)・ 之(これ)・ 之の(この)の5種の読み方が存在する。

『由』の字には少なくとも、由(ヨウ)・ 由(ユウ)・ 由(ユイ)・ 由(ユ)・ 由(よし)・ 由る(よる)・ 由ごとし(なお…ごとし)の7種の読み方が存在する。

『米』の字には少なくとも、米(メートル)・ 米(メ)・ 米(マイ)・ 米(ベイ)・ 米(よね)・ 米(こめ)の6種の読み方が存在する。

『縁』の字には少なくとも、縁(タン)・ 縁(エン)・ 縁(よすが)・ 縁る(よる)・ 縁(ゆかり)・ 縁(へり)・ 縁(ふち)・ 縁(えにし)の8種の読み方が存在する。

『勿』の字には少なくとも、勿(モチ)・ 勿(ボツ)・ 勿(ブツ)・ 勿れ(なかれ)の4種の読み方が存在する。

ゆめ 【努・勤】:〔下に禁止・命令表現を伴って〕決して。必ず。

 

19 4228 反歌一首

19 4228 有都〃毛(ありつつも)御見多麻波牟曽(みしたまはむぞ)大殿乃(おほとのの)此母等保里能(このもとほりの)雪奈布美曽祢(ゆきなふみそね )

 

『御』の字には少なくとも、御(ゴ)・ 御(ゲ)・ 御(ギョ)・ 御(ガ)・ 御(み)・ 御(おん)・ 御める(おさめる)・ 御(お)の8種の読み方が存在する。

『見』の字には少なくとも、見(ゲン)・ 見(ケン)・ 見(カン)・ 見る(みる)・ 見せる(みせる)・ 見える(みえる)・ 見える(まみえる)・ 見れる(あらわれる)の8種の読み方が存在する。 御(み)+ 見る(みる)=(み)

 

19 4228 右二首歌者三形沙弥承贈左大臣藤原北卿(房前)之語作誦之也 聞之傳者笠朝臣子君 復後傳讀者越中國掾久米朝臣廣縄是也[右の二首の歌は、三形沙弥の、贈左大臣藤原北卿の語(ことば)を承(う)け、依りて誦(よ)めり。聞きて伝ふるは笠朝臣子君。また後に伝へ読むは、越中國の掾久米朝臣廣縄、これなり] (722)

 

この歌の真意がどこにあったのかわからないが、養老5年(721年)正月に佐為王・山上憶良らと共に退朝後に教育係として皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられ、さらに同月元正天皇が学問に優れた者を褒賞した際には、文章に優れるとして絁15疋・絹糸15絇・麻布30端・鍬20口を賜与されていた三方は、養老6年(722年)には周防守在任中に官物を不正に横領した罪について、本来は免官となるべきところ恩赦により赦される。

養老5年(721年)正月に武智麻呂・房前兄弟は揃って従三位に昇進し二人の位階の差がなくなるが、房前は従四位上から三階の昇進によるものであり、そのお祝いかと思ったが、おそらく恩赦の御礼の歌であろうと思う。

長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す。

 

養老5年(721年)3月:水害と干魃に起因する貧窮対策として、平城京および畿内の公民に対して1年間の調を免除し、他の七道諸国の公民に対しても同様に夫役を免除する。

養老5年(721年)6月:前年度発生した隼人や蝦夷の反乱鎮圧のための兵役の負荷軽減対策として、陸奥と筑紫の公民に対して1年間の調・庸を免除し、戦場で死亡した者は、その父子ともに1年間の租税を免除する。

 

しかし、同年10月には元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と共に一介の参議であった房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を祖父・鎌足以来の内臣に任じて、元正天皇の補佐および皇太子・首皇子の後見役を託した。 

 

境部王:霊亀3年(717年) 正月:従四位下(直叙) 養老5年(721年) 6月:治部卿

    漢詩二首:『宴長王宅』『秋夜山池』

 

16 3833 境部王詠數種物歌一首 穂積親王之子也(721)

16 3833 虎尓乗(とらにのり)古屋乎越而(ふるやをこえて)青淵尓(あをふちに)鮫龍取将来(みづちとりこむ)劔刀毛我(つるぎたちもが)

 

長屋王家木簡には、境部王の名があり、長屋王との親交が窺われるのだが、この歌はそのエールのように思えるのだ。 

養老五年(721)正月に、従三位となっていた旅人が、同年、元明上皇が崩御(十二月七日)し、翌日陵墓の造営にも当たる。

03 0424 隠口乃(こもりくの)泊瀬越女我(はつせをとめが)手二纒在(てにまける)玉者乱而(たまはみだれて)有不言八方(ふげんありやも)

03 0425 河風(かはかぜの)寒長谷乎(さむきはつせを)歎乍(なげきつつ)公之阿流久尓(きみがあるくに)似人母逢耶(ひとにもあふや) 

03 0425 右二首者或云紀皇女薨後山前王(?-723)代石田王作之也[右の二首は、或は云はく「紀皇女の薨りましし後に、山前王、石田王に代りて作れり」といへり]

梅原猛著『黄泉の王』では『万葉集』を根拠に、紀皇女は文武天皇の妃であったが弓削皇子と密通し、それが原因で妃の身分を廃されたという仮説を述べている。

 

16 3833 境部王詠數種物歌一首[境部王の、数種の物を詠める歌一首] 穂積親王之子也(722)

16 3833 虎尓乗(とらにのり)古屋乎越而(ふるやをこえて)青淵尓(あをふちに)鮫龍取将来(みづちとりこむ)劔刀毛我(つるぎたちもが)

 

19 4227 大殿之(おほとのの)此廻之(このもとほりの)雪莫踏祢(ゆきもふみ)數毛(しばしばなるも)不零雪曽(ふるゆきぞ)山耳尓(やまのみに)零之雪曽(こぼれしゆきぞ)由米縁勿(ゆめよりも)人哉莫履祢(ひとやふみなく)雪者(そそぐものなり)

 

『莫』の字には少なくとも、莫(モ)・ 莫(ミャク)・ 莫(マク)・ 莫(ボ)・ 莫(ベキ)・ 莫(バク)・ 莫(なかれ)・ 莫い(ない)・ 莫しい(さびしい)・ 莫れ(くれ)の10種の読み方が存在する。

『祢』の字には少なくとも、祢(ネ)・ 祢(ナイ)・ 祢(デイ)・ 祢(セン)・ 祢(みたまや)・ 祢(かたしろ)の6種の読み方が存在する。

『不』の字には少なくとも、不(ホツ)・ 不(ホチ)・ 不(ブチ)・ 不(ブ)・ 不(フツ)・ 不(フウ)・ 不(フ)・ 不(ヒ)・ 不(…ず)の9種の読み方が存在する。

『零』の字には少なくとも、零(レン)・ 零(レイ)・ 零(リョウ)・ 零る(ふる)・ 零れる(こぼれる)・ 零ちる(おちる)・ 零り(あまり)の7種の読み方が存在する。

不(フ)+零る(ふる)=(ふる)

『縁』の字には少なくとも、縁(タン)・ 縁(エン)・ 縁(よすが)・ 縁る(よる)・ 縁(ゆかり)・ 縁(へり)・ 縁(ふち)・ 縁(えにし)の8種の読み方が存在する。

『勿』の字には少なくとも、勿(モチ)・ 勿(ボツ)・ 勿(ブツ)・ 勿れ(なかれ)の4種の読み方が存在する。

『哉』の字には少なくとも、哉(サイ)・ 哉(や)・ 哉(かな)・ 哉(か)の4種の読み方が存在する。

『雪』の字には少なくとも、雪(セツ)・ 雪(ゆき)・ 雪ぐ(そそぐ)・ 雪ぐ(すすぐ)の4種の読み方が存在する。

 

19 4228 反歌一首

19 4228 有都〃毛(ありつつも)御見多麻波牟曽(みせたまはむぞ)大殿乃(おほとのの)此母等保里能(このもとほりの)雪奈布美曽祢(ゆきなふみそね)

 

『御』の字には少なくとも、御(ゴ)・ 御(ゲ)・ 御(ギョ)・ 御(ガ)・ 御(み)・ 御(おん)・ 御める(おさめる)・ 御(お)の8種の読み方が存在する。

『見』の字には少なくとも、見(ゲン)・ 見(ケン)・ 見(カン)・ 見る(みる)・ 見せる(みせる)・ 見える(みえる)・ 見える(まみえる)・ 見れる(あらわれる)の8種の読み方が存在する。

御(み)+見る(みる)=(み)

 

 

19 4228 右二首歌者三形沙弥承贈左大臣藤原北卿之語作誦之也 聞之傳者笠朝臣子君 復後傳讀者越中國掾久米朝臣廣縄是也[右の二首の歌は、三方沙弥が贈左大臣藤原北卿のことばを承けて口誦した。 これを聞いて伝えた人は笠朝臣子君で、さらに後に伝え口吟した人は、越中国の掾久米朝臣広縄その人である] 

養老6年(722年)2月:諸衛府の衛士の役務期間が長すぎて逃亡が相次いでいたことから、勤務年限を3年とし必ず交替させる。

養老6年(722年)閏4月:陸奥按察使管内の公民の調・庸を徐々に免除して、農耕と養蚕を勧奨して、馬と弓を習得させ、辺境を助けるための租税として麻布を徴収することとし、蝦夷に与える禄に充当する。

陸奥国出身で朝廷に仕えている者(衛士・資人・采女など)は全員本国に帰国させてそれぞれの地位に戻す。

また、長屋王政権における重要な民政策として開田策があり、秋の収穫後に10日を限度として人民を賦役させ、官粮や官の調度を活用して、諸司の裁量のもとで良田100万町歩の開墾を進めることとし、故意に開墾を進めない場合は官職を解任する(百万町歩開墾計画)。

養老7年(723年)4月:日向・大隅・薩摩の各国は兵役の負荷が重く、兵役の後に飢饉や疫病が発生していることから、3年間租税を免除する。

 さらに、人口の増加に伴う口分田の不足に対応するために、田地の開墾を奨励することとし、新たに田地を開墾した場合は三代目まで、田地を手入れして耕作できるようにした場合は本人の代のみ、それぞれ田地の所有を認める(三世一身法)。

安倍広庭

03 0302 中納言安倍廣庭卿歌一首(722)『春日侍宴』『秋日於長王宅宴新羅客』

03 0302 兒等之家道(こらがみち)差間遠焉(しばしとおきを)野干玉乃(ぬばたまの)夜渡月尓(よわたるつきに)競敢六鴨(きほひありかも)

 

『家』の字には少なくとも、家(コ)・ 家(ケ)・ 家(カ)・ 家(や)・ 家(うち)・ 家(いえ)の6種の読み方が存在する。

『道』の字には少なくとも、道(ドウ)・ 道(トウ)・ 道(みち)・ 道う(いう)の4種の読み方が存在する。

『差』の字には少なくとも、差(タ)・ 差(セ)・ 差(シャ)・ 差(シ)・ 差(サイ)・ 差(サ)・ 差わす(つかわす)・ 差う(たがう)・ 差す(さす)の9種の読み方が存在する。 『焉』の字には少なくとも、焉(オン)・ 焉(エン)・ 焉(イ)・ 焉(これ)・ 焉に(ここに)・ 焉んぞ(いずくんぞ)の6種の読み方が存在する。

きほひ 【競ひ】:激しい勢い。気勢。張り合うこと。競争。張り合う勢い。余勢。

『六』の字には少なくとも、六(ロク)・ 六(リュウ)・ 六(リク)・ 六つ(むっつ)・ 六(むい)・ 六つ(むつ)・ 六(む)の7種の読み方が存在する。 

 

養老5年(721年)には正四位下・左大弁に叙任されるなど、元正朝でも要職を務めながら引き続き順調に昇進した広庭は、養老6年(722年)参議に任ぜられて公卿に列し知河内和泉事も兼ねた。 

どの様なときにこの歌が歌われたかわからないが、つい偽果次へと知出す長屋王の政策に老婆心を示したもののように思われてならない。

神亀元年(724年)2月に聖武天皇の即位と同時に議政官全員に対する昇叙が行われ、この結果、長屋王は正二位・左大臣に進むが辛巳(しんし)事件が起きる。